やがて、戦前の大手出版社が復刊し始めると売れ行きがばったり止まり、たちまち日本正学館は破綻した。この時分、池田は学会に入ったことで親から勘当同然になり、アパート暮らしをはじめている。
戸田は、かねてから準備していた小口金融の東京建設信用購買利用組合(以下、建設信用組合)をつくり、池田ら日本正学館の社員を移転させた。ところが、庶民相手の金貸しはまたたく間に経営が行き詰まり、昭和25年に大蔵省から営業停止をくらう。戸田は組合法違反で逮捕されるのをおそれ、名を変えてひそかに姿をくらました。
人生最大のピンチに立ちながら、戸田はしたたかにも、のちに学会と両輪のように動くことになる大蔵商事と東洋精光という2つの会社を立ち上げている。大蔵商事は高利貸しのほかに、保険と不動産を扱い、東洋精光は大蔵商事の担保流れ品を処分する会社である。表に出られない戸田は、愛人を社長に据え、営業のすべてを池田に任せた。
大蔵商事は開業当初から大当たりした。池田は金融の世界が水にあったのか、一説には月20万円の収入があったという。現在の貨幣価値なら500万円弱になる。当然、そこには無理な取り立てもあったことは想像できる。「病人の布団をはいだ」式の噂もあったが、それを確認するため、池田と一緒に働いていた古参幹部を直撃した。
「ダメ、ダメ」と逃げるその人物に、「池田は剛腕でしたか?」と問いを投げると、
「だいたいのところは」と述べ、「(今まで言われていることで)合ってるんじゃないですか」と言った。
作り上げられた「指導者への絶対服従のシステム」
が、池田もさすがに強引な取り立ては気が進まなかったのか、のちに、「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(社長会記録)と語っている。当時の池田は、戸田の命令を忠実に実行する男だった。それにしても、この大蔵商事がなぜ学会と両輪のように動くのか。前出の原島昭が言う。
「当時、市井から資金を調達すると月3分(年利36%)の利息でした。でも大蔵商事は、これは広宣流布のためだからといって、学会員から場合によっては月2分(年利24%)で集めたんです。これを月5分(年利60%)から7分(年利84%)で融資するのですから、学会員が増えれば増えるほど儲かるという仕組みになります」
実際、学会員が増えるにつれて大蔵商事の収益も大きくなり、戸田は営業全般を取り仕切る池田に一目置くようになる。池田が学会幹部で砂糖取引会社常務だった白木薫次の二女・白木かね(香峯子)と結婚したのはこの頃だ。
猛烈なインフレと大蔵商事のおかげで建設信用組合の負債を返済するめどが立った。さらに昭和26年には正式に法的制裁を免れ、戸田は再起を誓って学会の第二代会長に就任する。
まず学会の組織改革に手をつけた。宗教団体にはめずらしく、軍隊組織をまねて、戸田を頂点に、本部―部隊―隊―班と、命令系統を一本化し、指導者である戸田への絶対服従のシステムを作り上げたのである。
さらに聖教新聞を創刊し、生活にゆとりのある会員からは金を出させようと財務部も設立。仕上げは、学会を宗教法人にすることだった。しかし本来、学会は信者の団体にすぎない。日蓮正宗という宗教法人の下に、さらに創価学会という宗教法人を置くには無理がある。当時、日蓮正宗の宗門(僧侶の団体)も大反対したと、宗門関係者はいう。
「かなり議論されました。そして一宗教二法人は認めないという決議を宗会でしたのです。学会員は宗会議員たちをつるし上げましたが、いつの間にか戸田さんは当時の法主日昇猊下(げいか)とのトップ会談でこれを認めさせるんです」
戸田が学会の未来をどう考えたかわからないが、すでにこの時点で、学会が日蓮正宗から離脱する種がまかれたといえる。
大蔵商事での活躍で戸田の信頼を得た池田は、昭和28年に男子部第一部隊長、29年に青年部参謀室長と駆け足で出世階段を昇っていく。ちなみに、青年部というのは戸田の親衛隊のような組織である。同時に「会長先生の耳目となる」(聖教新聞)情報部も設置され、池田は最高顧問を兼任。学会の情報網の中枢に立ったのである。しかし、学会内の席次は37位と、決して上位ではなかった。