怖い。
眠れないくらいに怖い。
ベッドの下から今にも何かが這い出してくるんじゃないか、窓から今にも何かが入り込んでくるんじゃないか、明るい時よりも大きく見える家具や人形たちが今にも動き出して襲いかかってくるんじゃないか、そして時々聞こえてくる正体不明の音、あれ、こっちに来るんじゃないか──
ファイアブランド家の長男【クライド・フォウ・ファイアブランド】は夜の闇が怖かった。
それはカーテン越しに月明かりが差し込んでいようが、蝋燭が灯っていようが、何も見えない真っ暗闇だろうが、同じだった。
昼は楽しい遊び場である自分の部屋が、夜になると恐ろしい牢獄へと変わる。
それでも五歳の頃までは寝付くまで母が一緒にいてくれた。
母の姿が見えていれば、恐怖も薄らいで、眠りに落ちていけた。
だが、五歳を過ぎると、母はいてくれなくなった。
夜が怖くてどうするのか、男の子なのだから堪えなさい、強くなりなさい──そんなことまで言ってくるようになった。
それはいつかクライドが成長して貴族社会で生きていくにあたって、侮られたりいいように利用されたりして辛い思いをしないよう、強く堂々とした人間に育てなければ──という親心ゆえだったが、まだ幼いクライドにそれが分かるはずもなし。
優しかった母の変わりようにクライドは戸惑い、そして嘆いた。
毎晩のように毛布に潜ったり寝返りを打ったり丸まったりを一時間以上も無意味に繰り返してまんじりともできず、いつの間にか疲れて眠っている──人知れず、そんな夜を繰り返して、クライドは苦しんでいた。
それでも努めて弱音を吐かず、泣くな挫けるなと自分に言い聞かせていた。
◇◇◇
そして冬が来た。
その晩は外の吹雪が鎧戸を揺らし、ガタガタと不気味な音を立てていた。
当然寝られるわけがなく、クライドは湯たんぽを抱いてランプの側で震えていた。
母と一緒に寝ていた時でさえ怖かった鎧戸の音が、一人でいると余計に恐ろしかった。
耳を塞いでも音は完全には消えてくれない。
今すぐにでもこの部屋から逃げ出して両親の寝室に行きたかったが、怒られるのも嫌だった。
クライドが泣き言や弱音を言えば、両親──特に母は泣くなと怒る。
鎧戸の音が怖いと言って両親の寝室になど行けば、何と言われるか──想像するのも嫌だ。
よしんば怒られるのには目を瞑っても、両親の寝室は遠すぎる。
向かいには姉の部屋があるが──彼女の部屋には行きづらい。
姉の部屋には行ったことがないし、そもそも姉と話したことも殆どない。
老人のような白い髪に、凍てつく氷河のような青い瞳、怒っているかのようにつり上がった目尻──父にも母にも自分にも、家族親類の誰にも似ていない異質な容姿をしていて、滅多に笑顔を見せないせいで何とも言えない怖さがある。母に小言を言われた日にする不機嫌な顔など殺気すら感じる。
そしていつも黙々と木剣を振るっているか、本を読んでいて、一緒に遊んでくれたことなど一度もない。
そんな姉の部屋に行くなど、両親の部屋に行く以上に恐ろしい。
何をされるか分からない。
必死で堪えて眠りに落ちるのを待っていたクライドだったが、不意にランプの火が急激に小さくなったかと思うと、フッと消えてしまった。
「ちょ、ちょっと!なんで!ねえ!消えないでよ!」
クライドはランプに縋り付いたが、火は戻らない。
彼は気付いていなかったが、中の蝋燭が切れてしまったのだ。
辛うじて周りを照らしてくれていたランプの光が失われたことで、部屋は真っ暗闇になった。
そして直後に鎧戸が一際大きな音を立てた。
「ひっ!」
身が竦んで、涙が溢れた。
(泣いちゃ駄目だ──泣いちゃ──)
必死で涙を拭うが、止まらない。
もう限界だった。
クライドは四つん這いのまま手探りで部屋の扉を目指して歩いた。
こんな所にはいられない。もう怒られるのは我慢して両親の所に行こう──そう思った。
手にドアの感触がすると、立ち上がってノブを探し、そっと回して扉を開ける。
両親の寝室は屋敷の西翼屋──反対側にある。そこに行くには長い廊下を渡らなければならない。
だが、その廊下は真っ暗闇の部屋と同じかそれ以上に恐ろしい場所だった。
明かりの消えた廊下は一メートル先もほとんど見えず、すぐに出てきた部屋の扉も見失った。
真っ暗闇の中に、一人──何も見えず、微かに聞こえてくる風の音以外は何も聞こえず、確かなのは床と壁の感触だけ。
ふとした弾みで方角を見失ったら──永遠にこの真っ暗闇の中を彷徨い続けることになるんじゃないか──そんな恐怖に苛まれながら、クライドは歩いた。
力を込めて壁を捕まえ、震える足を精一杯動かして、一歩、また一歩──
不意に何かの足音が聞こえた。
思わず立ち止まり、壁にぴったりくっついてしゃがみ、息を殺す。
だが、こちらに気付かずに去って欲しいという願い虚しく、足音はどんどんこちらに近づいてきた。
その足音はどうやらクライドが来た方角から聞こえてくるようだった。
(──誰?)
