これは公開前記事の共有用画面です。

津野米咲さんが亡くなって3年間で考えたこと(書きかけ)

きがあいますね

ここは、書きかけで非公開のnoteのプレビュー画面です。
非公開なので誰にも見られないようにしていますが、念のため、書きかけなのでいつでも編集したり消したりする可能性がある、ということを最初に書いておきます。


「木」っていう曲は、「猛烈リトミック」がリリースされるよりもはるかに前に作られたデモCDの1曲目にもなっていて、本当に本当に大事な曲だったんだろうなと思ってます。当時の「木」についての自分の文章も熱量だけはめちゃくちゃある。それくらい好きな曲です。


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それはさておき。

先日、そろそろ三周忌だなと思ってハードディスクの中身を見返していて、膨大にある写真、映像、文章などなどの中から懐かしい映像をいくつか見つけたので、こうやって鍵のかかった非公開の状態なら誰も見られないだろうということで置いておきます(中にはYouTubeに上がっているものもあるけど)。




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それもさておき。

ここから先は、あるバンドを愛するがあまり頭がおかしくなってしまった元ファンの戯言というか、作り話を書きておきます。いいですか、全部妄想です。誰もが一度は書いたことのある黒歴史小説みたいなものです。
もし誰かがここ見つけてしまっても読まないで結構ですし、読んでも不愉快に思われる話が出てくるかもしれないので、その時はそっとページを閉じて、「やっぱりあいつは頭がおかしかったんだな」と思ってこの文章のことはどうか忘れてください。




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つのさんが亡くなって3年間、「どうしてつのさんは死んだのか」を知りたくて、いろんな人にコンタクトを取り、実際に会いに行って話を聞きに行ったり、会わずとも文面でやりとりしたり……をたくさんたくさんしてきました。答えなんて誰も知らないのにね。

元メンバー、つのさんをよく知る人、家族をよく知る人、関係者……。みんな、つのさんのことはたくさん話してくれますが、結局、「どうしてつのさんは死んだのか」という疑問は解消されませんでした。ただその途中でいろんなことを知り、知りすぎてしまって、いろんなショックが大きくて、だんだんと頭がおかしくなってしまいました。

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まず、つのさんの死後、離婚されている両親がもめているということを知り、大きなショックを受けました。

自分は、つのさんのお母様とはライブ会場で何度か挨拶をしたことがあって、お父様とは電話で話したり手紙でやり取りをしたことがあります。それから一番上のお兄さんには、当時経営されてたお店に行ってお話をしたことがあります。そして何よりつのさん自身から家族のことは何度も何度も話を聞きました。ただ、それでも考えがだいぶ偏っているかもしれません。その上で、の話です。

つのさんの家族は音楽一家で、一番音楽ができなかったのがつのさん(米咲さん)だった、そこから音楽の楽しさに目覚めていったという話は有名かもしれません。ただ当時お父様は心を病んでいて、仕事がうまくいかない時は、幼いつのさんを包丁で刺そうとしたこともあるくらい荒れる日もあったそうです。(もっとさかのぼればお父様とそのお父様の確執や、つのさんとおじい様の確執もあったらしいが、そこは省略)

そんなこともあってか、つのさんのご両親は離婚し、お父様は日本を離れ、海外で治療に専念することにしたそうです。お父様の話では、「治って戻ったら再婚してやり直すつもりだった」「けれど戻った時には相手が別の相手と再婚していた」ということだったようです。

お父様がいなくなった立川のアメリカンハウスは、お母様と2人のお兄さん、そしてつのさんが残りますが、お兄さんたちがそれぞれ独立し、お母様も(親族がいた?)大阪に行ってしまいます。残されたつのさんも大阪に引っ越す予定だったけど、当初は期間限定という条件で加入した「赤い公園」という居場所を見つけ、東京に残ります。つのさんはメジャーデビューの際に「父上、母上、私はここにおります、頑張ります。」という言葉を残しています。初めてこの言葉を読んだときは何も知らずに「どうしたの?この人は」と思いましたが、ここまでの事情を知るととても深いメッセージだったことが分かります。


