2019.07.10

ジャニー喜多川氏「奇跡の5時間インタビュー」を全文公開する

彼はどう生き、何を考えたのか
現代ビジネス編集部

「しかし」と、柳井は続ける。

「たしかに3人を選んだのは僕だけど、そうした素材を探してレッスンしていたのはジャニーさんだし、スターとして育てたのも彼だからね」

ジャニーはジュニアの選び方で「誰でもいい」という表現をしていた。その言葉の裏には「僕は誰でもスターにしてあげられる」という意味が含まれていたのかもしれない。

-AD-

「王子様」をやめたSMAPの成功

たのきんトリオの成功はジャニーズ事務所を一気に復活させた。しかし、事務所が芸能界で圧倒的な力を持ち、'80年代の覇者に昇りつめるのはシブがき隊以降の話であろう。'85年少年隊、'87年光GENJI、'88年男闘呼組と、デビューするグループすべてがナンバー1ヒットを飛ばすという快挙をジャニーズ事務所は成し遂げたのだ。

売り出し方のスタイルも変わった。シブがき隊を最後に、ドラマがきっかけとなりメジャーデビューするというスタイルは終わり、それに代わって再び歌手デビューを中心に戦略が組み立てられた。この時期に、ジャニーズ事務所のお家芸ともいえる勝利のデビューパターンが確立されていく。

その典型的な例が少年隊であろう。'82年1月、彼らは近藤真彦のバックとして結成され、その後ドラマ、映画、ミュージカル出演、ソロコンサートまで開き、着実にファンを広げていく。しかし、レコードデビューしたのは'85年12月と、結成後まる4年近い歳月が経っていた。もちろんレコードデビュー前から人気は高く、デビュー曲は当然のごとく1位。翌年の新人賞を総ナメにした。

「それは、僕もどこかで羨ましいなと思っていましたよ。レコード出るっていうのはいいなって」と、結成からデビューまでの待ち遠しかった気持ちを少年隊の錦織は思い出す。

しかし、デビューが待ち遠しかったのは彼らだけではい。彼らのファンたちも同じなのである。そうしたファンたちの飢餓感や待望感が頂点に達した時、ジャニーズのタレントたちはレコードデビューする。

'88年の男闘呼組デビュー以降も、基本的なジャニーズ事務所の戦略は変わらなかった。しかし、社会は微妙に変化していた。歌謡番組の衰退である。光GENJIがデビューした'87年には、テレビだけで歌番組が週に4つもあった。

ところが、'90年前後に歌番組は次々と終了して、バラエティ番組が幅をきかせていく。そのため'90、'91年にデビューした忍者とSMAPは、内輪のジャニーズファンには騒がれたが、すぐに広範囲の人気を集めるに至らなかった。

--AD--
テクノロジートレンドを理解し、自社の力を伸ばすヒントを探る 現代ビジネスサミット2023 秋
関連タグ