下世話な話ではあるが、前世の俺は性欲がそこそこ強い方だった。
結婚して何年も経ったり、子供が生まれたりしていつしかパートナーを異性として見られなくなる、という話を会社の先輩や同僚たちから聞いてはいたが、自分には無縁のことだと思っていた。
子供が生まれても妻──じゃなくて元妻には女性としての魅力を感じていた。
それだけに夜の生活を断られるようになったのは悲しかった。
最初は子育てが忙しいからとか疲れているからという理由で俺も仕方ないかと思っていたが、やがて理由もなしに素っ気なく断られるようになった。
怒りが湧いたし、それ以上に虚しかった。
でも、良い大人良き夫として堪えて何も言わなかった。
今思えば随分馬鹿なことをしたものだ。
元妻は俺の求めを拒否し続けて何ら罪悪感も覚えずに間男と浮気三昧で、俺のことを裏で嘲笑っていたのだから。
だから俺は今世では遠慮は一切しないと決めた。
したいと思ったらそう言うし、理由も述べずに断るなど許さない。
そう、心に決めていたのだが──
「ごめんなさい。今日はお相手できません」
ある日突然ティナにそう言われた。
一瞬足元の床が抜けたような気がした。
冷や汗がぷつぷつと噴き出てくる。
今まで断られたことはなかったのに、なぜ今日に限って。
「──なんで?どうして駄目なんだよ」
「そ、それは──」
ティナは困ったように目を泳がせる。
──隠し事をしている。
それが分かって頭に血が昇る。
脳裏に蘇る忌わしい記憶。
「やめてよ」
「気分じゃない」
「嫌なものは嫌なの」
「疲れているの見て分からない?」
「それしか頭にないわけ?」
「私は物じゃないんだけど」
「私のこと何だと思っているの?」
「今更そういうの無理」
「はぁ──」
「……」
俺が勇気を振り絞って何度もかけた誘いを無碍に断り続け、その裏で間男に抱かれていやがった女に投げつけられた刺々しい言葉と態度の数々。
それを真に受けて自分が悪いのだと思い込み、彼女が隠れて浮気しているなど考えすらしていなかった馬鹿な自分への怒り。
それらから受けた無数の古傷が一斉に開く。
ささくれ立った心が、血を流す。
「──拒むのか──俺を──お前も俺を拒むのか!」
飛び出した怒声は鼻声だった。
見開いた目から涙がこぼれ落ちる感触がする。
その涙を拭う気にもなれず、俺はみっともなくまくし立てる。
「どうせ俺とするのが嫌なんだろ!鬱陶しいんだろ?おかしいって思ってるんだろ!ずっと堪えて我慢して、俺のこと気持ち悪がっていたんだろ!それが我慢ならなくなったんだろ!?ああそうかよ、俺は奴隷にまで疎まれて拒まれるのか!」
するとティナは慌ててかぶりを振って言い訳する。
「違います!そんなこと絶対ありません。ただ、その──」
「うるさい!言い訳なんて聞きたくない!どうせ皆俺のことなんか──」
顔を背けて部屋を出て行こうとすると、後ろからティナが俺を抱きしめる。
振り解こうとしたが、俺の身体は五歳児。力では敵わない。
「──何だよ。離せよ」
抵抗を諦めた俺は辛うじてその言葉だけを絞り出す。
力が抜けたのを感じ取ったティナが俺を離し、正面に移動してくると、片膝をつく。
「申し訳ありませんお嬢様。私が無神経でした。私はお嬢様を疎んでなどいません。誓って本当です」
「じゃあ何で──」
ティナは一瞬困ったような恥ずかしいような複雑な表情をしたかと思うと、小声で言った。
「私、今──生理という状態なんです」
「──え?」
思わず間の抜けた声が出た。
盲点だった。
前世のトラウマに気を取られて、女性なら誰しもが抱えている事情のことが頭から抜け落ちていた。
俺が何のことか理解していないと思ったのか、ティナが生理について説明してくる。