つのさんが亡くなる直前まで住んでいた家は、20代女性がひとりで住むには大きすぎるような古民家でした。ある関係者の方は「きっと、また家族で住めるような家に住みたかったんだと思う」と話していて、その頃にはお母様には別の家族があって、二人のお兄さんにもそれぞれ家族ができていて、お父様は一人だったようですが一緒に暮らすような関係ではなかったようで、その話を聞いて思わず涙が出ました。


ここからは確証のない話ですが、つのさんの死後にいろいろな問題があったようです。子供が親より先に亡くなった場合、子供が独身で、その子供に子供がいなければ、法律上は遺産は両親が相続します。両親が離婚していても、それぞれの親が半分ずつを相続します。しかしつのさんの場合、お母様が死後のすべてを負担して、その代わり遺産や権利もすべて相続しまったようでした。お葬式もお母様があげ、お墓はなく、遺骨もお母様の手元にあるそうです。

つのさんが亡くなった直後、つのさんが使用していたギターがネットオークションに流れたことがありました。誰もが「本人のもののわけないでしょ」と思っていましたが、どうやらお母様が楽器類も処分してしまったようでした。車や自転車といった一部のものは元メンバーに引き継がれたようですが、つのさんの所有物の大半はそうやって処分されてしまった。当然ですが、お葬式をあげる以上、元メンバーや所属事務所もお母様サイドに付きました。そういった一連の行動に対してお父様が怒って、それで一時期トラブルが起こっていたようです。

一部の関係者に対してはお別れ会があったようですが、知っての通りファンに対してもお別れ会はなく、ファンはお墓参りすることもお別れを言うこともできませんでした。赤いベンチがその代わりのようなものになってはいましたが、一部のファンが勝手に始めたことで、本来の使い道ではなかったし、ベンチにご家族が来て備えてあったお花を持ち帰ったという話もありましたが、そういったアナウンスがあったわけではありませんでした。ファンと一部関係者の間に線引きがされたり、一部のファンに対する公平ではない対応に、誰とでも平等に楽しく接する「つのイズム」とは正反対の、何か後味の悪いものが個人的には残りました。

最初に言ったように、この話には確証がないし、偏りがあるかもしれません。本当はもっと違う側面があって、きっとそれぞれに大事な正義があるのかもしれません。それに対して、誰の肩入れもしたくありませんし、誰のことも傷付けたくはありません。ただ、こういった話を複数の人から聞いて総合して考えると、いちファンとしてすごく悲しくなったし、家族も関係者もファンもみんなのことが好きだったつのさんが何だか浮かばれないような気がしました。お母様は会えて、お父様は会えない。メンバーや関係者は会えて、ファンは会えない。一部のファンは花を供えることができて、一部のファンはできない。

「どうしてつのさんは死んだのか」と最初思い浮かんだ問いに対して、「こんなんだからつのさんはずっと苦しかったんじゃないか」とも思いました。



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もうひとつ、ずっと心に引っかかっているのは、これこそ自分自身で考えが偏っていると感じますが、やはり所属事務所とつのさんがうまくいっていなかったのでは?ということでした。

理子さんが加入して、ということよりも、事務所がソニーに変わって、バンドは大きく変わりました。音源もPVもライブもグッズもSNSも全部の方向性が変わって、いわゆる「売れ線」を目指すようになり、それはソニーにバンドが「乗っ取られた」くらいの違和感がありました(つのさんの死後、メンバーの訃報の際のコメントと解散の際のコメントでニュアンスが変わっていたのも事務所の圧力があったのでは?と思ったし、解散ライブも明らかにキャパ不足なのに関係者を大量に呼んで半ば強引に行われたような感じがしました。これらは過去にもnoteで書きました)。

