戦後ものうのうと生きた「上層部」
桜花を発案したノンキャリアの大田が名前も戸籍も失い、別人を名乗ってひっそりと生きたのに対し、「特攻」という戦法を採用、実行した「上層部」の責任者たちは、特攻で死なせた部下に謝罪し割腹した大西瀧治郎中将や鉄道自殺した神雷部隊司令・岡村基春大佐などごく一部の例外をのぞき、戦後、自決することも身を隠すこともなく、それぞれが平穏に生き、天寿を全うした。
桜花を採用した直接の責任者といえる軍令部第一部長・中澤佑は終戦直後、責任を感じて自決するのではと、それとなく様子をうかがう部下たちを前に、「俺は死ぬ係じゃないから」と言い放った。
誰よりも特攻に執着した第二部長・黒島亀人は、海軍の機密文書を無断で焼却するなど証拠隠滅ともとれる行動をとっている。
大田の発案を利用して桜花の開発に奔走した源田実は、戦後、航空自衛隊トップの航空幕僚長を経て参議院議員を務めた。源田は、自著をもとに製作された東宝映画「太平洋の翼」の劇中、「千田参謀」と仮名ながらも、軍令部のなかでひとり「特攻反対」を叫び、本土防空のために新鋭戦闘機紫電改の部隊(三四三空)を編成するという、特攻を推進した事実とは正反対の巧妙なイメージ操作、いわば「経歴洗浄(ロンダリング)」を行った。
旧統一教会とのつながりも深く、1982年には統一教会と世界勝共連合が刊行する日刊紙「世界日報」に「風鳴り止まず」と題する回想記を329回にわたって連載、ここでも特攻について、〈これらの若人は、決して強制によって組織せられたものではない。それは疑いもなく祖国の急を救うべく、自発的意志によって募集に応じたものである。〉(第322回)などと、まるで他人事のように記しているのみである。