「簡単に言うと、私、今血が出ているんです。私も含めて、女の人のお腹の中には、生まれる前の赤ちゃんが眠るための部屋とお布団があって、そのお布団は毎月新しいものに勝手に替えられるようになっているんです。それで、古いお布団を捨てる時にちょっとドアが開いて血が──」
「分かったもういい。それは知っているから」
「え?ご存じだったのですか?」
「あ、ああ──お袋から聞いたことがあって、な」
股から出血していることを比喩表現を混えて懇切丁寧に説明されると、何とも言えない気分になる。
聞かされている方がこうなのだから、言う方はもっとやりにくいだろう。
怒って泣いていたのが馬鹿馬鹿しい。
「怒って悪かった。その──大変、だな」
「いえ、私が最初からきちんと説明すべきでした」
そう言ってティナは頭を下げる。
「今日はお相手できませんけど──あと四日ほど経てば大丈夫ですから」
「分かった。待ってるからな」
「はい。お約束しますよ」
どちらからともなく小指を差し出し、絡ませる。
これでお互い水に流して、四日後にまた──
◇◇◇
そんな約束をしてから八年。
雪解け祭りが終わってしばらくしたうららかな五月の始め頃の日に、前触れなく唐突に
いつか来ると知識としては知っていて、頭では理解していたのに──ソレを見た時、湧き上がる恐怖で絶叫してしまった。
「お嬢様!どうされましたか!?」
「ち、血が──布団が──布団に血が──」
駆けつけてきたティナに俺はみっともなく涙目で縋り付いてしまった。
でもあれはさすがに仕方ないと思う。起きたら布団が血塗れだったなんてトラウマものである。
「大丈夫です!大丈夫ですから!落ち着いてください」
ティナが俺を抱きしめて背中をさすってくれて、俺はいくらか落ち着きを取り戻した。
だが、腰が抜けたか、力が入らない。
それを見たティナが「今日は休まれては?」と提案してくるが、俺はかぶりを振る。
「仕事がある。病気でも何でもないのに休めるか」
「──ご無理はなさらないでくださいね。それとお腹を冷やさないように、これをご着用ください」
ティナが差し出してきたのは冬に使う腹巻だった。
仕事着の下に着けていると、確かに腹が温かい。
そのおかげか、腹痛などはなかったが、どうにも調子が出ない。
鍛錬も漏れと貧血が怖くてロクにできなかったし、仕事をしていても微かに眠気を感じて能率が悪い。そのせいか、明らかにいつもよりイライラしている。
それに何より、二時間ごとに
ティナやセルカがやろうかと言ってきたのを恥ずかしくて断ったのは俺だが、ちょっと後悔している。
結局仕事を終える頃にはすっかり夜も更けて、俺は疲労困憊だった。
「お疲れ様。大変だったわね」
机に突っ伏す俺にセルカが紅茶の入ったカップを差し出してきた。
「──ああ」
疲れた身体を起こし、紅茶を一口飲む。
温かさが染み渡り、思わず安堵の溜息が漏れた。
女らしい振る舞いをするのと同様、いずれ慣れるのかもしれないが、これがあと数十年間毎月やって来ると思うと、憂鬱な気分になる。
ティナもこういう気分に毎月なっていたのだろうか。
そんな素振りは全く見せなかったが、仕事上見せるわけにはいかなかっただけで、本当は苦しんでいたのだとしたら──八年前は本当に悪いことをしてしまったな。
専属使用人としての立場があるとはいえ、怒りや苛立ちを露ほども見せずに、冷静に逆上した俺を宥めすかして丸く収めたティナは本当にできた奴だ。
今の俺が当時のティナの立場だったら、当時の俺を思い切りぶん殴っているだろう。
──今度ティナには日頃の感謝も込めてお菓子でも奢るか。
「そうねぇ──あの娘シナモンロールが好物みたいだからそれにしたら?」
