悲鳴が聞こえてきた時、猛烈な胸騒ぎがした。
その悲鳴の直前に微かに怒鳴り声らしきものが聞こえたからだ。
気付けば俺は財布をティナに預けて会計を任せ、店を飛び出していた。
そして遠くに人の流れが澱んだ場所を見つけて行ってみたら──
「さっさと立てやオラ!」
「舐めた真似しやがって。ぶち殺すぞテメェ!」
両腕を掴まれて怒鳴りつけられていたのはニコラ師匠だった。
その光景を見て一瞬で怒りが沸点を突破して、俺はその場に乱入した。
「誰が、誰を殺すって?」
その場で即連中を斬り殺さなかったのは、武器を向けてきたのは向こうが先だと主張できる状況を作るため。
どんなに怒りに震えていても、自分が決定的に不利になるような真似はしない。
それが悪徳領主だ。
だが、連中は思いの外馬鹿で助かった。威嚇一つで退散するような臆病で小狡い連中だったら斬り殺せなかった。
最後に口にしたミンク・シンジケートとかいう組織の威を借りて気が大きくなっていたのだろうが、おかげで遠慮なく斬り捨てられてせいせいした。
師匠が逃げて行った直後に現場に到着した憲兵に事情聴取のためしょっ引かれることにはなったが、師匠が困っていたところを助けられたのは弟子として誇らしい。
ただ、置き去りにしてしまったティナとオリヴィアには申し訳ないことをしたな。
そう思って周りの野次馬たちに目をやると、人混みの中に二人の姿を見つけた。
オリヴィアは蒼褪めていて、ティナは「またやったのか」と言いたげな目をしている。
そして俺の方に駆け寄ろうとするオリヴィアをティナが止めていた。
そうだ。それでいい。俺は大丈夫だ。
屋敷の者に知らせろとティナに目線で合図すると、ティナは頷き、オリヴィアを連れて離れていった。
そして俺は到着した小型艇に乗せられ、憲兵隊の本部へと連行されるのだった。
「エステルさんが──どうして」
狼狽するオリヴィアを引きずるようにして、ティナはファイアブランド家の屋敷に向かう。
「大丈夫です。ファイアブランド家と王宮とで話をつければすぐに釈放されますから」
そう言うと、オリヴィアは黙ったが、それでもチラチラとエステルが連れて行かれた方角を振り返っている。やはりエステルのことは心配でたまらないのだろう。
それはティナも同じである。
(お嬢様──王都に来たからには騒ぎは起こせないと仰っていたのに──何か余程の理由でもあったのかしら)
十年以上も側で仕えてきたため、ティナはエステルの思考や行動のパターンをよく理解している。
エステルは余所との揉め事を嫌い、領地の外では問題は起こしたがらない。
だからこそ、外出もトラブルを予防できるよう学園の制服でしているのだし、自分が気に食わない程度で喧嘩になることは考え難い。
なればこそ、今回の刃傷沙汰にはそうせざるを得なかった余程の理由があると考えるのが自然である。
ともかく、今すべきはこのことを屋敷のセルカとトレバーに報告し、然るべき手を打ってもらうことだ。
エステルの名に傷が付き、あまつさえ学園を退学させられるなどあってはならない。
オリヴィアの手を強く握ったまま、ティナは屋敷への道を急ぐ。
◇◇◇
「何だと!?」
ティナの報告を聞いたアーヴリルは立ち上がって叫んだ。
「側についていなかったのか!」
「申し訳ありません。私の落ち度です。お会計の時に騒ぎを聞いて急に飛び出されて。そして私が代わりにお会計をしている間に──」
ティナが頭を下げる。
その横でオリヴィアが蒼褪めた顔をして口元を押さえていた。
「そんな──エステルさんが──何かの間違いじゃ──」
エステルが街中で人を殺した。それも確認できた限りでは四人も、風魔法で首を刎ねて。