足音の主を確かめるには振り返るか、声をかけるしかないが──そのどちらもクライドにはできなかった。
身体が動かない。
手足も首も口も凍りついたかのようだ。
足音はすぐ後ろにまで迫ってくる。
(助けて──!)
目を瞑り、声にならない悲鳴を上げた直後──
「クライド様?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、手燭を持った獣人の女が怪訝な表情でこちらを見ている。
「あ、あなたは──お姉ちゃんの──」
いつも姉に付き従い、時々飲み物やおやつやタオルを運び、夜には一緒に姉の部屋に入っていくメイド──それを何と言うのか、クライドはまだ知らない。
分かっているのは彼女が【ティナ】という名前であることだけだ。
そのティナがそっと屈んで目線の高さを合わせて問いかけてくる。
「こんな時間にお部屋を出られて──どうかなさいましたか?」
怒るでも嗤うでもなく、何があったか問いかけてくるティナに、クライドは何と言ったらいいのか分からなかった。
素直に話したものか、それとも何か別の話を振るべきか──しばし迷ったが、結局何も思いつかなかった。
「──怖くて」
結局白状した。
ティナが目を見開く。
怒られるかと思って思わず身が竦んだが、次の瞬間にはクライドは柔らかいものに包まれていた。
抱きしめられたのだとすぐに分かった。ついこの間まで母がしてくれていたように。
姉の側を離れず、姉の世話しかしないと思っていたティナが、母のような優しさを自分に向けてくれているのが不思議だったが、それ以上に嬉しかった。
安堵も合わさって、クライドは泣き出した。
「お労しい。まだこんなにお小さい──甘えたい盛りでしょうに」
ティナはそう言ってクライドの頭を撫でた。
そのままティナに抱きかかえられて寝室に戻った。
彼女はクライドが眠りに落ちるまで、ベッドに腰掛けていてくれた。
◇◇◇
それ以来、ティナは毎晩クライドの部屋に来てくれた。
寝付くまで一緒にいてくれて、そして色々な話を聞かせてくれた。
絵本、御伽噺、彼女自身のこと──そして主人である姉のこと。
ティナの話はどれも楽しかったが、特に気になったのは姉の話だった。
彼女の話で聞いた姉はクライドの知る姉の姿とはだいぶ違っていた。それに姉の話をする時、彼女はいつもどこか楽しげで嬉しそうにしていたのだ。
「それでお嬢様ったら、本当に目隠しをしてお稽古をし始めなさったんですよ。最初は危ないから訓練場だけでって話でしたのに、目隠しをしてお庭を走られて──見ているこっちの気も知らないで楽しそうになさって──」
子供ながらにティナが姉のことをとても大切に思っているのが分かった。
そして自分に優しくしてくれるティナがそんな風に思っているのなら、姉も本当は怖い人ではないのかもしれない、と思った。
そう思って以来、姉のことを見ることが多くなった。
朝食の時、勉強している時、本を読んでいる時、木剣を振っている時──それとなく姉の行動や表情を観察していた。
そして確かに表情が緩んだり、笑顔を浮かべたりする瞬間を何度か見た。
相変わらず話しかけることはできなかったが、姉のことを知りたいと思う気持ちは強くなっていった。
そしてある晩、クライドは初めてティナに話をねだる以外の頼み事をした。
「ねぇ」
「はい、何でしょうか?」
「お姉ちゃんの修行してるとこ、見てみたい」
姉が毎朝行っているという剣の修行、それを見れば姉の本当の姿が見えるのではないか──そんなことを思ったのだ。
ティナは一瞬目を丸くして、そしてすぐに微笑んで言った。
「でしたら、明日は早起きしないといけませんね」
