平日の朝に都内の駅にいると、目眩がしそうなほど大勢の人間が歩いていて、その人たちが何かしらの生産活動に励んでいると考えると、圧倒されるような気持ちがする。さらにこれから、機械化が進み、AIが多くの業務を肩代わりしてくれるようになるとさえ言われている。そうやって、様々なものが生み出され、改善されていくなら、今日よりも明日のほうがラクで豊かな世界になっていていいはずだ。ていうか、とっくに週2くらいの労働で暮らせるようになっていてもおかしくない。
でもそうなるどころか、むしろどんどん苦しくなっている気がする。みんな頑張って働いてるように見えて、何か根本的に間違ったことをやっていないか。そう考えたことのある人は少なくないのではないか。
そんな素朴な問いは、多くの人が抱くものであると同時に、世界の複雑さと日々の忙しさによって立ち消えてしまうものでもある。あるいは、何かしらの説明で自分を納得させてやっていかなければならない。実際のところ個人が考えたって仕方のないものでもあるわけだし。
「世界が悪くなっている」と感じるのは、人間が生存戦略として身につけたバイアスで、人は必ず何かしらに不安を見出す、という説明もあるかもしれない。ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』は、「ファクトを見るかぎり、多くの人の認識に反して、世界は着実に改善されている」と主張する。しかしこのベストセラー本には、途上国が先進国に近づいていることは書かれているが、先進国が直面している問題についてはめぼしい言及がない。
この文章では、「昔より生産性が上がっているはずなのに、生活がラクになっている気がしない」とか、「クソみたいな仕事ほど儲かる一方で、わかりやすく人の役に立つ仕事ほど待遇が悪い」とか、「少子高齢化が進んで未来に希望を持てない」などの、今の先進国が直面している問題を扱うつもりだ。
- 今の先進国おける「普通の人が普通に生きていくのがつらい」という問題を扱う
- 「昔より今のほうが良くなっているので心配ない」という類の主張をしない
- 既存の利害関係を大きく変えるような改革が可能と考えない
- 疑問を投げかけるとか議論を深めるといった決着を望まず、具体的な解決を明示する
という感じでやっていきたい。
多くの人にとって重要であろう問題を扱おうとしているし、なるべく多くの人に伝わるように衒学を排して柔らかく書いたつもり。
それでも、一般的なブログ記事に比して分量がかなり多くなってしまった。それを許容できる方にのみ読んでもらいたい。
- 仕事を頑張るほど他人の負担が増える
- 普通の人の無力化と、結果としての少子化
- 「過剰な要求」は「中間」から社会を分断する
- 「多様な要求」、「行動」と「理解」の分離
- 「協力」はプラスを増やし、「競争」はマイナスを減らす
- 「市場」は「生産」ではなく「分配」のためのもの
- 「順闘争」と「逆闘争」
- 「逆闘争」の細分化と、自分たちに返ってくる問題
- 「順闘争」の整備と、「逆闘争」の整備
- ベーシックインカムが説得力を持たない理由
- 「逆競争」の考え方
- 大衆的公共性
- まず恩恵を受け取ること
- まとめ
仕事を頑張るほど他人の負担が増える
「はたらく」とは「傍(はた)をラクにすること」といった、いかにもな言葉遊びがあるが、「自分が仕事を頑張ると誰かがラクになる」思っている人は多い。その牧歌的な価値観に反して、現代的な仕事の多くは、他人の負担を増やすことによって利益を得ようとする。
そんな、今年の「余計な仕事・ザ・イヤー」を考えるなら、「軽減税率」は筆頭候補になると思う。
消費税が8%から10%に増税されたが、その際に、特定の商品は8%のまま据え置きという「軽減税率」が導入された。これによって、一律だった場合と比べて事務作業などが増え、ちょっとした業界の利権のために、国民の膨大な労力を些末な業務に費やさなければならなくなってしまった。
「税の3原則」は「公平・中立・簡素」と言われているらしいが、「税金」のような全員が守ることを強制されるルールほど、誰にでもわかりやすく単純なものが好ましいという考え方はある。一方で、政治家や役人、利害関係のある業界は、8%と10%の分類のような、他人の負担を増やす「複雑化」によって、影響力を行使しようとする。
「軽減税率」ほどあからさまだとさすがに非難されるが、多くの「複雑化」は、むしろ立派なものと見なされることが多い。(ていうか「軽減税率」でさえ、それを良いものと考える人が大勢いて、現に実行されたわけで。)
官僚、弁護士、会計士、税理士など、ルールの運用を担う専門家集団は、ルールが複雑になるように働きかける。それが万人にとって親切なものになるほど、自分たちの影響力がなくなってしまうからだ。専門家の立場からすれば、扱えるルールは門外漢にとって難しいものであってほしい。
世の中には、「優秀な税理士に頼むと税金が減る」ことがあるらしいが、「公平・中立・簡素」に則るならば、これも決して望ましいことではないだろう。「税金」は、誰もが守らなければならず、ちゃんとやらなければ逮捕されることすらある強力なルールだが、それほど重要なものが、わかりやすさとは程遠い。企業は税の専門家に頼らなければならないし、個人事業主は毎年の確定申告に悩まされる。日本の税制は、「実態は税金だけど名称は保険」など、あえて把握や比較をしづらくする複雑な仕組みが、膨大な手続きのコストによって支えられている。
「複雑化」への誘惑は至るところにある。個人と企業のレベルで考えても、自分の業務を属人化したほうが、その企業に対しての自分の影響力は強まる。公平を期すために言うなら、そのような属人化を拝する役割を担ってきたのが専門性であり、事態を整理してわかりやすくしようとする努力も常に行なわれている。しかし大枠としては、飯の種が必要な以上、「複雑化」の方向に進みがちだ。専門家たちは、積極的に「知らないと損をする知識」を作りたがり、自分たちだけがそれを上手に扱って利益を得ようとする。
もっとも「複雑化」は、その専門の体系においては合理性を見いだせるもので、素朴に「良いこと」と考えられている場合が多い。そのため、専門家たちは、自分たちのためにルールを複雑にしながらも、「もっと法律について学んでください」「もっと税金について学んでください」などと、あつかましくも同種のリテラシーをみんなに要求するようになるし、その正当性を疑ったりすることもあまりない。
ルールを決める公的な場だから「複雑化」はいけないことだ、と主張したいわけでもない。「市場」ではもっと露骨にひどいことが行なわれている。
銀行、保険、証券などの金融業は、たしかに社会にとって重要な役割を担っているのだが、実はその重要な部分ほど原理はシンプルだ。それ以上に儲け続けるためには「複雑化」を迫られる。売っている当人も理解よくわかっていない金融商品、原価の半分以上が広告費と営業費に消える保険、手数料目的で勧める安全とは言い切れない証券など、本質的に差がつかないものをどうやって売るかの競争が始まり、不毛なご機嫌取り争いによって人間性が削られていくし、不祥事が出ないほうがおかしい。
とはいえ、少なくとも自分の親世代くらいにとって、金融業の世間的なイメージは悪いものではない。「無駄な複雑化を立派そうに見せるのも仕事のうち」なのだ。そういう業の深い仕事ほど給料も高い傾向にある。
金融のような一部の仕事だけが虚業化しているわけではない。エンタメ、メディア、芸能、美容、ファッション、旅行、冠婚葬祭などのサービス業や、あるいは製造業や農業などの一部も、他人の負担を増やす「複雑化」を始め、迷惑な競争に足を踏み入れている。
「欲望を煽る」という生易しいフェイズを通り過ぎ、今のビジネスは「新しい問題」を作り出す。新しい常識、新しいマナー、新しいコンプレックスをでっちあげ、不安を煽り、判断力を失わせ、自尊心を奪い、疎外へと導き、報酬系をハックして、人々を消費に駆り立てようとする。