そんなこと信じられない、信じたくない。怖い所もあるが根は優しいエステルがそんなことするわけない──オリヴィアはそう言いたげだが、残念ながら彼女以外は全員心当たりがあった。
エステルなら相応の事情があれば躊躇なくやるだろう、と。
だが、実際に起こってしまっては大問題である。
ここは王都であってファイアブランド領ではないのだから。
「まあ、あの人のことだから側についていても止めようがなかったと思うけれどね?王都で刃傷沙汰ともなると不味いわね」
セルカが顎に手を当てて難しい顔をする。
「ええ。学園としても大問題でしょう。下手をすればエステル様が退学処分にされるやも──」
トレバーもセルカに同意する。
学園でのエステルの立場ははっきり言って不安定である。
どういうわけか事実が意図的に歪曲された悪評が不自然なほどに浸透しており、露骨に危険人物扱いされている。
捕虜虐殺や臣民の大粛清、残虐を極める拷問や、鉱山などの過酷な環境での強制労働、逃亡した罪人の逮捕と称しての他領の侵犯など、冷酷非道にして傍若無人な振る舞いをする、賊か蛮人のような家の娘──それが学園の生徒の大半とその保護者連中、及び一部の教師たちのエステルに対する認識だ。
彼らがこのことを知れば、斯様な危険人物を学園に置いていていいのかと騒ぎ出すのは目に見えている。
そして、その騒ぎはデマに踊らされた軽挙妄動として片付けられることはない。
絶対に煽り、焚き付け、利用しようとする者が出てくる。
エステルを疎み憎んで、隙あらば追い落とそうとする者は王国中枢にも少なからずいる。
特にオフリー伯爵家が属していた派閥──彼の家と繋がって甘い汁を吸っていた連中だ。
故にトレバーはすぐに行動を起こさなければならないと考え、指示を出す。
「二チームを出しましょう。ティナとアーヴリルさんは明朝私と一緒に王宮へ。至急、王妃様とレッドグレイブ公爵に面会を申し入れ、公正な調査と処分が為されるよう取り計らわねばなりません。セルカさん、貴女は直ちに情報部と共に現場検証と背後事情の調査に当たってください。皆さんよろしいですね?」
「「「はい!」」」
ティナ、アーヴリル、セルカの三人が返事をすると、オリヴィアがおずおずと手を挙げ、か細い声で問いかける。
「あ、あの──私にも何か、できることありませんか?」
その様子を案内人は天井から観察していた。
天井に逆さまで立ったまま腕を組み、指で腕をトントンと叩いている。
「ふむ──これは面白いことになっていますね。私はまだ大して何もしていないというのに自ら立場を悪くするとは、実に滑稽。ですが──時期尚早ですね。このままでは吹っ切れて開き直るかもしれません。そうなれば今までの仕込みと投資が無駄になってしまいますね」
案内人は腕組みをしたまま天井を歩き回り始める。
「やはりここは退学処分を免れさせて学園に留めておいた上で、殺人犯として謗りを受けさせ、精神的に追い込むのが効果的でしょうね。誰にも信じてもらえなかった前世のトラウマを多少なりとも刺激できるでしょうし。それで一年ほど時間を稼げば各地で蒔いた種が芽吹き、私も今より力を取り戻し、今度こそ確実に屠れるようになるはず」
腹が決まった案内人は、駆け出していくエステルの家臣たちを見送りながら呟く。
「今回だけは貴女の有利になるよう助力してあげますよ。私の力が戻るまでせいぜいよろしくやっておきなさい」
◇◇◇
その日のうちに憲兵隊から彼の所に報告が上がってきたのは、普通に考えればあり得ないことだった。
だが、案内人の工作によって憲兵隊内部に潜む彼の内通者に情報が漏れ、彼女の名に聞き覚えがあった内通者が即座に彼へ報告したのだった。
そしてその報告が彼に届いたのは、
「やってくれたねお嬢さん」
