羽生結弦の研鑽という名の「地獄」はかくも残酷な道だった…冷静と狂気こそが天才の所以
目次
私が戦士である、という絶対的な誇り
「矜持」とは、相対的でない、絶対的な価値観である。
誰とも比べない。ただひたむきに自己と向き合い、自己の研鑽と自分の思う「道」を歩み続ける者の自負、それが矜持である。
かつて古代中国の戦士は矛を持ち、敵と対峙する時にこの矜持を胸に戦った。これが武士道にも通じる「矜持」の語源とされるが、己のみを信じる、己のこれまでを信じる。
誰でない、私が戦士である、という絶対的な誇り。でなければ己の命をかけることなど無理だろう。それこそが「矜持」である。
何と肉体的にも、精神的にも残酷な日々を自らに課しているのだろう
ゆえに、羽生結弦は「矜持の人」だ。
それにしてもこの「矜持」という言葉、いい。
日本テレビ系列、NNNドキュメント『「職業 羽生結弦」の矜持』のタイトルは秀逸だと思う。
この「矜持」がいい。安易に「プライド」と使わない。名づけた担当者は、きちんと「矜持」と「プライド」の区別がついている。
プライドは相対的なものだ。誰かと比べるとか、帰属している場があっての誇りや自負だ。矜持は違う、裏打ちされた自信という絶対的な価値観で己と闘って得るものであり、それを示す姿勢も伴ってこその「矜持」である。
つまり、羽生結弦という存在である。
それにしても何と肉体的にも、精神的にも残酷な日々を自らに課しているのだろう。
羽生結弦の研鑽という名の「地獄」はかくも残酷な道だった
競技時代とまったく変わらない。いや、さらに過酷な日々、全身に鞭を打つかのように限界まで滑り、跳び、演じる。
苦悶の表情と荒ぶる息遣い、そして咆哮。
跳び続けて50分、知っているつもりでいた羽生結弦の研鑽という名の「地獄」はかくも残酷な道だった。
「いつも動けなくなる」
「いつ壊れてもおかしくない」
「怪我するかしないか」
と、語る羽生結弦は美しくも残酷な氷上をアスリートとして、アーティストとして闘ってきた。
いま、エンターテインメントという「プロ」としての使命を自らに課した羽生結弦は、さらなる地獄の闘いに自らを追い詰め、未踏の革新を成し遂げようというのか。
羽生結弦が魅せてくれる世界を渇望している
私は「課した」と書いたが、これを「責務」としても構わないだろう。羽生結弦の矜持とは責務も課している。
責務とは「ノブレス・オブリージュ」、西欧の騎士道の考え方だ。天から才能を授けられ、誰からも知られ愛される存在として氷上に立った羽生結弦の矜持にはこの「ノブレス・オブリージュ」、責務もまた備わっているように思う。
多くの人々が羽生結弦の作品を待ち望んでいる。
羽生結弦が魅せてくれる世界を渇望している。
時代の子であり、歴史の人である羽生結弦はそうした残酷な運命にある。だからこそ美しく、私たちを魅了する。
芸術とは本当に残酷な世界だ。選ばれてしまった、引き受けてしまった、時代に望まれた羽生結弦という存在は矜持という武士道と、責務という騎士道とを併せ持ち、その通りに「命」をかけて闘っている。
羽生結弦と、闘っている。
冷静と狂気こそが天才の所以だ
然るに『「職業 羽生結弦」の矜持』とは、その赤裸々な姿を映し出した点でも秀逸なドキュメンタリーであった。もはや誰とも闘う必要のなくなった戦士だというのに自分自身と闘い続けている。それはやはり、羽生結弦という存在が「矜持の人」であるという証左なのだろう。
「競技時代よりもきつい練習」――ある意味、相対的に点数の出ない芸術とエンターテインメントの世界に足を踏み入れた王者、羽生結弦はさらに自己を追い詰めなければならなくなったのかもしれない。誰が決めるものではない世界、それは際限のない自分との無限の闘いであり、無間地獄でもあった。あの練習メモの厳しさ、体調を数値化して120%の練習のために書き込んでいる。冷静な分析眼とともに、ある種の「狂気」すら感じる。そうだ、冷静と狂気こそが天才の所以だ。
そして羽生結弦は「うまくなれない」とも語った。
この言葉は重要だ。
驚くべきことに、羽生結弦は自分を「うまくなれない」と見なしている。そう見なして自分を追い込んでいる。
確かに彼の五輪連覇も、スーパースラムの達成も歴史の金字塔だ。しかし羽生結弦にとってはある意味で、違う、そういうことではない、ということか。
羽生結弦は羽生結弦として「うまくなりたい」。この少年のままの渇望もまた、羽生結弦の天性の「矜持」を支えているのだろう。
終わったと思われたくない
またこうも言った。「終わったと思われたくない」と。
羽生結弦は少年としての渇望に「男の子」という矜持もまた持ち合わせている。無邪気な負けん気だ。これはまったく当たり前などではない。多くの人は大人になり、こうした無邪気な負けん気としての矜持「男の子」の心をなくしてしまう。失うのではなく、なくすのだ。
宮沢賢治の詩「告別」の一節に、
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
とある。これは芸術における「それ」つまり、「才能」という残酷な話だ。賢治の素晴らしさは失うだの、消えるだのではなく「無くす」或いは「なくす」としたところにある。客観としての「無くす」と主観としての「なくす」と私は解釈しているが、羽生結弦は無くしても、なくしてもいない。
さびしさで、氷上の音をつくり続けている
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
この一節の通り、石原の草を刈り続けている。
さびしさで、氷上の音をつくり続けている。
その至高のエッジが、奏でる音を。
遊ぶことも贅沢することも許される立場になったとしても、羽生結弦は自分自身と闘い続ける。これが「矜持」というものだ。仕事とはそういうものだ。これは羽生結弦という特別な人だからこその話でなく、もっと普遍的な教えだ。羽生結弦という人は意識的にも、無意識の中でも、そうした教えを多くの人に伝えてしまう、それもまた、羽生結弦が「社会性」のあるフィギュアスケーターであるという稀有な存在であることを証明している。
そうした使命を帯びているからこそ、羽生結弦という存在を表現するのに「プライド」では足りない、「矜持」である必要があるということか。
(続)