これからはAIなどの技術革新によって、定型的な業務が減っていくと言われがちで、じゃあどういう人が生き残るかというと、「新しく需要を創出できる」人材だそうだ。聞こえは良さげだが、ようは「新しい問題を作り出すのがうまい人」ということになる。
「需要の創出」は、今まで存在しなかった負担を増やすことになりやすい。「マッチポンプ(自分で火をつけて自分で火を消す)」という言葉があるが、新しい問題を作り出して、それを解決する手段を売って儲けるのだ。
実際のところ、「問題を増やして、その解決を与える」のと「喜びを与える」の区別は難しい。美しくなければ価値がないと劣等感を植えつけられるなかで、自分も綺麗になれれば嬉しいかもしれない。お前の人生はつまらないと閉塞感を与えられるなかで、豪華な遊びを提供されると楽しくなるかもしれない。ただこの手の仕事は、少なくとも「人をラクにする」ようには働かず、むしろ負担ばかりを増やしていく。
「マナー講師」は、「いらんマナーを勝手に作るな」と叩かれるが、やり口が特別に下手くそな人が目立っているだけであって、今の仕事の多くは、いかに巧妙に「マナー講師」をやるかになっている。
「市場」というシステムは「需要を汲み取るもの」として評価されがちだが、「本質的に人をラクにするもの」はいくら需要があっても市場性がない。ラクにしてしまったらそれで終わりなので、長期的な商売にはならない。
市場での取り引きの総量に着目する「GDP」は、工業中心の時代に国力を把握する指標としては有用だったが、サービス業中心の時代に豊かさを表す指標として見ると、欠陥が目立つ。例えば「品質が高く長持ちするものを安い価格で買えるようになる」のは、実感としては豊かさだが、GDP的には、市場で取引される量が減るのでマイナスになる。
「幸福で文化的な家庭」なんてものは、消費活動をあまり行わないので、GDP的には最悪だ。一方で、料理や掃除などの家事を外注し、ベビーシッターを雇い、ストレス発散のために散財し、喧嘩したときに弁護士を雇うような、問題の多い夫婦ほどGDPに貢献する。GDPで世界最強の国であるアメリカは、先進国の中でも突出して社会問題が多い。
「自分が頑張って働くことで他の誰かがラクになる」に反して、現在の仕事の多くは「問題を作り出し、誰かの負担を増やす」ことで利益を上げる。そして、わかりやすく誰かをラクにするような、素朴に人の役に立っている実感を得やすい仕事ほど待遇が悪い。このような社会で、「仕事がつらい」と感じるのは、むしろ真っ当であることの証と言える。「自分の仕事は誰かを幸せにしているのだろうか」という常識的な感覚を持つほど成果を出しにくくなる。経済的な成功のためには、やっていることの価値を無理やり信じ切るような狂信か、割り切ってしまう無関心が必要になる。
このような状況に対して、人類学者のデヴィッド・グレーバーが「Bullshit Jobs(クソみたいな仕事)」と言って支持を得たりと、そもそもの仕事のクソさについて、さすがにどうにかしなきゃ、という意識が高まってきている。
ただ、この問題意識自体は、さほど目新しいものではないと思う。ガルブレイスの『ゆたかな社会』は、今から60年以上も前(1958年)に書かれた本だが、「生産は生産自体が作り出した空白をうめるにすぎない」と、生産を目的としてむりやり需要を作り出すような経済のあり方を批判している。
「貧困などの重要な問題が未解決のまま放置される一方で、マッチポンプ的な生産と消費ばかり行われているのはおかしいじゃないか」という話で、この切り口は今も古びていない。ただ、こういった問題意識は往々にして「大きな政府」に解決を求めがち、つまり「市場重視(小さな政府)」ではなくて「公共重視(大きな政府)」で解決しようとなりがちなのだが、自分はまずそれを否定したい。
最初に「軽減税率」や公的なルールを扱う集団の例を出したが、市場も公共も同じように「複雑化」が進んでいて、「市場の問題を公共で解決しよう」という王道なアプローチにこそ、注意が必要だと思っている。
多くの人がなんとなく、
- 「市場」……自己利益の追求を許し、財を生産する
- 「公共」……共益を考え、市場の失敗を補正して平等を図る
みたいな役割分担を考えているかもしれないが、実際にはそうではなく、「市場」と「公共」は絡み合い、共謀している。
「公共」においては、共益の追求という体で、自らを有利にするためのルールへの介入が当然のものとなっている。「市場」においては、物理的な生産を離れて、「公的に価値のあるもの」が生産されるようになっている。つまり「政治的な正しさ」自体が生産される財になっている。
市場がクソなら公共もクソであり、現時点の「市場−公共の二元論」で考えると行き詰まる。この記事では、それ以外の考え方を提示していくつもりだ。
普通の人の無力化と、結果としての少子化
今の社会において、良いものが生み出されていないと主張したいわけではない。ただ、「良い」が極端になっているというか、もともと万人にとって重要だったものも、やがて「ガチ勢向け」なり、「局所的な価値の追求による全体の不経済」に陥ってしまう。つまり、みんなにとっての良いもののはずが、特定の人たちだけにとっての良いものになっていく。
例として、「医療」を挙げてみたい。今の社会に生きていて医療の重要性を否定する人は少数派だろうが、そんな医療でさえ、やり過ぎが迷惑になっていないとは言えない。
公衆衛生を行き渡らせ、乳幼児の死亡率を下げ、わかりやすい怪我や病気を治療するあたりの「医療」までには、文句をつける人はあまりいないだろう。しかし、寝たきりの老人をいつまでも生かし続けられるほど進化した現代の医療は、次世代の投資に充てられたはずの膨大なリソースを高齢者の延命に注いでいる。
日本の医療水準が高くなったのは素晴らしいこととされるが、標準的に健康な人や、「平均寿命を過ぎてから無理な延命をされるくらいならコロッと死にたい」くらいに考えている人からすると、医療の程度がそこそこだった時代(それゆえにいろいろ適当で保険料なども低かった時代)のほうがラクに暮らせた可能性が高い。
「医療費を強制徴収する仕組みがよくないのでは?」となるかもしれないが、公的な場で正当性を争い、特権を強化するところまで含めてが「仕事」であり、その際に医者たちは「過剰になる前の医療そのものの価値」を持ち出したりもできるわけで、重要産業の正当性は揺るがないだろう。そして、高度な医療によって救われた人がいるというのも、紛れもない事実ではある。あるいは、無体な延命に見えるものも、医療の価値体系においては重要な可能性の追求だ。たとえその結果として、出産・育児をする世代の負担が増え、差し引きでは人間の数を減らしていたとしても、それは「医療」の外の話だろう。
このように、特定の産業が発展して一定の閾値を越えると、「局所的な価値の追求による全体の不経済」が起こり、恩恵を得られる「ガチ勢」にとっては良いことでも、全体にとっては差し引きマイナスになることがある。
他の例を出すなら、例えば「美容」はどうだろうか。見た目が美しくなるというのは、純粋に良いことのように思える。しかし美醜というものが相対評価である以上、より美しくなれる手段が解禁されるほど、それをやらない人が不利になっていく。
肌色を均質に整えたり、文化的コードに従った簡単なやり方で誰でもそれなりになる程度のお化粧であれば、万人に魅力と自信を与えてくれるものだったかもしれない。しかし現代の「美容」は、体型や清潔感に気を使うのはもちろんのこと、油や粉を何層にも重ねた上に数十種類のカラーパレットを使い分けるほどメイクが洗練され、脱毛は常識になり、美容整形すら一般的な選択肢になりつつある。そして、それがなかった時代であれば「標準的な容姿」でいられた人が、「ブス」や「ブサイク」、あるいは「当然の身だしなみもできない非常識な人間」になってしまう。手段や努力に適正のある「美容ガチ勢」からすれば、「誰もが輝ける素晴らしい時代がやってきた」ことになるのかもしれないが、そういうのと無関係に生きたかった人にとっては、単に義務が増えたことになる。