◇◇◇
ファイアブランド領の冬は長く厳しい。
特に十一月から三月くらいまでは大地は雪と氷に閉ざされ、その上を吹雪が吹き荒れ、あらゆるものを凍てつかせる。
そんな死の季節に早朝から外に繰り出すなど、傍から見れば酔狂である。
だがそれを毎朝やっているのが姉だった。
「はぁッ!!」
掛け声と共に姉が木剣を振るうと、打たれた丸太がカーンと小気味良い音を立てて宙を舞う。
丸太はしばらく上昇した後、一瞬静止し、そしてまた姉目掛けてすっ飛んでいく。ロープで大きな木に吊るされていて、振り子の要領で同じ位置に戻っていくようになっているのだ。
「うむ、動きが良くなっておりますぞ!今日からもう一セット増やしましょう!」
姉の師匠が手を打って指示を出す。
「はい!」
姉は師匠の指示に力強く答え、直後に丸太を弾き返す。
早朝の銀世界の中、防寒着もなしにひたすらに木剣を振るう彼女の姿はさながら雪の精のようだ。
その姿を見てクライドはただただ圧倒されていた。
丸太は見るからに重そうな大きいもので、それを吊るすロープも人の腕くらいはあろうかという太さである。
それを木剣の一撃でブランコのように高く舞い上がらせるなど、一体どれだけの力が込もっているのか。
しかも姉は目隠しをしてそれをやってのけていた。
自分では絶対にできそうにない。
姉と違って何重にも厚着しているのに、まだ寒くて松明の火から離れられないでいるし、本より重いものを持ったことがなく、力は弱い。目隠しなんてされたら一歩も動けないだろう。
(すごい──)
姉の集中を乱さないために声を出すことは禁じられていたので、心の中で感嘆する。
一緒に来たティナの方を見れば、「ほらね」というような笑みを浮かべていた。
朝の鍛錬が終わった。
師匠が木剣を受け取って一足先に屋敷へと戻っていく。
姉は目隠しをしたままクライドとティナがいる所に歩いてきた。
ティナがタオルを差し出すと、姉は目隠しを取って顔の汗を拭く。
「今日もお疲れ様でした」
「ああ。ありがとうな」
ティナにお礼を言う姉は今まで見たことのない優しい笑顔だった。
──その笑顔が消えないうちに声を掛けなければ、となぜだか強く思った。
「お、お姉ちゃん!」
思わず口を開いたら思ったよりも大きな声が出てしまった。
ティナの耳がビクッと動く。
恥ずかしさと驚かせてしまって申し訳ない気持ちとで、顔が熱くなるのを感じる。
そして姉は笑顔を消し、「なんでお前がここにいるんだ?」とでも言いたげな表情でこちらを見下ろしていた。
思わずたじろいだが、隣にはティナがいる。彼女の前で逃げたくはなかった。
「お、おつかれさま。すごかったよ!さっきの!」
精一杯の勇気で、姉に称賛の言葉を掛けた。ティナが言っていた労いの言葉を添えて。
すると姉は少し目を見開いた。そして、その表情がほんの少し優しくなったように見えた。
ティナに向けていたような笑顔ではないが、それでも今まで感じたような刺々しさはなかった。
「──そうか。こんな朝にわざわざ見に来るとは、お前も物好きだな」
姉は淡々とそう言うと、さっさと屋敷へ向かって歩き出す。
「さっさと帰るぞ。突っ立ってると寒いだろうが」
背中越しにそう言ってくる姉にティナは肩掛けを渡しながら小言を言っていた。
「もう、お嬢様ったら。もう少し別の言い方がありませんか?」
「どうせただの珍しいもの見たさだろ。それに、子供に褒められたくらいで喜んでいられるか。まだまだ先は険しいんだ」
「そんなこと言わないであげてください。クライド様、今朝のお嬢様の鍛錬を見に来るのすごく楽しみになさっていたんですよ。そのためにわざわざいつもより一時間も早くに起きて──」