その一方で「ソニー以前がゆるすぎた、だから変わらなければいけない時期だった」ということも絶対にあると思います。以前は「売れる」ということに関してもゆるかったし、SNSやライブでのファンとメンバーの距離感を見ても明らかに近すぎたので(←お前だろ)(とはいえ、その後の誕生日ライブの様子を思い出すとつのさんはやっぱりファンともっと身近な距離感で触れ合いたかったと思うけど)。

ちなみにつのさんの死後、ソニーはアーティストのメンタルと身体をケアするための「B-side」というプロジェクトを発足させました。これ自体は素晴らしい取り組みだと思っています。しかし「え、産業医みたいなの今までなかったの?」「誰かが死んでからじゃ遅すぎだろ」という気持ちもなくはないです。https://cocotame.jp/series/028723/


新体制後、あるいはつのさんの死後にファンになった人は『THE PARK』を高く評価している人が多いと思いますが、作品の良し悪しはともかく、これまでの経歴を踏まえて「方向性が変わった」ということはあまり触れられませんでした。たまに「マニアックだったのが一般的になった」という意見があるくらい?でもやっぱり、いわゆる変な曲、怖い曲、よく分からない曲はほとんどなくなり、反対に分かりやすい曲が増えていったのは事実だと思います(そういえば、赤い公園って最初怖かったよね?新体制になって全く消えたもの、怖さ、不思議さ、あとおふざけ)。

もちろん、それまでは佐藤千明という、あえて曲の意味を理解しようとせず、変な色を付けず、つのさんが込めた思いを純粋に増幅させるスピーカーとして神がかった歌を聞かせてきたボーカリストがいて、そこから3人で演奏しながら歌わなきゃいけない体制に変わり、そこからさらに、前ボーカリストとは歌い方も性格も体格や年齢も全然違う、おそらく曲の意味や歌い方や見せ方を徹底的に研究しようとしている理子さんが歌うことになり。「自分のための歌」から「理子のための歌」へと、赤い公園の曲が変わっていったのは当然の流れだと思います。

それにつのさんは「一般的」「ポップス」「売れたい」を目指していたんだし、それが高い評価を得たんだから、それはそれで何も問題はないのですが、同時にそういう音楽ばかりを赤い公園でやる(やらされている、売れ線方向にばかり強く進める)ことにストレスもあったのではないか、ひずみが生まれたんじゃないか。そして、そういうストレスやひずみが溜まって何かの引き金になってしまったのではないか、ということはずっと頭に残ってしまいます。

「自分たちが本当にやりたい曲」と「ヒットする曲」は絶対に違うもので、そのギャップに苦しんでいたんじゃないかとか、ソングライターはメンバー4人+スタッフをいわば「食わせていく」立場にあるわけで、その責任感が前より強く求められるようになったんじゃないかとか。


(それに関連することとして、「赤い公園の音楽は変なのか変じゃないのか」という文章も書きました)

(また、新体制の音源が個人的にはつまらなく感じ、逆につのさんの提供曲はどんどん面白くなっていったことについては、勢いで書いたけど下書きのままの文章があります。
https://note.com/preview/na4590dc33302?prev_access_key=10c6849e9aaa0ab24655ae681d51297a )


結局、それも真相は謎に包まれたままですが、最初につのさんが「父上、母上、私はここにおります、頑張ります。」と宣言したように、せっかく見つけた赤い公園という居場所が、事務所の方針によって?バンドの方針によって?当初のものからだんだんと程遠いものになっていったんじゃないかなあ、とか、変わるにしても急に変わりすぎたんじゃないかなあ、ということも考えてしまいます。