金銭的に大きな負担がかかり、後遺症のリスクもあり、競争になればやらざるを得なくなってくる性質の美容整形は、スポーツにおいてドーピングが禁止されるのと同じ理屈で規制されてもおかしくない。実際に広告規制などもあるのだが、「美容」の市場性の高さを考えれば、今後もますます伸びていくことが予想される。かくして、街に「バニラ高収入」の宣伝車が走り、経済的な野心のある医者が美容外科の道に進むようになる。
「医療」や「美容」といった、普段はなかなかその価値を疑いにくいものでさえ、やりすぎて迷惑な「ガチ勢化」が起こっている。他の多くの産業にも似た現象を見いだせるだろう。「スポーツ産業」や「受験産業」にしたって、レベルが向上するほど、親の膨大な投資を前提とし、他の可能性を排した過酷な訓練を早い時期から始めなければならなくなる。親にとっても子にとっても、それが負担にならないはずがない。
それぞれの産業は「ガチ勢化」すると同時に、「これくらいは当然やるべきです」と自身の重要性を社会に向かって主張する。その結果、「まともな人間」と見なされるためにクリアしなければならないことのリストが途方もない長さになり、ひと昔前であればごく当たり前に生きていけたはずの「普通の人」が、「非常識で面白みのない無能」に成り下がってしまった。今では、「普通」とか「まとも」という言葉が、実質的にごく一握りの上流を指すものになってしまっている。
様々な要求があちこちで立ち上がった結果、ひとりの人間が、世界に対してあまりに無力になってしまった。その最も大きな弊害は、そんな社会は持続不可能であるということだろう。「結婚に値する男」であることも、「結婚に値する女」であることも、「子孫を残すに値する人間」であることも難しくなった社会は、人口維持が不可能なほどの少子化に陥ってしまい、長期的なものにならない。
今の先進国は軒並み深刻な少子化に直面しているが、特定の政治の失敗などに起因しているわけではなく、「人間はそういう仕様になっている」と考えるべきだ。ていうか、教育水準や人権意識が引き上げられると出生率が減る仕様は、むしろ「人間ってすごくうまくやってるな」と感心したくなるほど良くできている。先進国は少子化に頭を抱えているが、世界全体で考えれば、少子化よりも人口増加のほうがずっと大きな問題だからだ。(世界人口は、1950年で約25億人、2000年で約61億人、現在約77億人。)ただ、『FACTFULNESS』によると、人口爆発もやがて止まり100〜120億で安定するとされている。経済が改善されると出生数もちゃんと下がるのだ。「等比級数的な人口増加」のような地獄に比べれば、減っていくほうがまだマシであり、少子化にポジティブな側面を見出すのは難しくない。
「人口」はけっこう急激に変動するもので、例えば日本の人口は、17世紀初頭からの100年間で1200万人から2800万人ほどまで増えたと見られている。また、明治5年(1872年)の時点では約3300万人だったが、その100年後には1億を越えている。1世紀の間に倍以上になることもあるものなので、短期的な人口減少をそこまで悲観すべきかという視点はあっていい。また、今の日本の合計特殊出生率は1.4ほどだが、日本人が滅びるまでこの減少のトレンドが続くとも考えにくく、どこかの時点で揺り戻しが起きると考えるのが妥当だろう。
ただ、いずれ「揺り戻し」が来るとして、それがどんな種類のものになるかは重要な問題に思える。ある時期に支配的だったものの評価が、転換点を迎えたあとに反転するのは、日本においては戦前の価値観が戦後に否定されたように、歴史上珍しいことではない。出生率が上昇に転ずる何らかの変化が起こったとき、今の自分たちの価値観は、後の世代から目の敵にされるものになる可能性もある。それを考えるなら、後の世代に負債を残す極端な少子化のトレンドは、「今の価値観の延長でこれ以上世の中が良くなっていくことはない」という事実を突きつけられているようなものだ。
今は、熟慮のすえに子供を残さない選択をした夫婦が好意的に見られやすく、考えなしに子供を産む人たちが非難されやすいかもしれないが、後の世代を担うのは、子を残すという仕事を果たした後者の形質であり価値観だ。人間はそのような形で規定されている。共同体の維持が不可能なほどの少子化は、いずれ精算を迫られる問題であり、だからこそ先進国に大きな憂鬱を投げかける。
今の先進国における低い出生率は、やはり改善していく必要がある重要な問題だと思う。とはいえ、「出生率の改善」そのものを俎上に載せて解決を図ろうとするのも適切ではないだろう。ただ出生率を上げさえすればいいなら、人権とか被害者への配慮とかを無視して保守的な価値観に回帰すればいいことになる。「出生率」は、「目的とせずに指標とする」べきだ。
つまり、「ひとりの人間に課せられる要求が多すぎる」を問題として、それに対処していく過程で、結果的に出生率が改善されることを、ここでは「解決」と捉えている。
ではその方法だが、まず「要求が増えすぎた」問題に対して、「重要な要求と重要でない要求を区別できる」とは考えない。
伝統を重視する右派であれ、自由と平等を重視する左派であれ、何らかのやり方で「○○は重要なもので、○○は重要なものではない」を決めようとする。もちろんそのような選別は社会にとって不可欠で、極端な話「人を殺すと犯罪」という決まりがないと大変なことになる。
しかし、詳しくはこれから述べていくが、いま直面している問題に対しては、「重要なものとそうでないものを区別する」とは別のアプローチで、「義務が増えたのが問題なら、そのぶんだけ権利を増やして打ち消そう」という発想をとる。
ひとりの人間に課せられる要求が増えすぎて問題になっているが、要求を増やすそれぞれの行為を禁止するのではなく、人間であるだけで無条件に与えられる権利(購買力)を増やしていくことによって、増えた負担の相殺を図る。このやり方は、今日では多くの人が関心を持っている「ベーシックインカム」と呼ばれるものだ。
一方で、「日本でベーシックインカムは実現可能か?」に対しては、「たぶん無理」と考えている人のほうが多いだろう。ここでは、今の日本において、何かしらの抜本的な改革が可能だとは考えない。大企業や富裕層への大幅な課税強化や、政府通貨の発行のような方法で、ベーシックインカムに必要な財源を作る、といったことも想定していない。
そのうえで、どうすれば今の社会を漸進的に改善していけるのかを考えたい。そのためには、「何が問題なのか」についてもう少し論じる必要がある。
「過剰な要求」は「中間」から社会を分断する
前章で「局所的な価値の追求による全体の不経済」について述べたが、これは実態を持つ「産業」のみならず、「規範」や「倫理」や「常識」といった漠然としたものにも当てはまる。そして、それぞれがそれぞれに「良さ」を希求した結果として生じる「過剰な要求」は、ある種の「裏切り」を持ってして、社会を分断していく。
何らかの「過剰な要求」に対して、「順応」「中間」「無視」の3つの類型を仮定してみたい。
- 「順応できる層」……適正があり、増えすぎた要求に応えられる
- 「中間層」……順応できるわけでもないが、無視できるわけでもない
- 「無視できる層」……端から要求を気にしない
とする。
「中間層」は、良く言えば常識的、悪く言えばどっちつかずの、いわゆる「普通の人たち」だ。この中間にあたる人たちは、要求が上がりすぎることで損をする。
「過剰な要求」は、「それをよりよくこなせる者から順に利益がある」というふうには働かず、「順応」と「無視」の両極端に恩恵が与えられ、「中間」が不利を被るようになる。
例えば、「子供を産み育てること」に対して、責任、愛情、良質な環境の提供、将来の保証などの「過剰な要求」が課せられた場合、何が起こるだろうか?