「あー分かった分かった。それ以上はいい」
姉はティナを遮ると、クライドの方へと向き直った。
その顔はどこか困っているような、嬉しがっているような、見たことのない表情だった。
「さっきは悪かった。その──ありがとうな。また見たくなったら、いつでも見に来ていいぞ」
姉の言葉にクライドは大きく頷いた。
「うん!」
あんな凄いものが見られるなら毎日だって早起きして見に行きたい──そう思った。
──瞬間くしゃみが出る。
「っくしゅん!」
水っぽい鼻水が垂れて、雪の上に落ちる。
「ああほらやっぱり寒いんじゃないか。さっさと帰るぞ。ティナ!」
姉が合図すると、ティナがクライドを抱き上げて走り出す。
ティナの腕の中で、クライドは何度もくしゃみをした。
屋敷の中に戻っても、くしゃみは止まらなかった。
◇◇◇
「──あつい」
毛布を二枚重ねられたベッドの中でクライドは呻いた。
ベッドの中は暑く、そして身体は熱い。そればかりか、唾を飲み込む度に喉に痛みが走り、頭も内側からガンガンと叩かれているかのように痛い。
──クライドは風邪を引いてしまった。
「具合はどうだ?」
姉が顔を覗き込んでくる。
その隣には落ち込んだ様子のティナもいた。
「──頭痛い」
姉に答えると、ティナが謝ってくる。
「申し訳ございません。私の用意が足りなかったばかりに風邪を引かせてしまって──」
「ううん。ティナは悪くないよ。僕が──寒がりで弱いから──っしゅん!」
言い終わらないうちにまたくしゃみが出た。
ティナが差し出したハンカチで鼻をかむ。
入れ違いに姉がカップを差し出してきた。
「飲め。身体が温まる」
カップの中身は紅茶だった。
飲んでみると、ぴりりとした辛さと優しい甘さが口の中に広がった。
知らない味に思わずクライドは尋ねた。
「これ何?」
「ジンジャーシロップ入りのお茶だ。サイラスが淹れてくれた」
姉の口から出た知らない言葉に首を傾げるが、ティナが教えてくれた。
「生姜っていうお薬と一緒に煮たお砂糖のことですよ。風邪には良く効くんだそうです」
その言葉通り、喉の痛みが和らぎ、身体が芯から熱くなってくる。
「ほんとだ。ね、これなら明日には治るかな?またお姉ちゃんの修行してるとこ見に行きたい」
そう言うと、姉とティナは一瞬顔を見合わせる。
そしてティナはかぶりを振って残酷な事実を告げる。
「残念ですがクライド様、それはできません」
「え?どうして?」
「まず風邪は明日明後日には治りません。それに──今後私がクライド様をお嬢様の鍛錬の場にお連れすることはできません。奥様からの言いつけです」
奥様──つまり母が姉の修行を見に行くことを禁じたことにクライドは驚いた。
「お母さんが?なんで──どうして?」
「私が誰のお許しも得ないままクライド様を朝から外に連れ出し、その上風邪を引かせてしまったからです。本来ならば私は追い出されても仕方ありません。お嬢様が庇ってくださり、そうはならずに済みましたが、今後はクライド様を奥様のお許しなく連れ出さないように、と厳に命じられました。ですから、もうお嬢様の鍛錬の場にお連れすることはできません」
ティナの説明はほとんど頭に入って来なかった。
分かったのは、風邪が治っても姉の修行しているところを見に行くことはもうできないということだけだ。
楽しみが取り上げられた悲しみと、取り上げた母への怒りが混じりあって、胸が苦しくなる。
涙を浮かべて、クライドは抵抗した。
「そんな──いやだよそんなの。またあのすごいの見たいよ!」
「申し訳ありません。奥様の言いつけには逆らえません」
