その池田の半年にわたる不在という異常な事態である。「脳梗塞で順天堂病院に入院」とか「心筋梗塞で慶応病院に入院」といった重篤説が流れる中で、11月18日、学会は創立80周年記念日を迎えた。しかし、
「名誉会長も、この日までには体調を整えて出てくるだろうと言われていたのですが、結局姿は見せなかった。本来なら大々的に記念イベントを行うはずなのに、名誉会長不在ではそれも出来ない。記念勤行会だけで、機関紙でも80周年のことよりも100周年を目指せと煽ってばかりです」
ある創価学会関係者は言う。現在、名誉会長の健康状態は「池田家しか知らない」といわれるほどトップシークレットで、本部でもそのことを口にすることすらタブーなのだそうだ。
11月18日、22日付で聖教新聞は池田の“近影”を掲載しているが、
「会員から本部に池田さんの体調についての問い合わせが多く寄せられていましたから、不安を払拭しようという狙いですね。21日にあったという米大学の学術称号授与式も、紙面通り行われたのかどうか、幹部からも疑問の声が出ています」
なお、本稿は、「賛美でも批判でもない、第三者の目で池田大作という人物を書く」ことを目的としている。そのつもりで池田に関する過去の膨大な資料を読んでみたが、私なりに気がついたことがいくつかある。たとえば、池田を批判する人は、「戸田城聖第二代会長のときはよかったが、池田になっておかしくなった」というが、資料を読む限り戸田と池田の二人は非常によく似ている。戸田が学会の基礎を作り、池田がそれを発展させたとしか思えないのである。
池田氏と学会との出会いは、同級生に連れられて参加した「座談会」
池田が会長に就任した当時の会員は約100万世帯。それが最盛期に800万世帯(公称)を超えたという。この巨大集団をいかにして作り上げたのか。取材からおぼろげに浮かび上がった私の池田大作像は、宗教家というより、「創価王国」ともいえる巨大でアクティブな組織を作り上げた稀代のオルガナイザーであった。
創立記念日とされる11月18日は、学会の初代会長・牧口常三郎が『創価教育学体系』を出版した日である。戦前の名称が『創価教育学会』だったことでもわかるように、宗教団体というより、会員を日蓮正宗の信者に限定した教育学の研究集団であった。この組織を資金的に援助したのが事業家で、のちに第二代会長になる戸田である。
戦時中、伊勢神宮の神札を祀るようにと強制されたが、牧口も戸田も拒否したために投獄され、牧口は獄死した。戦後、戸田は「創価学会」と名称をあらためる。資金繰りのために小さな出版社や小口金融をはじめるが、それほど信仰に熱心ではなかったらしく、会員も三千名程度だった。
学会では日蓮正宗の信仰を伝えるために少人数で語り合う場を「座談会」と呼ぶ。昭和22年8月、昭文堂という小さな印刷会社で働いていた19歳の池田は、同級生に連れられて東京・大田区の座談会に出席した。池田と学会の出会いだった。座談会に行った理由を池田は〈終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって〉(『宗教と信仰の心理学』)とのちに語っている。学歴も金もなく、未来に希望を見出せない中で、自分の居場所を探していたのだろうか。