父親による姉弟への悪魔のような性虐待と精神支配の末、弟は自ら命を絶った。亡くなった弟のため、そして自分のために立ち上がった塚原たえさん(51)は実名告発を決心。性暴力の実情を長年取材するジャーナリストの秋山千佳氏が徹底取材した。

【写真】父親の性虐待について覚悟の実名告発を行った塚原たえさん(51)

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「和寛は死んでも構わない」

 2021年10月。塚原たえ(51)は、知人にいない「中村」姓の人物からの手紙を受け取った。相手の住所にも見覚えがない。

 封を開けると、1枚の便箋が出てきた。

 前略

 元気でいる事と思います

 私も終活の年となり子供の相続意志確認したく

 連絡をとりたいと思います

 人でなしの親のせいで貧乏し皆気が狂ってしまいました

 皆深い傷を負いました よく生きていてくれたと思います

 20年以上連絡を絶ってきた実の父親(73)からだった。なぜ今の住所がわかったのか。混乱、恐怖、怒り……体の震えが止まらなくなった。

 翌年1月、たえは体調の落ち着いた日を選んで、便箋にあった番号へ電話をかけた。相続放棄の意向を伝えるため、そして弟の和寛(仮名)のことで重大な報告があった。

 電話口で、たえは声に動揺を出さないようにしながら伝えた。

「和寛は、自殺したよ」

 父親は、息子の死にまったくうろたえず、あっさり言った。

「和寛は死んでも構わないけど、たえちゃんが死ぬのは嫌だよ」

 この電話からおよそ2年が経つ今、たえは振り返って目を赤くする。

父親からの手紙 ©文藝春秋

「和寛は死んでも構わない、という一言で、これまで隠してきた性虐待を明るみに出そうという気持ちに火がつきました。父親にとって、子どもたちはあくまで性の道具でしかない。あんたのせいで死んだんだよと……。私と同じ境遇で同じように苦しんだ弟が生きた証を残したいし、弟の代弁をできるとしたら私だけだと思っています」

 たえの手元に、和寛の写真はわずかにしか残されていない。

「これは私が2歳、弟が1歳くらいですかね。いつも裸で撮られていて、寝ているところも多い。父親はこの頃からそういう対象として見ていたのかなと思います」

 和寛はたえの1学年下だが、正確にいうと11カ月しか差がない。母親の産褥期が明けるかどうかという時期でも父親が性行為を強いたのだろう、とたえは見ている。

初めて性虐待を受けたのは9歳の時

 姉弟は山口県内で生まれ育ったが、たえには小学3年生以前の記憶があまりない。父親は長距離トラックの運転手をしていたが、その時期に仕事を辞めて家にいるようになり、母親が家計を担うようになった。

 初めてたえが性虐待を受けたのはこの頃、9歳の時だ。父親から指や異物を膣に入れられるようになった。

 身体的虐待も激化した。それは和寛に対しても同様だった。

 屋外にある風呂に連れていかれ、“行水”と称して何十回と水の中に顔を沈められた。息ができず「苦しいな、早く楽になりたいな、このまま死ねたらいいのに」と考えたことが、たえの最も古い記憶の一つだ。

 季節問わず、裸にされて屋外へ放り出されることもしばしばだった。

「当然、近所中に見られます。行水の時だって私たちの悲鳴が響き渡るわけです。それで通報してくれる人がいて、警察官が駆けつけることもありました。けれど父親が『しつけのためにやった』と言うと、警察官も『ほどほどに』で帰ってしまう。そんなことがしょっちゅうあったんですけど、当時の警察はそれ以上動こうとしませんでした」

 近所の人は次第に、通報しても無駄だと学習したようだ。

 和寛が小学3年生のある夕方のこと。父親から裸で後ろ手に縛られ、腰にロープを巻いて車の後部につながれ、父親の運転するその車に引きずられたことがあった。まだ明るい時間帯であり、近所の人たちも目にしたが、止めに入る者はいなかった。

「普通に考えたら、殺人行為じゃないですか。だけどそれすら誰も助けてくれなかったんです。『あの子かわいそうだよ、誰か助けてやりなよ』と言い合うだけで終わりました。あの父親は怖い、何をされるかわからないというイメージが周囲にも植え付けられていたのでしょう」