だってファンはどの事務所の人よりも長くバンドを見ているんだもん。曲はまだよくても、それ以外のところも露骨に変わりすぎて、普通に追いかけていれば「おや?ジャケやグッズがダサくなったぞ?」「スタッフの態度悪くね?アイドルの握手会のはがしかよ」「立川に恩返しをしてたバンドが毎年恒例の立川の自主ライブやめちゃうの?」といった違和感はみんないくつか感じたと思います(別にファン歴が長ければ偉いとか、方針を変えちゃダメとかそういう気持ちは一切ないです)。


ただ、それよりも何よりも大事なことは、家族のことも事務所のことも、こうやって「おかしかったんじゃない?」と異論を唱える人は今後公的には出てこないだろうということです。なぜなら、すべての権利はお母様と事務所が持っているから。もし今後「赤い公園オフィシャルブック」「津野米咲ものがたり」みたいなものが出ることがあっても、「両親が不仲で~」「事務所の方針変更で~」みたいなことは絶対に書かれないでしょう。赤い公園=事務所のもの、津野米咲=お母様のもの、になってしまったから。だからこそ、ありのままで中立の(中立ってなんだ?自分も中立じゃないぞ)津野米咲像は二度と描かれないし、誰も知ることはない。そこもとても悲しかったのです。だからこそ本当のつのさんを残したい。けど残すと問題が起こるし、誰かを嫌な気持ちにさせる。そういうことで悩んで悩んで、頭がおかしくなるほど悩んでいました。

周囲のファン仲間からは「誰のために?」「何のためにそこまでするの?」と言われました。それはいまだに分かりません。
でも、そういう時に限って思い出すのはいつも、行きつけのバーでつのさんと話したたくさんのバカ話の記憶とか、赤い公園のライブが終わった後にファン同士で「今日のライブヤバくなかった!?」と大興奮した思い出でした。

「性格合わない人なら どこにでも居るよね 嫌いになるのは簡単だけど 手を取り合って 音楽かけて 馬鹿騒ぎはじめよう」
つのさんが目指したそういう世界は、つのさんの最も身近にいる人たちが、つのさんを守るために壊していったような気がしました。いや、最初から壊れていたからこそ、つのさんはこういう曲を生み出したのかもしれません。



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つのさんの死後すぐに、明らかに自分に影響を受けたと思われるnoteやTwitterが増えました。それ自体はいいことですが(でもやっぱり、間違ってることや適当な検証が多いと反論したくなる時もある。けどしない)、それ以上に増えたのが、もっとクソみたいなビュー数稼ぎのアフィブログでした。「死亡の原因は?」「メンバー不仲説」「原因はハロプロファンのアンチ」。見たくなくても、ただ何かを検索するだけでそんなサイトが目についてしまい、それもとても悲しかった。とはいえ、自分だって同じようなことをしている気もして、それもまた悲しみを倍増させました。

さらに最近になって、「著名人の相次ぐ不審死の真相は」みたいなショッキングな見出しのブログやツイートが増えてきて、そういった著名人のファンによるデモが街中で行われていて、つのさんの写真が勝手に使われているのも見てしまいました。中にはプラカードの名前が「津野『美』咲」と間違って使われて掲げられているのもあって、一連の悲しい出来事の中でもこれが一番ショックだったな…。


また話は飛びますが、「ミュージックマガジン」2023年7月号に「中央線の音楽30選」という小特集が載っていて、読んでみたら赤い公園の「透明なのか黒なのか」が選ばれていて嬉しかったんです。けど、「赤いベンチがあることから『赤い公園』と呼ばれる立川市の公園をバンド名にした4人組」……だってさ。逆逆!赤い公園というバンドが立川市を盛り上げるために赤いベンチを作ったのに!
この文章を書いたのは音楽ライターの今井智子さん。この人はオフィシャルの「赤飯」アルバムレビューでも一度誤字をやらかしていて(たしか佐藤千「秋」だったかな)、事務所に指摘して修正してもらったことがあるんだけど、よっぽど適当に仕事をしてる方なんだろうなと思います。こういう間違った情報ばかりがずっと残って、バンドの歴史とか誰かの人生が捏造されてしまうのが悲しいのです。

どんどんどんどん違う方向に行ってしまう気がする。つのさんってそういう人じゃなかったのに。赤い公園ってそういうバンドじゃなかったのに。こうやって、自分の知る赤い公園というバンドは、まったく別のものになっていってしまいました。


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じゃあ、どこからおかしくなってしまったんだろう?「だいたい発端は何だった」?