- 「順応できる層」……裕福で余裕があり、育児や教育に関する高い要求を満たせる人たち。彼らを基準にして規範や倫理観が再生産される。
- 「中間層」……要求を満たせるほど余裕があるわけではないが、要求を無視できるわけでもない普通の人たちが、子供を作るのを思いとどまるようになる。
- 「無視できる層」……要求を気にしない人たちほど、軽率に子供を産む決断に至るが、「中間層」が思いとどまって少子化になった結果、彼らは図らずも貴重で重要な仕事を果たしたことになる。
というふうに、「過剰な要求」は、真面目にそれを受け入れようとする「中間層」のパフォーマンスを落とす。
今は、何かしらの問題が認知されたとき、「批判する」「啓蒙する」という方法が採られることが多いが、それは意図したのと逆の効果をもたらしてしまう場合もあるのだ。
別の例を出すと、「雇用」に関して、「労働者を守れ」と経営者を糾弾する動きが多いが、経営者側からすれば、人を雇うことに関する「要求」が理不尽に上がりすぎているわけで、これも「順応」と「無視」の両極に振れる。
- 「順応できる層」……先進的な事業と雇用形態を掲げ、それをアピールして優秀な人材を集める。このような企業の働き方が当然とされる。
- 「中間層」……収益性の高い事業に取り組めるわけでもないが、要求をちゃんと守ろうとする企業が、倒産したり、雇用できなくなる。
- 「無視できる層」……いわゆるブラック企業や、正規の雇用を回避したがる企業だが、「中間層」がなくなればここで働かざるを得ない人が増える。
このように、労働者が保護されて規制が強くなるほど、「普通の人を普通に雇用しようとする企業」がなくなり、ブラック企業が増えるという逆淘汰が起こる。そんななか、「過剰な要求」は「順応できる層」を基準に再生産されますます過剰になっていく傾向があり、二極化が進んでいく。
この、誠実さに仇なすような、ある種の「裏切り」とも言える現象は、禍根を残しながら、「中間」から社会を引き裂き、人々を分断していく。こういった作用について、おそらく最も多くの議論が交わされているのは「恋愛」の分野だろう。様々な感情が注ぎ込まれる「恋愛」に関しても、「中間層」が不利になる二極化が起こっていて、それがなかなかにどうにもならない事態を引き起こしている。
赤坂アカの漫画作品『かぐや様は告らせたい』は、すでにお互い好き合っている男女が、「恋愛においては先に好意を示した側が不利になるので、相手に告らせたい」という理由で「恋愛心理戦?」を繰り広げる内容なのだが、「アプローチする側が不利」というのは、多くの人に共通する感覚としてあると思う。
漫画の世界は男女平等ファンタジーが働いているが、現実的には、男女の生殖戦略の違いから、「男性がアプローチして、女性がそれを受け入れるかどうか決める」となる場合が多い。(古事記にもそう書かれている。)学校のような閉鎖的な空間はともかく、男女のマッチングサービスのような露骨な場所ほどその傾向は顕著になるだろう。
そして、この場合における「過剰な要求」は、「女性への配慮」になる。
男性側からすると、旧来的な要求である「自分から女性にアプローチする」に加えて、現代的な要求として「女性の気持ちに配慮する」が加わった形になる。ただ、「アプローチ」と「配慮」というふたつの要求はトレードオフだ。前者は加害性の発露を要求され、後者は加害性の抑制を要求されるので、「あちらを立てればこちらが立たず」な関係にある。
女性へのアプローチが加害である点についてだが、厳密に考えるなら、誰かが誰かに働きかけることには必ず加害性が発生する。(というより人間は存在自体が加害。)そして、加害性が糾弾される環境であるほど、「アプローチする側が不利」になる。
「配慮」の意識を高めていけば、性的な意図を持って女性に話しかけるのはセクハラだとなるし、性行為、妊娠、出産を望むなんて人権の軽視も甚だしい。もちろんそれらは両者の合意によって肯定されることになっているのだが、合意のない状態から取り付けようとするのが「アプローチ」である以上、そこに加害性の発露が伴うのは避けられない。だから、「配慮」しようとするほど「アプローチ」できなくなる。
「アプローチ」と「配慮」という両立しにくい要求に対して、ふたつの合計点がフェアに評価されるのであれば、問題はなかったかもしれない。しかし実際のところ優先は「アプローチ」側にあって、後から新しく加わった「配慮」の要求を中途半端に受け入れてしまう「中間層」が不利になってしまう。
- 「順応できる層」……矛盾するふたつの要求を乗り越えて「十分な配慮が伴った、加害性を感じさせない洗練されたアプローチ」をこなせる男性。彼らが「普通の男性」の基準になる。
- 「中間層」……「配慮」の要求を十分にはこなせないが、無視することもできないので、「アプローチ」のための行動力を削がれてしまう男性。
- 「無視できる層」……女性の尊重とかいった類の話を端から気にかけない層。「中間層」が弱くなったので相対的に有利になる。
「女は暴力的な男が好き」というわけではなくても、「配慮しようとする男」が加害性を抑制してアプローチしにくくなる中、その手の要求を気にかけない「暴力的な男」ほど有利になる構造はある。
「暴力的な男」が有利になった結果、そのような男性と付き合って傷つく女性も増えるのだが、これによって女性たちはますます「女性への配慮」を社会に要求するようになる。だが、それを真面目に聴こうとする男性ほど行動力を削がれるので、ますます暴力的な男性が有利になり、被害者になる女性がさらに増えていく……という悪循環が起こる。これだけでも十分に悲しいことなのだが、「中間層」だった男性側から、「なんかおかしくね?」という動きが始まる。自分が守っているルールを破る男の例を持ち出して、自分が責められるような話を聴かされ続けるわけで、かつては女性の話に耳を傾けようとした男性ほど、どこかの時点で「裏切られた」と感じる。そして、女性嫌悪的なムーブメントが起こり、男女の間で、あるいは男性間や女性間でも、対立と分断が起こる。
「裏切られた男性」によるムーブメントのひとつに、ナンパなどを推奨する「女漁り系コミュニティ」がある。肉体関係を持てれば勝ち、みたいな世界観だが、近年流行している女漁り系コミュニティは、「女の話を真に受けてもバカを見るだけ。配慮しないやつほど成功してるでしょ?」と「裏切られた中間層」を引き入れようとする。そこで提供される「真実」に感化された「中間層」は、学校の宿題でもするような勤勉さで、女性への配慮を「無視」するための努力を重ねるようになる。そのため、現代的なその手の界隈には、女漁りを目的とする集団とは思えないような、ある種の異様な真面目さが漂っていることがある。
「女性に配慮」という要求の不当さを、直接指摘しようとする集団もいる。「アンチフェミニズム」や「マスキュリズム(男性差別の撤廃を目指す)」などの体裁をとることが多く、SNS上などで言論活動を展開する。このような人たちも、根っから女性を軽視していたわけではなく、むしろ一度は熱心に女性の主張に耳を傾けようとし、裏切られた恨みを行動原理としている場合が多い。彼らは、一般的には強者と見なされている現代の男性が、実質的には不利な立場に追いやられていることを啓蒙しようとするし、「女性は、男性に配慮を要求しながらも、それを正当に評価しようともしなければ、自分からアプローチするという義務を負いたがるわけでもない」というような批判をしがちである。だが一方で、ここまでの話に何らかの教訓を見出そうとするならば、もし仮にそういった女性に対する批判に正当性があったとしても、それは、かつて女性に耳を傾けた男性を不利にしたのと同じように、「その話を真面目に聴こうとした女性を不利にする」ように働く可能性が高い、ということになるだろう。
往々にして「批判」は、その原因となる対象に届かないどころか、それに耳を傾けようとした人を不利にする。