引き攣った笑みを浮かべて彼は呟いた。
まさか彼女が王都で殺人事件を起こすとは思わなかった。
彼の知る限り、彼女は妙な所で迂闊ではあるが、決して自制が効かない人物ではない。
それこそ、殺されかけでもしない限り相手を殺しはしないはずだ。
そんな彼女が人を殺したということは何かしらの事情があったのだろうが、それにしても重大なやらかしである。
彼女自身のみならず、ファイアブランド家や繋がりのあるレッドグレイブ家、王宮にも影響を及ぼすだろう。
すぐにでも彼女に事情を問い質したいところだが、彼女は憲兵隊に拘束されてしまっている。
ただでさえ憲兵隊は部外者からの口出しを嫌う上、その上層部と彼は折り合いが悪い。
彼女の身柄を引き渡すよう要求しても首を縦には振らないだろう。
脅して言うことを聞かせる材料ならあるが、それは三年前に一度使ってしまった。今後を思えばここでまた使うのは悪手だ。
どうしたものかと考えていると、今度は王宮の役人が報告にやって来る。
「陛下。王妃様より伝言です。ファイアブランド家の関係者の方に面会を申し込まれたと」
「──動きが早いな。よし、ミレーヌに彼らと面会の上で必要な措置を取るよう伝えろ。それとヴィンスを呼べ。二人で話すことがある」
役人が命令を受けて駆け出していくと、彼は一つ溜息を吐いて呟いた。
「兎にも角にもまずお嬢さんの拘束を解かなくてはね。癪ではあるが──奴に動いてもらうか」
◇◇◇
憲兵隊の本部は質実剛健という言葉が似合いそうな石造りの立派な建物だった。
一応貴族令嬢だからか、それなりに豪華な部屋に通されて、簡単な取り調べの後、小綺麗な個室に入れられた。
窓に鉄格子こそ嵌っているが、ホテルと言われれば信じてしまいそうなくらいには居心地が良い。
今頃はティナから知らせを受けてトレバーやセルカが保釈のために動いてくれているだろう。
それでも数日は拘束されるだろうし、それまで暇なので師匠に言われたことについて考えている。
「弟子を三人、しかもこれはと思った者、か」
鏡花水月の継承と発展のため、俺も頑張らなくてはならないが、今のところ教えられるのは俺だけ。
しかも、俺は今は学生で卒業すれば領主だ。
道場を開いて広く教えるのは無理である。
「やっぱり俺自身で探し出してマンツーマンで鍛えるしかないか。武芸に見込みのありそうな奴はいたっけな──」
ファイアブランド軍の新兵や、学校からの報告書にあった優秀な子供たちの顔を思い出していくが、めぼしい者は思い当たらなかった。
なぜかオリヴィアとクリスの顔まで思い浮かんだが、すぐに駄目だと思い直す。
オリヴィアは土台となる身体能力が低過ぎるし、クリスは自分の家の流派を継承する身だ。
「そう簡単には見つからないか」
王国各地を旅している師匠でさえ三年以上探し続けてまだ二人目を見つけられていないのだ。
そう簡単に見つかるものではないのだろう。
「地道に探し続けるしかないか。それにしても師匠の言葉はどれも重みがあるな。俺もあんな風になりたいよ」
思わず乱入してしまったが、あの落ち着きぶりからすると、俺が助けなくても切り抜けていただろう。
武器を持たずにあの余裕──きっとあれこそが真の強者の余裕ってやつだ。
いつかその高みに至るためにも、師匠に課された課題には真剣に取り組まなければならない。
差し当たり学園生の中から素質のありそうなのを探してみるか。
同級生の中にはいなくても、普通クラスや来年再来年入ってくる後輩たちの中にもしかしたら──そんなことを考えながら、いつの間にか俺は眠っていた。
明るさを感じて目を覚ますと、窓から朝日が差し込んでいた。
毎朝の鍛錬のおかげでいつも同じ時間に目が覚める。