「言ったもん!お姉ちゃんがいつでも見に来ていいって言ったもん!」
かぶりを振って駄々をこねるクライドだが、直後に姉の怒声が響く。
「我儘を言うな!」
初めて聞いた姉の怒声にクライドは黙ってしまう。
そればかりか、姉はかつてないほど怖い顔をしていた。元の顔立ちがキツめな分、母すら上回る迫力がある。
「母さんはお前が心配なんだよ。お前が元気でいるのが何よりも大事なんだよ。お前は私と違ってまだ小さいし、身体が弱いから今みたいにすぐ病気になる。それなのにまた寒い朝から外に出るとか、許されるわけないだろうが。言いつけを破ってお前がまた風邪引いたり怪我したり、死んだりなんかしたら、母さんも父さんもどれだけ悲しんで大騒ぎするか──それにティナと私も怒られるんだよ。さっきだってこっ酷く怒られたしな。次は修行自体やめさせられるかもしれない。お前が痛い思いするだけじゃ済まないんだ」
まくし立てた姉は一息吐いてから、少しだけ表情を和らげて言った。
「だから言いつけはちゃんと守れ。また見に来たいなら、もっと丈夫になってからにしろ。朝から外に出ても風邪引かないくらい丈夫になったら、母さんだって文句は言わないだろ」
そう言って姉は屈んでクライドの頭を撫でた。
「いいか。約束だからな」
間近で目を合わせてそう言われて、逆らう気が失せた。
「う、うん。分かった──ごめんなさい」
「分かればいい。ゆっくり寝てろ」
姉は頷いてクライドの毛布をかけ直した。
そしてクライドが寝付くまでベッドの側にいてくれた。
◇◇◇
月日は流れ、クライドは七歳になった。
二年前に比べて身体は少し大きくなったものの、まだ身体は弱く、しょっちゅうお腹を壊したり、鼻風邪を引いたりする。
姉が言ったような冬の朝から外に出ても風邪を引かない丈夫な身体にはまだ程遠い。
でも、身体の大きさ以外にも変わったことはある。
「やぁっ!」
掛け声と共に木剣を振りおろすと、練習用の人形の頭に食い込む。
「まだです。もっと踏み込んで。鍔で斬るのです。さあもう一度」
「はい!やぁっ!」
師匠のティレットが駄目出ししてくるが、クライドは挫けずにもう一度木剣を振るう。
クライドは体力をつけるために剣術を習い始めていた。
指導しているのは、姉と違って外から来た一流指導者ではなく、屋敷の番兵を束ねる騎士ティレットだが、彼はファイアブランド家の家臣の中では最も剣の腕が立つベテランだ。それに姉の稽古相手も務めているため、クライドも文句はなかった。
二年前のあの日以来、姉の鍛錬は見に行けていない。
でも、大きくなって丈夫な身体になるまで待ってはいられなかった。
身体を鍛えて、一日でも早く丈夫な身体を手に入れて、またあの凄い鍛錬を見に行きたい──そう思ったのだ。
そして木剣を振るうようになった今、クライドにはもう一つ目標ができた。
いつか姉と一緒に鍛錬することだ。
姉は十二歳になった今でも鍛錬に夢中で、毎朝欠かさず木剣を振るっている。
そして相変わらずクライドとは遊んでくれないし、話すことも少ない。
でも、姉が夢中になっている剣術の鍛錬を自分が一緒にやれたなら──一緒に剣を振って、互いに剣を打ち合わせて稽古ができたら──それはとても楽しい時間になる気がする。
何年かかるか分からないが、いつか絶対に叶えたい。
(待っててね。お姉ちゃん)
剣を振るう姉の姿と、鍛錬が終わった後の笑顔を思い浮かべる。
姉のことを思い浮かべると、力が湧き上がる。何だってできる気がする。
それが憧れからなのか、それとも別の想いからなのか──今はまだ誰にも分からない。
よく知らなかった人の思わぬ一面を見たら、意識するようになっちゃうよね。