女性として生きていて理不尽な目にあったというのも本当だろうし、男性としても同じだろうが、それを公的な場で主張したからといって、その原因に届くとは限らず、それどころか真面目に聴こうとした人を裏切り、分断を招く結果にすらなり得る。特別誰かが間違ったことを言っている、というのではなく、起こっていることは「合成の誤謬」であり、「局所的な価値の追求による全体の不経済」だ。
何らかの問題に対して意識が高まり、それに「順応」した人がネットで目立ったりしていても、「よかった、社会はまた一歩前進した」と言えるとは限らない。「過剰な要求」は「ガチ勢(順応)」と「離脱者(無視)」の二極化を招くので、「中間」が居なくなり、要求が上がる以前より総量がマイナスになっている可能性もある。
ニュースに取り上げられたり、SNSで拡散されやすい「先進的な素晴らしい事例」がたびたび目に入るほどには、世の中は良くなっていないかもしれない。
「多様な要求」、「行動」と「理解」の分離
人はそれぞれ、関心のあることも適正のあることも違う。ある人にとって当たり前のことが、ある人にとって難しすぎる場合も当然ある。
前章では「過剰な要求」と述べたが、誰かにとってのごく初歩的な要求が、他の誰かにとっては「過剰な要求」である場合も、考えられなくはないだろう。そして、要求が多様化するほど、すべての人にとっての「せめてこれくらいはやってほしい」を全部こなせる人間はいなくなる。
「過剰な要求」に対して、
- 「順応できる層」
- 「中間層」
- 「無視できる層」
と類型化したが、これは局所的に見た場合だ。
「多様な要求」に晒される場合、あらゆる方面からの要求に「順応できる層」は存在しないので、
- 「何もできない層」
- 「無視できる層」
に二極化し、「行動(無視できる)」と「理解(何もできない)」の分離が起こる。
先ほどは具体例として、「出産」と「責任」、「雇用」と「労働者保護」、「アプローチ」と「配慮」を出したが、これらの抽象度を上げて「行動」と「理解」とする。
「行動」と「理解」は、両立できるのが理想ではあっても、「加害性の発露(行動)」と「加害性の抑制(理解)」という相反する性質がある以上、どちらかに偏りやすい。要求がそれほど多くない場合には両立が可能でも、「多様な要求」になるほどふたつは分離していく。
人間の「行動」には必ず何かしらの加害性が発生する。そのため人間は、「理解」を深めるほど自らの加害性を自覚し、最終的には自身の存在の否定に行き着く。しかしたいていの場合、そこに至る前に誰かの「行動」を批判するようになる。(もちろん誰かへの批判も、口に出したりネットに書き込んだりすれば立派な加害なのだが、多くの人はそれを自覚できるだけの頭がない。)
「多様な要求」に晒される現在は、「何をするにしても必ず誰かから非難される」状況にあり、「行動」のハードルは上がっているのだが、まさにそれが理由で、「行動」の価値がいびつに釣り上がってもいる。逆説的だが、理不尽な量の「理解」を要求される反映として、「行動」はそれだけで無条件に肯定されるものにすらなっている。
「理解」側の人たちは、様々な問題を発見し、それを指摘する。それらは、個別には正当性のあるものであっても、総体としては絶対に守れないような理不尽なものになる。そのため「行動」側の人たちは、「何をやっても批判される世の中だから、行動こそが正義。とにかくやってみろ!」と、ますます「行動」を重視するようになる。それに対して「理解」側の人たちは、なぜこの程度のことがわからないんだと絶望を深めながら、ますます「理解」を求めるようになり、あるいは厭世的な態度を強める。それを見た「行動」側は、ますます自分たちの正しさを疑わなくなる……という悪循環が起こる。「行動」と「理解」は、互いに互いの悪いところを見ながら、自らを肯定し、分離していく。
そのような「行動」と「理解」の分離は、最も「多様な要求」に晒される「政治」の場において、最も顕著に現れている。
安倍首相は、日本の憲政史上、最長の任期日数を務めた総理大臣になったが、今の政治は圧倒的に「行動(現職)」側が有利だ。
安倍政権がここまで盤石な理由のひとつは、それぞれが政権に投げかける多様な批判こそが、むしろ現職を有利にするように機能しているからだろう。個別には「総理ならこれくらいは最低限」ということであっても、全国民のそれが正当化される場においては、総体としては絶対に守れないような要求になる。そして、その「絶対に無理な要求」こそが、逆説的に「行動」の価値を押し上げ、すでに政権を担っている(行動している)というだけ事実が、かつてなく強大なものになってしまっている。
もし間違いを指摘することに、その正当性のぶんだけの効果があるなら、安倍首相はとっくに総理の座から降ろされていたはずだ。だが、仮に政権にとってクリティカルな批判をしたとしても、それは「絶対に無理な要求」に吸収されてしまい、むしろますます現職を有利にして、抵抗勢力の芽を詰む結果に終わる。「絶対に無理な要求」である以上、いわゆる「まともな野党」が現れることもないし、批判する側の立場をとらざるを得ない(「理解」側の役割を担わざるを得ない)野党は、頑張れば頑張るほど自らが不利な構造に加担してしまうことにすらなってしまう。
国民は、「せめて経済政策だけは……」などをそれぞれに持っているのかもしれないが、みんながそのようにして、くだらないことから深刻なことまで、自分なりの批判を投げかけることで、もはやどのような批判も重要性を持つものではなくなってしまう。要求が多様になりすぎて、「せめてこれだけはしっかりやってくれ」がはっきりしないからこそ、野党は攻め手を見つけられないし、長期政権を担ってきたという実績のある安倍政権はずっと有利なのだ。
今の政治は、「多様な要求」によって焦点が定まらなくなってしまったがゆえに、行き詰まっている。
「民主主義」以前に支配的だった封建的なイデオロギーには、「要求を明確にすることで、多様な要求を抑えてくれる効果」があった。だからこそ今は、人権を軽視するようなやり方が、ある意味では再評価されているのだろう。
現代の価値観では否定されがちな「伝統的な規範」は、不平等で息苦しい要求を突きつけてくるものだったが、要求の総量自体はそれほど多くならなかった。理不尽の対価として「これさえ守っておけばいい」がわかりやすく、そのような時代においては、「行動」と「理解」の両立も、まだ不可能なことではなかったのだろう。両方が備わっていたように懐古される過去の偉人も、もし現代に生きていれば要職に就けていなさそうなエピソードを持つ者が多い。
「宗教」にも、要求の総量を抑えてくれる機能がある。自由と平等を掲げる先進的な欧州の国々は、人権を軽視するがゆえに出生率の高い宗教の驚異に晒されている。
「独裁」による政治的な不自由にも、要求の総量を減らす効果がある。現代中国を論じたNHK出版新書『幸福な監視国家・中国』では、共産党の独裁と人権の軽視が、ある部分では有効に機能し、テクノロジーへの合理的な適応が中国でなされている様が描かれる。韓国は、軍事独裁を続けながら急速に経済を発展させ、民主化宣言をしたのはソウルオリンピック前年の1987年だ。『FACTFULNESS』によると、2012年から2016年の間に経済が急拡大した10カ国のうち、9カ国が非民主的な国家らしい。「経済発展のためには民主主義が必要、と考える先進国の認識は、現実とかけ離れている」と著者のハンス・ロスリングは言う。
伝統、宗教、独裁といった「決定的な要求」がパフォーマンスを向上させる理屈は、「順応」「中間」「無視」を考えるとわかりやすい。課せられる要求が「決定的」なものであれば、「中間」がちゃんと報われるので、システムが健全に機能する。
例えば、「お金」は「決定的な要求」と言える。「年収300万円(中間)」と「年収0円(無視)」なら、大多数の人は「中間」のほうが快適な暮らしができるだろう。