とはいえ、狭い部屋の中では鍛錬もできないので、昨夜と同じように弟子について考えていた。
そのまま数時間が経った頃。
部屋の錠前が開く音がしたかと思うと、憲兵が一人と見かけない老紳士が一人姿を現した。
「こちらでお間違いないでしょうか?」
憲兵が遜って問いかけると、老紳士は頷き、憲兵に頭を下げた。
その所作は気品に満ちて、美しい。
憲兵が渋々といった感じで俺に告げてくる。
「保釈です。出る準備をしてください」
そして老紳士が俺に手を差し伸べてくる。
「貴女の身柄は私が預かります。行きましょう。ミスエステル」
誰だっただろうかと思いながらも、老紳士が嘘を吐いている様子もなかったので素直に手を取った。
連れ出されたそのまま俺は馬車に乗せられ、憲兵隊本部を出た。
そして行き着いたのは王宮である。
馬車から降ろされ、衛兵に連れられて行った先で、俺は見知った人物に迎えられた。
「また会ったね。お嬢さん」
「騎士──様?」
忘れようもない。
特徴的な仮面を着けた【仮面の騎士】がそこにいた。
「ざっと三年ぶりかな?随分美しくなられたね。見違えたよ」
「いえそんな。騎士様はお変わりなく──」
あれ?なんでだろう。
もう容姿を褒められるのなんて慣れてしまったはずなのに、どうにも照れる。
久しぶりの再会で懐かしいからか?
「ふふ、まあ掛けたまえ。お茶を用意してある」
促されてソファーに座り、紅茶を一口飲むと、仮面の騎士が問いかけてくる。
「制服、似合っているじゃないか。学園はどうかな?」
「楽しくさせて頂いていますよ。一人──いえ、二人だけですが、話し相手もできましたし」
当たり障りのない答えを返す。
別に嘘は言っていない。
「それなら良かった。実を言うと少し心配していたのさ。ほら、あまり良くない噂も広がっているだろう?」
「──ええ。全く誰が広めているのやら。ですが、特に不利益などは被っていませんよ。むしろ煩わしい付き合いをせずに済んで楽なものです」
「そうか。まあ、お嬢さんならそう言うと思ったよ。お嬢さんは強い娘だからね」
「煽てても何も出ませんよ」
しばらく楽しくお喋りして、一息ついたところで仮面の騎士が切り出した。
「お嬢さん。貴女をここに連れて来てもらったのは他でもない。貴女の昨日の行動についてだ。貴女のような強く賢い女性がなぜ街中で魔法を使って人を殺めたのかな?」
やっぱりそういうことか。
こうも早い保釈はこの人の差金だったらしい。
俺が憲兵に捕まったことをおそらくその日のうちに知って、翌日にはもう保釈に漕ぎ着けるとか、情報網と人脈どうなっているのだろう。
「奴らは私の師匠を手にかけようとしていたのです。私は彼らにやめるよう言ったのですが、聞く耳持たずでした。あまつさえ、銃まで向けてきたものですから、やむを得ず、斬りました」
仮面の騎士は俺の弁明を聞いて、少し剣呑な空気を緩めた。
「──なるほどね。しかし、貴女の師匠か。どこかの剣士なのかな?」
「ええ。私が未だに全く勝てるイメージが湧かない最強の剣士です。才ある弟子を求めて各地を旅しておられる方で、ありがたくも私を最初の弟子に見出してくださったのです」
師匠の話をすると、仮面の騎士は大袈裟に驚いた仕草をする。
「おお、最強とは大きく出たものだね」
──疑っていらっしゃるな。
恩ある騎士様とて、ニコラ師匠のことを疑うのはいただけない。
「本当ですよ。いかなる剣士も──それこそ剣聖であろうと、あの方に刃を届かせることは叶わないでしょう。今の私があるのは師匠のおかげです。師匠に学んだおかげで私は冒険もオフリーとの戦も乗り越えられました。私にとっては大恩人なのです」
「──とても敬愛しているのだね。その師匠の方を」
仮面の騎士が呟く。
