渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

「TOKYO BB(2019)」無料公開#7 BB芸人大集合SP

2023年11月24日 | open

「TOKYO BB(2019)」無料公開#7 BB芸人大集合SP


こういう二輪保管場所があると
いいなぁと思う。
高校時代に所属したレーシング
チームのレーサー保管場所がこ
のような感じだった。
これに上がりかまちがあり、そ
こにチームのレーサーがずらっ
と並んでいる。
そこに幻のヤマハワークスレー
サーの
2気筒50ccマシンもあった。
店は板橋だが保管場所は練馬の
桜台にあった。私たちはそこを
「アトリエ」と呼んでいた。
筑波サンデーレースなどを開催
していたチームだった。
その流れが現在の筑波でのイベ
ント的なローカルレースに続い
ている。
あの頃から40数年が過ぎ、現在
筑波でのヒストリカルローカル
レースは国内のレースシーンで
も大人気となっている。
店もチームも今は無い。

当時の東京のレーシングチーム
はとても互いに仲が良く、交流
もかなり親密だった。
どういったらいいのか・・・
まるで大学の部活を超えての
都内学生運動部プチ連盟のよう
な感じ。
かといって上下関係は体育会

のような右翼的前時代的なも
のではなく、ライダーの先輩
たちは先輩というよりも兄たち
のようでもあり、監督やメカニ
ックの人たちは私塾の先生の
ようでもあった。食事作法から
礼儀全般は先輩や先生から教

え込まれた。
尤も、私ともう一人は16才な
で最年少だったので子ども
への躾みたいなところもあった
のだろう(笑

あの頃のレースシーンは、世界
グランプリがコンチネンタル
サーカスと呼ばれて、パドック
が世界大会の選手村のような
キャンプ場みたいな空気があっ
たように、国内でもサーキット
とそれを巡る人間関係はとても
暖かい家族的なものがあった。
ギスギス感ゼロ。
それは一つの時代の中での視線
の同一性と価値観の同質性が
もたらしていたのかも知れない。
コースに行けば、見知らぬ関西
のチームの人たちも打ち解けて
すぐに話しかけてくる。
ワークス以外全員プライベート
なので、情報交換も惜しみなく
交わしたりする。
バリ伝初期に描かれたような
個人絶対主義のスカは現実世界
ではいなかった。タコ根沢のよ
うなのは現実では見かけなかっ
た。
むしろ、グンが初めて歩惟ちゃ

んを筑波に連れて行った時の
帰り際の多くの他チームの人
たちの描き方がもろに現実世界
のそれだ。家族的な心根の人
たちがコースの中だけ競い合っ
ていた。そしてコースの外では
他人と心で接していた。
初めてバリ伝を読んだ時、「あ、

これ現実を描いている」と思っ
た。
ただ、命がかかるものなので、
非常に安全管理等は厳しかった。
それでも、オフタイムではまる
で毎日サーカスキャンプでの
連日宴会のような空気があった。
特徴としては、皆が明るかった
事だ。おふざけも過ぎたりもし
たが、とにかく明るかった。

複数台の二輪を置いて整備も
できるバイク保管庫を都内で
持つのはなかなか難しい。
レース復帰の80年代前半に、別
チームを自分らで立ち上げた時、
レーサー保管庫と整備
場所を確
保するのも結構大変だ
った。
一度、短い期間、申し入れのあ
った資産家のチームの大きな
保管庫にレーサーを2台置いた
事があったが、勝手にそこの
チームの人にうちらのストック
レーシングオイル等をバンバン
使われたりしたので、マシンを
引き上げる事にした事もあった。
なんだか時代が変わった感が
あった。
老舗チームにいた頃には、付き
合いは東京横浜の本当の古い
時代から活動しているチーム
同士の付き合いなので、絶対
にそういう事は
起きなかった。
互いにもちつ
もたれつの関係
にあっても。

本当になんだかなぁの時代の
はじまりを感じたのが80年代
半ばでもあった。
特に新設チーム
などはレース
シーンでの文化
の経験が無い
ので、勝手次第
な事をやる。
そして、コースを走る人間の絶
対量が増えて大衆化したので、
コース上でも質が著しく下がっ
たのが80年代のバイクブームの
中におけるサーキットの姿だっ
た。
右足出してサインを示してピット
ロードに入ろうとインベタ減速
しているのに、コースルールを
無視する馬鹿がそのさらにイン
から抜こうとしてこちらの前輪
蹴るようにしてスッ転ばされた
事もあったからね。汚い整備の
カワサキF3車に。スポーツ走行
時間内で。
レッカーで戻ってからうちのチ
ームの若い奴がぶっとばしてく
ると怒ってたがとめた。
危険走行や予測不能の走行を
する奴も物凄く増えたのが80
年代だった。
全日本の本式レースの1カテゴ
リーにエントリーが500台の頃
ね。鈴鹿4耐などは1500台で
3000人のエントリーだった(笑
1秒以内に数百人(笑
それ以外にコースをスポーツ走
行している人間は万といた。
まあ、質も下がるだろうさ。
困ったのは、走行圏が買えなか
った事だ。ネットもないし、予
約制ではなかったから。
土日走るのに前の週の半ばあた
りからコース入り口前に車で
寝泊りで並ばないと走行券が
買えないような状態。
バカげた話だったよ。
1970年代はモーターサイクル
レースはメジャースポーツでは
なかったので、朝6時にFISCOな
り筑波のゲート前にトランポを
つけていれば、その日の走行券
を買えた。80年代初期もそう。
だが、80年代中期以降はモーター
スポーツをやるのさえ、「特権」
を持つ者しかできない状況に
なってしまった。走れないのだ
から、練習のしようもない。
今は予約制になっているらしく、
円滑に走れる管理もされている
ようだ。


この記事についてブログを書く
« TOKYO BB(バイクバカ) | トップ |