では「学歴」ならどうか? エリートにもヤンキーにもなれないどっちつかずの人ほど苦しい、ということも言われ始めているが、もし「偏差値50前後(中間)」と「偏差値30台(無視)」とを比較して、「中間」より「無視」のほうが有利になりやすいのであれば、「学歴」という要求が決定的なものでなくなり、「順応」と「無視」の二極化が進んでいることになる。
民主主義における「多様な要求」のそれぞれは、自らが「決定的な要求」になることを目指して競い合っている状態とも言えるかもしれない。例えば、「女性への配慮」という要求にしても、すべての男性がそれを守り、女性もその価値を認め、「決定的な要求」になることができれば、「無視」よりも「中間」が得をするようになり、ちゃんと機能する。しかし、人間の「認知、理解、配慮」といったリソースには限界がある以上、参入してくる要求の数が増えるほど、何かが決定的な勝者になれる見込みは少なくなる。
あるいは、「多様な要求」の競い合いが起これば、かつての勝者である「伝統、宗教、独裁」が再び地位を取り戻すことになるかもしれない。「不合理な要求であっても、それが決定的になることに合理性が発生する」という危険な事実があり、人口の再生産が難しくなっている先進的な民主主義国家において、何らかの「決定的な要求」は魅力的に映る。古代ギリシャの政体循環論的な見方をするなら、自由で平等だが非効率的な民主主義と、不自由で不平等だが効率的な独裁の循環があり、今の先進国において民主主義は危機的な状況に差し掛かっている。
しかしここでは、「民主主義」を否定する気は一切ない。「民主主義」は、伝統や宗教や独裁を越える、普遍的な原理を追求することによって生まれた。その意味では、封建的な体制によってうまく行っているところも、そのうまく行った先で民主化の動きが起こるだろう。たしかに今の民主主義国は色々とヤバい状況だが、だからといってそれ以前に回帰しようとするのも、問題の繰り越しに過ぎない。
ここまでの話に照らし合わせて、解決策として示すつもりの「ベーシックインカム」について言及すれば、無差別・無条件に金を配るベーシックインカムは、「決定的な要求などない、を決定的な要求にしようとする」試みと言えるかもしれない。
ただ、それを論じる前に、「多様な要求」で身動きが取れなくなっている「民主主義」よりも、「伝統、宗教、独裁」のほうが生産的なのではないか、という危険な事実について、もう少し別の視点で考えてみたい。
「協力」はプラスを増やし、「競争」はマイナスを減らす
前の章では、分断を招く「多様な要求」より、不合理だが社会がまとまる「決定的な要求」のほうがパフォーマンスが高いのではないか、ということを論じた。
ここでは、
- 多様な要求……対立するので「競争」になりやすい
- 決定的な要求……対立が起きず「協力」になりやすい
として、「競争」と「協力」について述べていきたいと思う。
これを説明する必要があるのは、現代における少なくない人が、「競争することでプラスが増えて発展する」と素朴に誤解してしまっているからだ。
実際のところは、
- 「協力」は、プラスを増やし、「発展」をもたらす
- 「競争」は、マイナスを減らし、「安定」をもたらす
別の言い方をすれば、
- 「協力」は生産的だが、間違いが起こりやすい
- 「競争」は非生産的だが、間違いが起こりにくい
となる。
「協力」している奴らと「競争」している奴ら、戦ったらどっちが強いかを考えてみてほしい。特にルールなどがない何でもアリなら、そりゃ「協力」して数が多いほうが強いかな、と思うだろう。実際それと同じことが、人類の歴史で起こった。
「生存競争」という言葉があるが、「自然」は「競争」している状態だ。まず最初に「自然という純粋な競争」があり、それを「不自然な規模で協力する人間」が蹂躙してきたのが、人類の歴史だ。
ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、人類の今までの歩みを記述するという内容なのだが、人間の加害性に焦点を当てて書かれているようにも思える。我々「ホモ・サピエンス」は、他の人類を滅ぼし、環境を短期間に大きく変化させ、地球の「自然」を、不自然な存在である自分たちの都合の良いように利用し尽くしてきた。
『サピエンス全史』の序盤には、我々「ホモ・サピエンス」が他の人類を皆殺しにしてきた話が書かれている。実は、「ネアンデルタール人」のような滅ぼされた人類のほうが、体格や脳容量などの個体スペックは「サピエンス」より上だったらしい。1対1で闘えば「ネアンデルタール人」が勝つ場合が多かったとされている。しかし、「サピエンス」は「ネアンデルタール人」を軽々と根絶やしにした。不自然な規模の人数で「協力」できたことが「サピエンス」の勝因だった。
「サピエンス」は、神話とか宗教とか、まったく合理的でない作り話(嘘)を信じてしまえる特殊能力を持っていて、それによって大規模な集団になることができた。その「協力」による「数の力」で、自然に生きる他の人類や他の生物を蹂躙してきたのだ。自然で合理的な「競争」から抜け出し、不自然で不合理な「協力」をしてきた人間たちが、世界を支配するほどの力を持つようになった。
我々の祖先は、合理的だからではなく、バカだから強かった。賢さゆえに孤立する存在と、徒党を組むバカが戦えば、後者のほうが強い。「サピエンス」が他の人類を滅ぼした後も、「数が多いほうが強い」は人類の原則で、それは現代になっても変わらない。ただ、それを見えにくくする工夫がされているだけだ。
人は「自然」に対して敬意を抱くが、その力強いイメージに反して、必死に保全しようとしているにもかかわらず失われていくほど、「自然」は弱くて脆い。アニミズムは一神教に駆逐されてきたし、自然的なものが人工的なものに踏みにじられてきたのが人類の歴史だ。「自然が弱い」というよりは、「人間が不自然に強い」と言うべきだろう。
一方で人間は、「スポーツ」や「学力テスト」や「市場」などの「競争」を発明してきた。これらは、「不合理でバカな集団」ではなく「合理的で優秀な個人」が勝つという「自然」を再設計するものとも言えるだろう。そしてこのような「競争(自然)」は、「秩序の安定」のために要請される。
「スポーツと戦争の関係はポルノと性交の関係と同じ」と、社会心理学者のジョナサン・ハイトが言っていたが、金メダルの数に人々を熱中させる「平和の祭典」は、たしかに平和に大きな貢献をしているだろう。あまり大々的には言われないことだが、某スポーツ競技のプロ選手の犯罪率は、一般人と比べて有意に高い。競技において他より秀でやすい資質と、反社会的な行為に及びやすい資質は、遠くないところにあるのかもしれない。もちろん、それを理由にその競技を批判するのはバカげたことだ。能力を発揮して称賛を得られる場があることで、犯罪者になっていたかもしれない人間が、「勝者」という英雄か、あるいは自分の立ち位置に納得した「敗者」になる。そして、だからこそ「競争」は「秩序の安定」に役立つ。
- 初期状態の「自然」は、「競争」をしている状態。
- 「協力」による「不自然な数の力」によって、「自然」を蹂躙してきたのが人間。
- 後に人間は、「自然」を再設計するように「競争」を生み出し、秩序の安定を図った。
という流れ。
「競争」は、「どうでもいいことに熱中させてリソースを空費させる」ことでもある。つまり競争によってプラスも減るのだが、マイナスを減らす「秩序の安定」のメリットがそれを上回るなら、「競争」の導入は有用と言える。
人間は、「競争」なんてせずに好き勝手にやったり、何らかの不合理な信念のもとに団結していたほうが生産的なのだけど、同時に殺し合ったり奪い合ったりしてしまう。「みんなが納得できるルールの競争」を導入して秩序を安定させると、差し引きでプラスになりやすい。(後に説明するが、それがいわゆる「市場」というもの。)