「はい。私の──憧れです」
「──なるほどね。貴女の事情はよく分かった。貴女の家の者が持ってきた情報と合わせて得心がいったよ」
「と言いますと?」
「これだよ」
仮面の騎士が数枚の紙を取り出した。
どうやら俺がやった相手に関する調査レポートのようだ。
「貴女の家の者が今朝早くに王妃様に提出したものの写しだ。これによれば彼らはこれまでに何度も恐喝や暴行を繰り返していたらしい。詳細は目下確認中であるが、犯罪組織の構成員である可能性が高いとのことだ。ハッキリ言って捕まっていないのがおかしい連中だね。これから憲兵隊による大がかりな調査が行われるだろう」
やはりセルカやトレバーが素早く動いてくれていたようだ。
そして今回はやった相手が実は貴族の関係者だった、なんてことではなくてよかった。
「結果論ではあるが、住民の脅威となっていたならず者を成敗したのは貴女のお手柄だ。特に処分などはないだろう」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「しかし、お恥ずかしい話だよ。本来こういうのは憲兵隊や、王都の守護者たる私の役目だというのに、お嬢さんの手を汚させてしまったのだからね」
「気になさらないでください。今この王都は私の住む町です。自分の住む町の安全を守るのは貴族たる者の務めでしょう」
上手いことを言ってやったと思っていると、仮面の騎士が苦笑する。
「実に頼もしいが、今後はこのような行動は控えてくれたまえよ?貴女は学園生なのだからね。変な所で恨みを買って他の学園生に危害を加えられでもしたら、貴女が責を問われることになりかねないのだよ」
「それについては反省しています。軽率でした」
「本当かな?」
「ええ、本当ですよ」
しばらく腹を探るように見つめ合った後、仮面の騎士がふっと笑う。
「よかった。そうなったら私が全部叩き潰してみせます!などと言うかと思ったよ」
「私が何でもかんでも武力で解決するとお思いですか?さすがに自分の領地でもないのにそんなことはできませんよ」
危なかった。
一瞬心を読まれたかと思った。
本音では面倒事になったらその元凶を叩き潰せばいいと考えていたのだ。
口に出していたらどうなっていたやら。
内心冷や汗を流した俺に仮面の騎士は思い出したように告げてきた。
「ああそうだ。王妃様との面会の際、貴女の友人が事件直前まで貴女と一緒にいたこと、その時間と場所に至るまで事細かに証言してくれたそうだよ。良い友人を持ったね」
「オリヴィアが──?」
驚く俺に仮面の騎士はいいものが見られたと言わんばかりに笑い、席を立った。
「時間を取らせたね。学園に戻りたまえ」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。王妃様にもそうお伝えください」
そう言って、俺は部屋を辞した。
そしてまた衛兵に連れられて来た道を戻り、あの老紳士に付き添われて馬車で学園に戻った。
待っていたティナとオリヴィアから涙交じりに迎えられ、しつこく事情を訊かれた上にティナにお説教されたのは取り調べ以上に堪えた。
──今後は気を付けよう。
◇◇◇
歓楽街の一角。
入り組んだ場所にあるその店は【ミンク・シンジケート】と呼ばれる犯罪ギルドが取り仕切るカジノであり、薬物の密売所だった。
店の奥にある大きな部屋で、犯罪ギルドの構成員たちが店の仲間が殺されたと騒いでいた。
皆口々に「ふざけやがって!」だの「このまま黙ってられるか!」だのと喚いているが、実の所分かってはいた。
すぐに報復に出られるような案件ではない、と。
下手人が敵対組織や一般人だったなら遠慮は要らないが、貴族ともなれば話は別だ。