俺の心の声が聞こえたらしいセルカが提案してくる。
「ああ、そうするよ」
力なく答える俺にセルカは苦笑する。
「疲れが酷いわね。まあ、貴女の前世を考えると無理もないけれど」
「本当だよ。やっぱり男に生まれたかったな。というか、今からでもできないかな。魔法とか使ってさ」
「うーん──そういう魔法は聞いたことないわねぇ」
「言ってみただけだ」
男になれる方法があるなんて別に本気で期待してはいない。ただの愚痴だ。
仮にあったとして、今俺が生きているのは歪な女尊男卑の価値観に支配された世界だ。
また別の悩みや問題が発生するだけだろう。それも前世のトラウマを抉ってそこに猛毒を塗り込むような、どぎついのが。
「やっぱり生理に伴う不便やストレスを軽減する工夫をするのが現実的ね。使い捨てにできる生理用品とか、それらがズレないように締め付ける下着とか──あ、下着自体に吸収性を持たせる方がいいかしら?あとは──まあ、当人たちに意見を聞くのが確実ね。今特に困っていることは何かしら?」
セルカの問いかけに俺は迷わず当て布のことを答える。
「取り敢えず布よりマシな当てるものを作れないか?動くとズレるし、ゴワゴワしてて気になるんだよ。あと、洗うのがキツいし」
「それなら使い捨ての紙ナプキンでも作ってみる?ちょうど今木材パルプ工場を改修しているでしょう?そこの設備と製法を応用すれば作れると思うの。下着と同じ形に作ればズレる心配もないでしょうし。どうかしら?」
すぐにアイデアを出してくれるセルカの頭脳には感心するが、俺には一つ、深刻な疑問が生じた。
「まあ、聞いた感じ悪くはないけど──それっておむつとどう違うんだ?」
セルカは若干目を逸らす。
「──大して違わないわね。でも、きっと快適よ?そうしょっちゅう替える必要ないし、漏れる心配しなくていいし」
「いや、でもさすがにおむつは──」
渋る俺にセルカは顔を近づけてくる。
「寝ている間も安心よ?寝返り打ってもズレないし、朝起きたら寝間着や布団が血塗れなんてこともなくなるわよきっと」
「それは──ありがたいけど──」
「朝の鍛錬だって何も気にせずできるわよ?たしかあれ、一日サボったらその分を取り返すのに三日かかるんだったわよね?その損失も防げるのよ?」
「ッ!」
──そうだ、鍛錬だ。
生理の度に滞っていては強さが失われてしまう。
それは絶対に駄目だ。
「わ、分かった。──頼む」
「任せなさいな。来月には生産を開始してみせるわ」
折れた俺を見て、セルカは満足げにそう言って胸をどんと叩いた。
◇◇◇
一週間後。
俺はティナをデートに連れ出していた。
行き先は雪解け祭りで行った屋台を出していたシナモンロールの店だ。
取り寄せてもよかったが、やはり店で作りたてを食べさせてやろうと思った。
こういうのって気持ちというか、気分が大事だっていうし。
店は平日の昼間とだけあって空いていた。
まるで貸し切りのような雰囲気で、幸運だと思った。
「好きなの頼んでくれ。俺の奢りだ」
「いいんですか?そ、それではありがたく──」
ティナが遠慮がちに林檎が載ったやつと紅茶を注文する。
俺はアイシングがかかっただけのオーソドックスなやつにした。
前世の影響か、甘過ぎるのは苦手だ。
運ばれてきたシナモンロールを見て、ティナが目を輝かせる。
「ティナ──いつもありがとうな」
そう言うと、ティナは目を見開く。
「え?な、何ですか急に?」
「いや、俺さ──今までお前に凄く苦労を掛けていたなって、思ったんだよ。だから──その礼が言いたくて」
照れながらもどうにか自分の言葉で伝えたが、ティナは固まったままだ。
「な、何だよ?」