つのさんの家族が家族を持ってしまったから?
新事務所になって方針が変わったから?
理子さんが加入したから?
3人時代、バンドを続けるためにはボーカルを入れないといけなかったから?
鹿野さんがソニーを紹介したから?
ちーちゃんが辞めて3人になったから?
いや、ちーちゃんが辞める遠因を作ったのは、みっつが辞めたことも関係あったような?
でもみっつを辞めさせたのはつのさんだという話も聞いたことがあるような?
そもそも、最初の活動休止もつのさんが自殺未遂をしたからであって、それ以前から問題はあった??
だとするとそれ以前の環境や両親が不仲だったのが良くなかった???
でもそれらのおかげで赤い公園という居場所を見付けられて、心をえぐるようないい曲もたくさん生まれたのに????
でもその一部の人だけの心をえぐるようなマニアックな曲より、たくさんの人に響くポップスのほうを求められたし、本人もそっちを作りたかった?????


そんなこと、いちファンが悩んだところで答えは出るはずがありません。きっと誰のせいでもないし、逆に言えば全部が原因、みんなのせいだとも思います。
新体制のいろいろがあまりにクソすぎて「もうこんなバンド、ファン辞める!」と一度は思った自分のせいも、0.数パーセントはあると思います。

ある人は「『私のせいで死んだ』なんて思っていたら、パイセンは嫌がると思う」みたいなことを言ってたけど、そうだよ、きっと何パーセントかはあなたのせいだよ。そして、残りの何パーセントかは俺のせいだよ。

でもその時はそれが正しいと思ってたわけだし、その時の気持ちや選択をカルマみたいにして今後も背負っていくしかないじゃんか。

「ファンはお別れ会がなくて寂しい〜」なんてことをただ言いたいわけではありません。身内と関係者だけ線引きして、そこにバリアを張って、その中でだけで傷を舐め合って、そこだけで背負おうとしてるのが気持ち悪いんだよ。








…………。




それでもつのさんは、この話に登場する全員のことが好きだったと思います。つのさんはそういう人でした。

だから、公にできない話も含めて誰かに知ってもらいたくて、鍵をかけて作り話としてここに残そうと思いました。





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最後の最後に、悲しいことばかり書いてきたので、少しだけよかったことも書きたいと思います。ここからは作り話ではなく、実際の話です。

ひとつはやっぱり、つのさんの死後に、それに呼応するような音楽がいくつも生まれたことです。SCANDALのRINAさんが「米咲ちゃんが亡くなった時に作った曲」という「蒼の鳴る夜の隙間で」。
君島大空がライブでやった「夜の公園」「pray」「KOIKI」などのカバー。
すっかり売れっ子になってしまったmeiyoは一緒に赤い公園のライブを見てた仲間だから変な感じがするけど、「Infinite feat. 空音, meiyo」や「あとがき」の歌詞なんかを読むとやっぱりアイディアマンだなと感心します。
VIVA LA J-ROCK ANTHEMSの最後も素晴らしかったし、参加したアーティストのみなさん、特にそこで「米咲さん観といてくださいよ」って言ってたアイナ・ジ・エンドも素晴らしかった。彼女のアルバム「THE END」とか「神様」もよかった(アイナがアンセムズで歌った「Swallowtail Butterfly ~あいのうた~」は、映画「スワロウテイル」の延長線上にある、つのさんが参加した「円都空間 in 犬島」でもやっていた曲で、そんなアイナが今は岩井俊二監督の最新作に主演として出てて……っていうのは偶然の繋がりなんだろうか?)。「米咲さん観といてくださいよ」という気持ちは自分も一緒です。