たとえそいつ自体は大したことがなくても、家にどんな繋がりがあるか知れたものではない。
貴族に報復するなら、相手のことを入念に調べた上で組織のボスの判断を仰がなければならない。
いつもならそう指摘する冷静な奴がいて、それで場の意見は収束していくはずだった。
「どぉ〜もこの部屋からチューチューチューチュー騒がしい鳴き声が聞こえるなあ。どデケェドブネズミ共の、よ」
そんな声がしたかと思うと、部屋の扉が乱暴に蹴り開けられる。
入ってきたのは異様な雰囲気を漂わせた小男である。
ただでさえ背丈が低いのに猫背で余計に小さく見える。
更に禿頭で目に生気がなく、一見すると死にかけの老人のようだ。
だが、彼が入ってくるや、場は一気に緊張に包まれる。
「ぐ、グルムさん。これは──」
声をかける構成員を無視して、【グルム】と呼ばれた小男は空いていた椅子にどっかりと腰を下ろす。
「殺されたって聞こえたぜぇ?誰がやられた?」
「へ、へい、ダックスとタルス、あとビリーとラゾが──」
吃りながらも構成員が答えると、グルムはスッと目を細めた。
「あ〜あいつらか。可愛い奴らだったんだがなぁ。で?どこの誰がやりやがったんだ?」
光のない瞳に射竦められて思わず姿勢を正した構成は、必死で視線を逸らさないようにしながら報告する。
「な、なんでも、王立学園の制服を着た背の高い銀髪の女だと聞き込みで──」
瞬間。
グルムがカッと目を見開く。
「何だとテメェ。もういっぺん言ってみろ」
「で、ですから、王立学園の制服を着た背の高い銀髪の──」
言い終わらないうちにグルムが床を踏み鳴らす。
そのままドンドンと貧乏揺すりをしながら床を踏み鳴らし、酒を要求する。
すぐに酒が瓶で運ばれてくると、グルムは一気に半分ほど飲み干し、瓶をテーブルに叩きつけるように置いて、言った。
「決めたぜぇ。俺がその女に落とし前つけさせてやんよ」
それを聞いた一人の構成員が慌てて割って入る。
「待ってくださいグルムさん。相手は貴族、しかも女ですよ。下手に手出したらどんなことになるか──」
必死でグルムを止めようとする彼は、荒くれ者揃いのシンジケートの下っ端にあって比較的冷静で頭が回る方だった。
彼にしてみればグルムが動くのは危険過ぎた。
何せグルムは些細なことで後先も利害も考えずに暴れるため、シンジケートの上層部ですら持て余しているような人物なのである。
そんなグルムが突っ走っては、非常に厄介なことになるという確信があった。
だが、そもそも後先も利害も考えずに暴れるような男に事の危険性を説いたところで聞き入れてくれるわけもなく、節くれだった手が無慈悲に彼の頭を引っ掴む。
「あ?なァにウダウダ言ってんだテメェ?死人がどうやって告げ口すんだよ。そもそも、ここの皆男の子でしょーが!悔しかったら男の子はどうするんだ?あ"ぁ!?」
グルムが怒鳴ると、血気盛んな若い構成員たちが声を上げてしまう。
「仕返しだ!倍返しだ!」
「そうだ!そうだ!」
「俺たちを舐めやがったツケを支払わせろ!」
「調子乗ったクソアマを八つ裂きにしろ!」
勢いに乗せられた構成員たちが次々に声を上げる。
それでも冷静な彼は必死で制止を試みた。
「皆落ち着け!まだ相手が誰かも分かっていないんだぞ!それにボスの許しだって──」
言い終わらないうちに彼はテーブルに思い切り叩きつけられて気を失った。
残ったシンジケートの構成員たちはグルムと共に雄叫びを上げ続ける。
エステルの命を狙って犯罪組織が動き始めた。
そして騒がしい部屋の片隅で犬の姿をした淡い光が彼らを睨みつけていた。
◇◇◇
結局、事件はエステルに喧嘩を売って武器を向けたならず者が無礼討ちにされたということで処理された。