ただ、「競争」が「リソースを空費させる」ものである以上、頑張りすぎるほど貧しくなっていく。プロスポーツは、報酬の多い競技ほど人材が集まりやすいゆえに勘違いされがちだが、競技レベルの向上が報酬の増加をもたらすとは限らない。(つまり、競争はあまり生産的ではない。)そして、報酬が変わらないならば、競争が激化するほど、同じ利益を得るためにより多くの努力と才能を必要とするので、頑張れば頑張るほど「競争しすぎて苦しい」状態に陥ってしまう。
良くも悪くも「競争」はリソースの空費であり、無害なものだ。ワールドカップで優勝したからといって、その国のホームレスが居なくなるわけではない。とはいえ、「将棋やサッカーが上手い子供を持て囃したところで何がどうなるって言うんだ?」などと言ってしまう人間は怒られるし軽蔑される。みんなが競争に熱中し、努力し、結果によって序列が生まれる作用こそが秩序を安定させるので、「競争の結果」に敬意を払わない人間は反社会的なのだ。(もし『PSYCHO-PASS』の「シビュラシステム」が現実にあれば、競争に熱中しない人間の犯罪係数を高めに見積もるだろう。)
競争の勝者を美しいと感じるのは、自然を美しいと感じるのと同じ感覚かもしれない。「競争」の本領は、「優秀な個人が勝利する、美しく無力な自然」を再設計して、「数が多いほうが強い」という危険な事実を覆い隠すことにある。この視点から娯楽作品などのフィクションを見渡してみれば、世の中の様々な場所が「優秀な個が無能な集団を凌駕する」という嘘で塗り固められていることに気づく。そしてその嘘こそが、秩序を安定させる。
「伝統」や「宗教」から脱却した先進国ほど、「秩序を安定させる役割」を「競争」に頼ることになる。かつての「伝統的な習慣」や「神への祈り」は、「夢に向かう努力」になり、先進国においては、成功した経営者、エリートやアスリート、数字を持つアーティストやエンターテイナーのような「競争の勝者」が、昔ならお坊さんがしていたような役割を果たしている。競争の勝者を見て「もっと自分も頑張らなければ」となるのは、かつて信仰に厚い人が尊敬されたのと似たようなものだろう。
近代化と情報化によって伝統や宗教が力を持たなくなった今、秩序の安定を担うのは、偏差値や大会成績、そのための努力や合理化といった「競争主義」だ。検索エンジンやYouTubeに自由にアクセスできる時代に、「先生はえらい」などの不合理な理屈で学校を維持するのは難しいが、成績を伸ばす方法を合理的に指導する、切磋琢磨し合える場を提供する、という形であれば場を治めることができる。実際に成績の良さと治安の良さは比例するはずだ。
一方で、「競争」はリソースを空費させる性質があるので、「試験で結果を出すための勉強」は、あまりパフォーマンスの高いものではない。これについては、内田樹が『先生はえらい』という本を出していて、「先生はえらい」なんてのは嘘なんだけど、師弟関係のような不合理が機能していないと「学び」ってものは成り立たないんだよ、というようなことを言っている。「あの人はマジでスゴい」みたいな盲目的な勘違いに導かれるからこそ、縮小再生産に陥らないものを追求することができる。それはその通りだと思うが、しかし同時に、「先生はえらい」という種類の学びは、間違いが発生しやすい危険なものでもあるだろう。「先生はえらくないし、テストの成績を上げればいい」という考え方は、生産的になりにくい一方で、間違いも起こりにくい。
つまり、
- 「不合理な憧れ」や「不合理な強制力」は、プラスを増やす方向に作用する。
- 「実力があれば成果を出せる試験」というのは、マイナスを減らす方向に作用する。
前者が「協力」の作用で、後者が「競争」の作用だ。
「学力テストによる選別」は、日本人の多くにとっても馴染み深いものだろう。実はこれは、「協力」と「競争」がセットになった仕組みなのだが、それは多くの人が思っているような「頑張って勉強するから生産的」とは別の形で機能している。
試験勉強を頑張るような「競争」の部分では、むしろリソースの空費が行われている。だが、その結果である不合理な「学歴差別」によって「協力」が発生しやすくなる。パフォーマティブな部分は「差別」のほうにあるのだ。
例えば、
- 試験でゆるい選別をして、なおかつ「我エリートぞ」という特権意識が強ければ、発展しやすく安定しにくい「攻め」の構成
- 試験で厳しい選別をして、なおかつ「恵まれた立場を自覚して思い上がらないように」という自省が働けば、安定しやすく発展しにくい「守り」の構成
になる。
「学力試験+学歴」は、「競争」させて「秩序の安定」を図り、「差別」によって「協力」を生み出すという、攻守に優れた仕組みだ。ただ、「攻め」の役割は「協力(信頼や同質性の強化)」が担っていて、「守り」の役割は「競争(試験勉強)」が担っているというのは、当事者でさえなかなか気づきにくい。
同じ考えを、企業の施策のレベルに適用するなら
- 会社に寝泊まりしたり、呑み会で結束力を高めたりするのが「攻め」
- 明確な評価基準を設定して、成果を競わせるのが「守り」
になる。
途上国や新興企業は「攻め」に寄りがちで、先進国や大企業は「守り」に寄りがちだ。これは良し悪しを論じているわけではなく、性質の違いを論じている。
ここまでの話をまとめると、以下の対比が浮かび上がってくる。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
この「集団−個人」の対比で考えるなら、「競い合っているから生産的」というのとは、別の側面が見えてくるだろう。
競争のためのレギュレーションに従って、個人的な達成のために切磋琢磨している人たちは、その「有能そうな感じ」に反して無害だ。一方で、ハロウィンに渋谷で集まって騒ぐような、よくわからない理由で徒党を組んでいる連中は、その「無能そうな感じ」に反して有害であり、それゆえに可能性を持っている。
先進国的な価値観で理想化されがちな「競争の勝者としての優秀な個人」は、むしろ無力化に要請されたものであって、間違いが起こりにくい一方、評価されているほど生産性が高いわけでもない。ただ、このような勘違いが起こることも含めて、「競争」は「秩序を安定させる(マイナスを減らす)」役割を果たしている。
「競争」は重要な仕組みだが、それが過剰になると、「局所的な価値の追求による全体の不経済」が多くなり、どうでもいい要求が溢れて、みんなが無力化されすぎてしまう。これは「民主主義」にとっても都合の悪い事実かもしれない。民主主義は、封建制や社会主義など、団結して立ち向かえる敵がいたとき(「協力」できたとき)にうまく機能したが、敵がいない場合には「競争」過剰に陥ってしまうのではないか。
ではここまで述べたところで、人類が整備してきた最も大規模な「競争」である「市場」について考えてみたい。
「市場」は「生産」ではなく「分配」のためのもの
「市場」は「競争」の役割を担う。ただ、「協力」として機能しないわけでもない。
アダム・スミスの『国富論』は、経済学の始まりとも評価される本だが、それまでは職業の選択などが封建制に縛り付けられていたのに対して、「みんながそれぞれに好きなものを好きなだけ作っても、市場の『見えざる手』が自動調停してくれる。市場ってすごくね?」という形で、自由な経済活動を解禁した。同時にアダム・スミスは別の本で「フェアプレイ精神」を説いていて、つまりスポーツマンシップが前提の「市場という競技」の誕生と言えるかもしれない。もともと市場は自然発生的なものでもあるのだが、それを「市場という競技」として意図的に整備するようになったのだ。
「市場という競技」を行い、成果を出した者から順に、生産物をたくさん得られる権利(金)が手に入る。これによって、殺し合いや奪い合いを避けたうえで、多くの人が納得しやすい「公正な分配」が可能になり、安心して生産活動に取り組めるようになる。これが「市場」の整備。