 この年、和寛の担任だった男性教師が放課後に訪ねてきて「和寛君とたえさんを養子にしたい」と父親に申し出たことがあった。父親は腰を据えて話すことなく追い返した。たえは成人後、教師の連絡先を探し出してお礼を言ったことがある。地元では唯一、姉弟を助けようとしてくれた大人だったからだ。

 同じ頃、東京で女優として成功している叔母も「2人を養子にしたい」とやってきた。虐待の噂を親族から聞きつけ、心痛めたのだろう。しかしこの時も父親は突っぱねた。

 姉弟に共通していたのは「大人は助けてくれない」という認識だった。2人とも感情を顔に出すことは滅多になく、言葉にすることもなかった。

ダンボールに隠れて「2人で生活しようね」

 姉弟間でのコミュニケーションは、アイコンタクトが基本だった。

 数少ない子どもらしい情景として、姉弟でテレビの前に並んで座り『8時だョ! 全員集合』を観たことがたえの記憶に残っている。「面白いね」と笑っていると、父親が不機嫌になり「こんなの見てるんじゃねえ」と言い出した。姉弟はいつものようにアイコンタクトを取って、居間から離れた。

 父親が留守にしていて姉弟でキャッチボールをした時には、帰ろうとすると、父親の車が戻っていた。2人とも足がすくみ、近所の墓地へダンボールを持っていって隠れた。

「子どもって無力じゃないですか。逃げたくてもどうしたらいいのかわからない。だからその時はダンボールに隠れて『ここでずっと2人で生活しようね』と言いました。当然すぐ見つかってしまったんですけど。弟とはお互いの辛さがわかるぶん、助け合いの気持ちがあり、姉としては本当に逃してやりたかった」

 和寛が裸で屋外へ放り出された際、たえが木戸の枠の壊れた隙間からバスタオルなどを渡して「逃げな」と言ったことがある。和寛は渡されたものをまとって逃走したが、すぐ誰かに捕まって家に戻された。和寛はこの後、父親からの逃走を試みるようになる。

和寛もまた、性虐待を受けていた

 たえは11歳になり、小学5年生から6年生になる頃、初潮を迎えた。

 父親はその日、異様に上機嫌だった。日頃は金がないと言っているのに「お祝いだ」とケーキを買ってきた。

 夜、たえだけが父親に呼ばれて「布団に入れ」と言われた。

「その日初めて挿入されたんです。父親が布団をめくって、隣の布団に座っていた母親に『ほら見ろよ、入った入った』と言いました。母親も『何やってんの』と笑っていました。それが性被害と言われるものだと理解するのはもっと後のことで、その時点での認識は、気持ち悪い、痛い、苦しい。和寛は別の部屋にいました」

 たえは後年、母親に「どうしてあの時助けてくれなかったの」と問い詰めている。たえ自身が母になろうとしているタイミングのことで、普通は娘のために体当たりしてでも、もっと言えば殺してでも助けるべきではないかという思いが高じたためだ。

 母親は「怖かったから」と答えた。母親も壮絶なDVを受けていた。たえが言う。

「正直に言えば、母親もかわいそうな人ではありました。中絶は11回していますし、暴行を受けて血まみれで救急車で運ばれたことも何回かあります。顔にはいまだに傷跡が残っていますが、その傷を負った日には縫ってすぐに仕事へ行かされたそうです」

 母親にも被害者の側面があるとはいえ、たえや和寛が「大人は助けてくれない」と絶望した最大の理由は、最も身近な大人である母親が助けてくれなかったことだった。

 和寛もまた、性虐待を受けていた。

 たえがそれを知ることとなったのは、和寛が小学6年生の時だった。

「最初に私が目にしたのは、口腔性交でした。和寛が裸で後ろ手に縛られて、ああしろ、こうしろと命令されていました」

本記事の全文、および秋山千佳氏の連載「ルポ男児の性被害」は「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

 

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(秋山 千佳/文藝春秋 電子版オリジナル)