別に珍しいことではない。
貴族の子女が王都の庶民と揉め事を起こすことは毎年のようにあるし、正義感や功名心に逸った学生──特に男子──がチンピラや犯罪者を勝手に退治して自慢することだってよくあることだ。
だが、やった者が誰かで容易く世間の受け取り方は変わる。
エステルがただ酔っ払っていただけの一般市民に因縁を付けて斬り殺した──そんな風に歪曲された噂が広まるのに時間はかからなかった。
当然、噂は学園の中でも広がる。
それは多くの者たちの中にあったファイアブランド家に対する恐怖や嫌悪感を確固たるものとし、その矛先をエステルに向けさせるに充分だった。
案内人の目論見通り、エステルは学園の中で一層孤立し始めた。
廊下を歩いていると、女子生徒が何人か話し込んでいた。
別に盗み聞きなんてするつもりはなかったが、相手がわざと聞こえるように声量を上げたせいでハッキリと聞こえてきた。
「うわ、ファイアブランド来た」
「因縁付けて人殺したって。しかも笑いながら」
「ひゃあ、こっわ」
「ていうか、なんでそんなことしてここにいられるのかしらね」
こちらをチラチラ見て陰口を叩いている女子たちに構わずさっさと通り過ぎたが、後ろからまだ視線を感じる。
あの事件以来どこに行ってもこんな調子だ。
学園全体が俺を殺人鬼扱いする空気に染まっていた。
「あ、あの、エステルさん、いいんですか?そんなことしてないって言わなくて──」
隣を歩くオリヴィアが遠慮がちに訊いてくるが、俺はかぶりを振る。
「あの手の噂は否定すればするほど却って本当だと確信させるものなんだ。度し難いことにな。だから言い返すだけ無駄だ」
前世でもそうだった。
いくらやっていないと主張しても、周りは誰も信じなかったし、却って犯罪者扱いが加速した。
それに今回は退学や謹慎といった処分をされたわけではないし、いじめなどの実害も今のところはない。
なら、いちいち相手にするなど馬鹿馬鹿しい。時間とエネルギーの無駄だ。
オリヴィアは黙ったが、納得しかねているようだった。
事件以来、オリヴィアともどことなくぎこちない。
相変わらずよく行動を共にはするが、一緒にいても会話が殆ど続かない。
沈黙が流れたまま、俺たちは特別教室へと辿り着いた。
次の時限、オリヴィアはここで授業だ。
「じゃ、私は教室向こうだから。また後でな」
「はい」
オリヴィアは軽く頭を下げて教室へと入っていった。
彼女の姿が見えなくなると、俺はさっさと踵を返して自分の教室へと向かう。
ちょっとでも離れ離れになると、馬鹿共が待ってましたとばかりにオリヴィアに嫌がらせをするので、移動教室の時も送って行ってやらなければならない。
そのせいでいつも休み時間が殆ど潰れてしまう。
幸い、今回は少し余裕がありそうだ。
気持ちゆっくり歩いて呼吸を整え、今にも爆発しそうな怒りを呑み込む。
相手にしても無駄だと分かっていても、頭に来るものはある。
オリヴィアが隣にいなければ陰口を叩いていた連中に詰め寄っていたかもしれない。
深呼吸して、窓の外を見て、伸びをして、どうにか落ち着いたと思ったところで、ふと気配に気付いた。
「何だ?私に何か用か?」
そう問いかけて振り返ると──
「ッ!」
思わず息を呑んだ。
そこにいたのは入学式で見かけて以来気になっていた男──リオンだった。
やや緊張気味で表情を固くしつつも、リオンは笑顔を浮かべて会釈する。
「急にすみません。俺、リオン・フォウ・バルトファルトといいます」
「ああ──エステル・フォウ・ファイアブランドだ」
自己紹介を返すと、リオンが一枚の紙を取り出して俺に差し出してきた。
「エステルさん、よければ俺のお茶会においでくださいませんか?」