歴史は、時代はこの青年にどれだけの重荷を与えようというのか…羽生結弦「氷上を苦悶する、美。そして、闇。」

日野百草
公開)

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

(前編より続く)

目次

羽生結弦が羽生結弦の見つめる眼もまた、厳しい

NNNドキュメント『「職業 羽生結弦」の矜持』

 羽生結弦は「羽生結弦という緊張」という言葉で「矜持」を表現した。

 羽生結弦を見つめるもうひとりの羽生結弦が羽生結弦に求める緊張、これは氷上に限らず「素材として頑張る」「素材として輝く」という表現にも顕れている。

 羽生結弦が羽生結弦の見つめる眼もまた、厳しい。

 このメタ認知能力と言うべき「もうひとりの自分」といかに対峙するかは、人としての霊性の問題にもつながる。

羽生結弦という存在そのものがある種の哲学的存在

 この「霊性」、れっきとした日本文化にも備わっている。思想家、鈴木大拙はこれを『日本的霊性』として記した。詳しくは主題ではないため置くが、私たち日本人はこの「日本的霊性」から逃れられない。単純に「禅」的思想としてもいいだろうし、『鶏と蛇と豚』で私たちを驚かせた般若心経でもいいだろう。あの『SEIMEI』もまたそう捉えて構わない。

 自己を見つめる自己ともうひとりの自己、意識と末那識、そして霊性という部分が羽生結弦の「深み」、すなわち日本的な「侘び寂び」の根底にある。羽生結弦という存在そのものがある種の哲学的存在(或いは幾何学的存在)でもあるといっても構わないのだが、ゆえに羽生結弦を理解し得ない者はある。

 私たちは本当に、この羽生結弦という最重要の「存在」をこの国にかかえてしまった。私たちはそういう時代に、歴史の中にいる。その重要性は羽生結弦と共にある人々ならすでに気づいていることだろう。

 それにしても厳しい姿だった。「すべらないと劣化する」「マイナスになる」とまで自己を追い詰めている。誰に勝つでなく自己に勝つ、いや、勝ち負けの次元はとうに過ぎている。

真っ暗だからこそ無限大

 羽生結弦は「アスリートでありアーティストであり、エンターテインメント、それをフィギュアで表現」と自分から言葉にした。これもまた「矜持」だ。

 アスリートとしての表現であれ、アーティストとしての表現であれ、エンターテインメントとしての表現であれ、すべてが「フィギュアである必然性」に帰結している。これは羽生結弦という存在の大前提、だからこそ『阿修羅ちゃん』も成立する。芸術運動としての前衛とはそうして前に進む。

 羽生結弦は「その先なんか見てない」と言った。

 「真っ暗だからこそ無限大」とも。素直な心境の発露だと思う。

 そしてこう語った「真っ暗を大切に」と。

 真っ暗だからこそ無限大で、真っ暗だからこそ輝くものがある。震災の真っ暗に輝いた星々、羽生結弦にとっての矜持を支える星々、それは大切な人々であり、羽生結弦と共にある人々でもある。そうして、羽生結弦はあの地獄のような肉体的にも、精神的にも残酷な日々を続けているというのか、羽生結弦の矜持には利他も備わっている、だからこその責務。

歴史は、時代はこの青年にどれだけの重荷を与えようというのか

 歴史は、時代はこの青年にどれだけの重荷を与えようというのか、そして羽生結弦という存在はそれをこれまでも、そしてこの先も見ていないままに氷上のストーリーを綴り続ける。

 たくさんのプログラム、たくさんの素晴らしい作品、このすべてが、あれだけの艱難辛苦によって生まれている。

 だからこそプログラムは「この子たち」ということか。

 母親の生みの苦しみと喜び、そして無償の愛、生きとし生ける者すべての源泉に共通するこの奇跡を経ているからこそ、羽生結弦のプログラムもまた輝く。

 羽生結弦はプロとして自分自身と対峙し続ける。ぶっ壊れる寸前まで。アスリートとしての矜持、アーティストとしての矜持にエンターテインメントとしての矜持、羽生結弦である必然はこれほどまでに背負わなければ成立しないというのか。

まったく残酷だ。あれほどの苦しみを経なければならないのか

 まったく残酷だ。あれほどの苦しみを経なければならないのかと思うと、よりいっそう羽生結弦のプログラムが、演技が愛おしくなる。残酷だから美しく、愛おしい。ゆえに芸術なのだ。

「いつも動けなくなる」

「いつ壊れてもおかしくない」

「怪我するかしないか」

「うまくなれない」

「すべらないと劣化する」

「マイナスになる」

「終わったと思われたくない」

 ドキュメンタリーの中で羽生結弦の言葉が、観ている側にも突き刺さる。傍観者でいられない焦燥感にかられる。

氷上を苦悶する、美。そして、闇。

 氷上を苦悶する、美。そして、闇。

 こうした闇があるからこその光、羽生結弦のあの笑顔はこうした地獄を経て生まれた無垢の笑顔というのか。行き着くところまで行き着いた先に光がある。インド哲学における循環たる「ユガ」は闇に帰結して、再び光となる。

 真っ暗がなければ光はない、あの笑顔は生まれない。

 羽生結弦の笑顔は作るのではなく生まれる。

 しかしその裏にはあれほどの苦しみの日々という「真っ暗」がある。

 だからこそ羽生結弦は「矜持の人」であり続ける。多くの人々が、羽生結弦と共にある人々もまた、闇であろうと光であろうと共にあり続ける、羽生結弦と共にある人々も「矜持の人」である。

 話の尽きぬほどに見どころばかりの有意義なドキュメンタリーであったが、NNNドキュメント『「職業 羽生結弦」の矜持』とは羽生結弦を知る上で重要な資料として後世に残るというだけでなく、私たちも含めた人間の普遍的な学びとしても、多くの未来ある子どもたちにとっての情操教育にも堪え得る、素晴らしい作品だったと確信する。

 羽生結弦も私たちも、矜持の人として、共に歴史を歩む、共に創る。

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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