他にもきっと、つのさんに影響を受けたまだ知らない・忘れてる名曲、名演奏がたくさんあると思うし(ぜひ教えてください)、アーティストはそうやって受け継いだことを形にできるから素晴らしい職業だなと思います。


もうひとつよかったのは、このnoteのコメント欄やクリエイターへのメッセージに、今でもたくさんのメッセージをいただくことです。
中には長文で熱い思いのこもったお手紙をくださる人もいて、お墓もないしベンチに行けない人もいるんだもん、みんなきっとそういう思いを誰かに伝えたくて、そういうのを送るポストが欲しかったのかなと思って、全部に返信するようにしています。批判もいっぱい書かれたみたいだけど(正面から言ってくる人は一人もいなかったから読んでない)、つのさんや赤い公園を追いかけ続けてきて、誰かの役には立てたのかな、noteをやっててよかったのかもなと思っています。批判してた人たちも赤い公園のことが好きなんだろうし、「どうしてつのさんが?」って気になったのも自分と一緒だろうし。


3つめは、これはいいことなのか悲しいことなのかは一概には言えないけれど、つのさんが亡くなって3年の間に、津野米咲を超える作詞家、作曲家、ミュージシャン、アーティストはいまだに(自分の中には)出てきていないということです。一時期つのさんと相思相愛だったOfficial髭男dismの藤原聡がどれだけいい曲を書こうとも、同じ事務所の(厳密には違うか、同じマネージャーの)YOASOBIがどれだけ世界的ヒットを飛ばしても、浅く感じます。やっぱり売れ線は違うね。

それはつのさんが両親から受け継いだ才能や頭の良さもあるだろうし、育った特殊な環境も関係あるだろうし、「孤独だ」って叫びたくなるような夜があったからだろうし、だからこそ仲間や居場所を見付けたんだろうし、自分の作品を好きって言ってくれて自分のことを理解しようとしてくれるファンのことも分け隔てなく大事に接してきたからだろうし、だからこそ苦しんできたんだろうし……そうやって、いろんな要素が重なって、手がけた作品が自然と深いものになっていったからだと思います。まあ他のアーティストの作品から何も感じなさすぎてそれを知ろうとも思わないけどさ。

自分がアーティストだったら、どれだけヒットを飛ばしても、つのさんの作品を聴いて絶対に悔しいと思う。売上や再生回数には反映されない、強い思いがこもってるから。そこはつのさん、誇っていいと思います(もし今後、ほかのアーティストにこれ以上ハマっていたらごめん……笑)。







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ね、みんながワイワイやってるのを見て、ひとりそっと消えたくなるよね。わかる~。バーでもそれまで大声でゲラゲラ笑ってたのに次の瞬間に急に真顔になって帰って行ってたし笑。ってか夜中にいきなりリプ送ってこないでよ笑、ビックリするよあなた、もうだいぶ有名人なんだからさ!

でもさ、「赤い公園ファンってこんな感じ」っていうイメージがあるからこそ、こういうリプライくれたわけだよね。赤い公園の曲も、最初はそういうやつに共感してほしくて作ってたんじゃないの?もちろんより多くの人に聞かれたいのも、ドーム目指してたのも嘘だとは思わないけどさ!あと、SNSも絶対こういう使い方したかったんじゃないの?ソニーになってからは絶対こんなことさせてもらえなくなくなってさ、結構窮屈だったでしょ笑

あとさ、最後にもうひとつだけ言い忘れてたけどさ、本当にひとりでそっと消えてんじゃないよ!あれだけひとつにまとまってたものが、ぐっちゃぐちゃだよあなたがいないと!





『公園デビュー』から10年だってさ。年取るわけだね。


おわり

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