恥ずかしくなってきたので、何とか言えよと言おうとしたら──
「あ、あれ?」
ティナの両目から涙が流れ落ちた。
「すみません。その──私──そんなこと言われたの、初めてで──嬉しくて──」
後から後から流れ出てくる涙を拭うティナにハンカチを差し出す。
ティナは受け取ったハンカチを目に当ててから、太陽のような明るい笑顔になる。
そして──
「私の方こそ、ありがとうございます」
その言葉と表情を俺はきっと一生忘れないだろう。
◇◇◇
六月。
セルカの言ったことは本当だった。
吸収用の綿状パルプと防水紙、それを包んだ不織布でできた下着型のナプキンは当て布とは比べ物にならない快適さである。
おかげで今月は鍛錬を休まずにやれた。
俺と同じく試用を任されたティナとアーヴリルにも好評である。
「思った以上に良い出来だわ。これは価格をもう少し抑えればビジネスにできるわね!」
セルカがニッコリ笑って手を打つ。
「ビジネスか──」
「ええ。私が知る限りこんな生理用品は王都にも存在していないわ。使い心地の良く、かつ低価格を売りにして上手く宣伝できればシェアの独占も夢じゃないでしょうね」
「独占だと!?そいつはいいな!」
「でしょう?」
俺たちは悪どい笑みを浮かべてガッチリと手を組んだ。
「商会を通じて取引するのが手っ取り早いけれど、それでは中間搾取が発生して価格競争で勝てなくなるわ。ならば──」
「自分たちで会社を立ち上げて生産から販売まで一貫して担う」
「そうね。大量生産ともなると原料の調達と生産能力の向上が大変になるけれど──」
「製造をアウトソーシングしてこちらは開発と販売を握っていればいい」
思わず二人して「フフフ」と笑いが漏れる。
「そうと決まれば早速、特許の取得と量産に向けての改良に生産設備の増強、そして販路の開拓ね。これはもう国を挙げた一大プロジェクトだわ」
「よし、そのプロジェクト、お前に全て任せる。必要なものはその都度言え」
「承りましたお嬢様」
セルカが恭しくお辞儀をする。
それからのセルカの働きは凄かった。
どうやったのか、普通は最短でも二年はかかる特許を一年で取得し、二十年間の独占販売権まで勝ち取ってきた。
しかもその間にどこからか志を同じくする女性たちを集めて販売会社も立ち上げ、ファイアブランド領と王都の二ヶ所に販売拠点を用意していた。
俺が十五歳になり、成人と認められた頃には【クレセント】と名付けられたその会社の売り上げが軌道に乗り始めていた。
人や社会の意識というものは簡単には変えられないため、爆発的に売れて大流行とはいっていないようだが、顧客からはやはり便利だと好評らしい。
商品開発も進んでいて、ナプキンだけではなく、おむつやトイレットペーパーなども作り始めているのだとか。
俺の悩みの解決策がこの世界での画期的な発明品となり、ビジネスを生んで大金を稼ぎ出している。
何だか不思議な気分だが、こういうのを現代知識チートというのかもしれない。
製品や会社を作ったのはセルカだが、それで儲けて得をしているのは俺だ。
そう考えると俺は他人の成果で利益を貪る悪人──良いじゃないか。
悪徳領主の夢にまた一歩近づいたようなものだ。
これからもっともっとできそうなチートを見つけて使って、暴利を貪り、悪逆非道の限りを尽くしてやろう。
執務室に一人、思わず笑いを漏らし、誰もいないことに油断して高笑いしていると──
一気に飛び出してきたソレの感覚が俺を一瞬で真顔に引き戻した。
──まぁ、その、何だ。
──不意打ちって、効くよな。
現実逃避しながら俺は呼び鈴を鳴らしてティナを呼ぶ。
色んな意味で、安定と平穏はまだまだ遠い──そんなことを思った成人直後の春の日だった。