事態が急転するのは昭和33年。戸田が58歳で急死したのだ。そしてこの2年後に、池田は若冠32歳で第三代会長に就任するのだが、居並ぶ先輩を押しのけて、なぜ会長になれたのか。なにしろ、池田は自ら「(私が折伏(しやくぶく)しても)だれも信心しないのですよ」と語るほど折伏がヘタなのである。学会内では致命傷のはずなのに、なぜか池田は戸田の死の翌年には理事に就任。同時に「理事室を代表して、事務局および各部を統括する」総務のトップにつき、あっという間に学会ナンバー2に駆け上がったのだ。
元学会幹部の一人は、「戸田先生亡き後、当時の学会幹部は、空中分解しかねない創価学会をどう支えるかで頭がいっぱいでしたが、池田だけが会長の座を狙っていたのです」という。しかし、戸田が作ったヒエラルキー型組織では、トップの交代が壮絶な権力闘争に変わることはよくあることだ。そのことに誰も気づかない中で、池田だけはそういう嗅覚を身につけていたということだろう。とはいえ、30歳そこそこで、どうやって会長の座を狙えたのか。
「貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」
「当時貧乏だった青年たちの面倒を見て、自分の基盤を学会内に作っていった」と古参幹部は言う。大蔵商事で稼いだ金をふんだんに使ったのだろう。しかし、これだけでは無理である。さらに前出の原島昭は「私の父(原島宏治)を始めとした古参幹部が池田を支持したからです」と言った。
のちに公明党初代委員長になる原島宏治は、戦前から学会の中枢にいた人物で、温厚で実直な性格から、他の幹部たちも信頼を寄せていた。しかし、原島はなぜ19歳も年下の池田を支持したのか。昭は言う。
「建設信用組合の破産で、戸田会長の責任を追及するグループがあらわれ、反学会組織ができました。その首謀者に母が紹介した人が何人かいたため、昭和27年に母が文京支部婦人部長を辞めさせられました。その翌年4月に池田は文京支部長代理になるのですが、役職を奪われて失意のどん底にいる母に和歌を贈るなどして懸命に慰めたのです。それ以来、私の両親は心底、池田を支持するようになりました」
戸田が亡くなった直後から、池田は足繁く原島と会い、やがて「誰が反対しても、私(原島)は池田を推薦すると言い出し、原島先生が言うならと、みんな池田を支持するようになった」と昭は言った。
もっとも、私には池田を会長に就かせたのは、彼の野望だけが理由ではなかったように思う。当時、戸田からの信頼も厚く次期会長と目された石田次男は、「誠実だが欲がなく、病弱だった」(古参幹部)といわれ、理事たちも不安を感じたはずだ。むしろ、戸田なき後の混乱する学会をまとめるために、強引な取り立てもやってのける池田の実行力に期待したのではないだろうか。池田は、なるべくして第三代会長になったのである。