だが、「市場によって生産が行われる」というわけではない。そもそも人間は「市場」とか関係なしに生産活動を行う。世の中に大きな影響を与えた発明や創作をいくつか思い浮かべてみてほしいが、それらが「競争」で他者より秀でようとしたり、金を稼ごうとした結果として生まれたものばかりかと言えば、そうではないだろう。
もちろん、市場という「公正な分配」の仕組みが整備されたことによって、社会に信頼が生まれた(「協力」が発生した)という意味では、市場は大きく生産に貢献している。高度な分業が可能になり、生産効率も大きく高まった。その意味で市場は、社会を「薄く広く協力」させる役割を担っていると言える。
しかし、基本的に市場の役割は「競争」であり、「リソースを空費させて秩序の安定を図る」ものだ。そのために市場は、他の様々な競技と同じように、「自己利益の追求を許すことで人間を無力化する」というやり方をする。人間は孤立するほど弱くなるので、自分のための努力を重ねるほど無害になっていく。メイウェザーが女の尻に札束を挟んだところで世界は平和だ。
もともと自然な人間は個益を追求するのだが、「数が多いほうが強い」という原則により、個益ではなく共益を追求せざるを得なくなる。本当はみんな「競争」したくても、「協力」しなければならなかったという事情があった。それを「競争していいですよ」とするのが市場のような競技化のやり方だ。共益を追求しなければならないという事情こそが「発展」の原動力にもなってきたのだが、それをやめさせることで「安定」を図る。
市場が生み出す経済格差は問題視されるが、序列が生まれるからこそ深刻な争いを避けられているという側面もある。
経済的な強者は、無力化を意図したルールの中での強者に過ぎない。特に現代の金持ちは、常に監視の目に晒されているし、市場の価値観に奉仕することを強いられ、ストイックな求道者(競争の勝者)であることを求められる。ただ、金正恩よりもジェフ・ベゾスのほうが無害かというと、完全にそう言い切ることはできないかもしれない。市場で「協力」が発生しないわけでもないからだ。
ここでは、「市場」における「協力」と「競争」について説明するために、「標準化」という例を出してみたい。
規格を統一することで互換性を持たせる仕組みのことを「標準化」とする。この仕組みは、今は空気のように存在していて、生活の豊かさに大きく貢献している。そんな「標準化」だが、実は、市場経済から生まれたものではない。個々の職人がそれぞれにモノを作って「競争」していた状態からは、「標準化」が実現する動機がなかった。
産業における「標準化」がどのように進んでいったかは、橋本敦彦『「ものづくり」の科学史』に詳しいが、互換性のある武器や、ネジの規格統一などの重要な「標準化」は、「戦争」をキッカケに実現した。国同士の大規模な戦争によって、全体のパフォーマンスを上げなければならない状況によって導入されたのだ。
「標準化」のみならず、人権や教育や福祉などの重要な仕組みも、実は戦争に拠るところが大きい。大規模な戦いは、個々の利害対立を越えて「みんなをラクにする発展」に迫られるので、悲惨なイメージに反して、戦争は豊かさのための大きな契機になる。
ただ、かつての戦争のような豊かさを生み出す大規模な戦いは、今は国家ではなくグローバル企業がやっている。
現代の人たちが「標準化」という言葉からイメージするのは、自社の「標準」を普及させようとするグローバル企業同士の争いだろう。そしてそのような大企業同士の戦いもまた、豊かさに繋がりやすい。
「標準化」の例を持ち出して何を言いたかったのかと言うと、「国家」とか「グローバル企業」という大きな単位で、「個人のため」ではなく「みんなのため」に争うと、豊かさが生まれやすいということだ。その意味では、規模の大きな企業の活動ほど、今の社会の豊かさに貢献していることになる。
一方で、影響力を持った企業ほど、租税回避などをし出して、国家とも対立し始める。Google、Amazon、Appleはアメリカ発の企業だが、大成功したグローバル企業がたくさんあるだけの恩恵がアメリカ国民にもたらされているかというと、そうも言い切れないだろう。巨大な企業ほど、国や市場のルールに介入し得る力を持つようになるので、危険な存在になっていく。
ここに、
- ルールを守る「小規模な競争」は、安全だが貧しくなりやすい
- ルールに介入し得る「大規模な競争(つまり協力)」は、危険だが豊かになりやすい
というジレンマがある。(「競争」という言葉には前者の意味合いが強く、後者は「闘争」や「戦争」と呼ばれることが多い。)
個人がルールを守って自己実現を目指すような「競争」は、たかが知れているので、社会が安定するが、発展しにくくなる。大規模な「協力」によって何かを目指そうとする集団は、全体に便益のあるものを生み出しやすいが、前提を変えてしまえる可能性を持つだけに危険だ。
もっとも、今行われているような大企業のバトルは、「市場」のルール整備のおかげで、だいぶ危険性が抑えられていると見るべきかもしれない。大企業の経営者にも野望はあるだろうが、個人の利益追求に根ざしている以上は、特定の神や特定の民族の優位性を主張するとか、そういう形にはなりにくい。
「市場」は「競争」のシステムだが、その中でも「企業」という形で「協力」が発生するし、それは「自己利益に根ざした比較的安全な協力」に留まっている。それなりにうまくできているというか、みんなで色々と整備してなんとかうまくやろうとしているのだ。ただ、「市場のルール(分配の正当性)」に疑問が挟まれることは少なくないし、ご存知のように「共産主義をやろう」という動きが影響力を持ったこともあった。
自分は子供の頃に「社会主義は競争がないから失敗した」みたいに教わった記憶があるが、これは偏った説明だろう。というより、社会主義に「競争」がないというのがそもそも勘違いで、実際には強烈な権力争いや、ノルマ達成のための競争があったらしい。そして結果的には、90年代までの社会主義は失敗に終わった。社会主義における「競争」よりも、資本主義における「競争」のほうが、まだマシなものだったのだ。
「競争はリソースを空費する試みだから、それをやめてなるべくみんなで協力したほうが豊かになれる」というのは、特に突飛な考えでもない。(今の中国を見ればそれがよくわかるだろう。)また、「資本主義のルールはクソ」というマルクスの指摘も間違ったものではないと思う。ただ、「競争」を否定するような制度でさえ、大勢の人間を調停するために何らかの「競争」を必要とするし、市場には様々な問題があるが、それでもまだ「比較的マシな競争」ではある。少なくとも「市場」をよりマシなものにしようとする整備はずっと続いている。
自分は、今の先進的で起こっている様々な問題が、「市場」それ自体にあるわけではない見ている。とはいえ、「市場」にまつわる勘違いが、問題をややこしくしているとも思う。
市場での取引量を「生産」と定義すると便利だよね、という話と、リソースを空費させる作業を「生産的」と勘違いさせて安定を図る「競争」のやり方が、どこかで結託し、いつの間にか「市場によって富が生産される」という間違った考え方が根強いものになってしまったのかもしれない。そしてそれは、「市場競争を頑張るほど富がたくさん生み出され、それを正しく分配できればみんなが豊かになる」に繋がる。
しかし、市場競争はそもそも「分配の正当性」を決めるためのものだ。AIなどの技術革新も、「分配の正当性をめぐる競争における強力な手段」として使われるだけなら、豊かさに寄与せず、むしろ競争を過酷にして人々をより苦しめてしまうかもしれない。
「クソみたいな仕事ほど儲かる一方で、わかりやすく人の役に立つ仕事ほど待遇が悪い」という問題があるが、そもそも市場(競争)はどうでもいいことでリソースを空費させて協力(発展)にブレーキをかけるのが本業なので、意図した通りとすら言えるかもしれない。
これは、何を「生産」と定義するかにもよるのだが、例えば、伝統的な共同体では出生率が高く、市場経済が浸透するほど出生率が低くなる現象に対して、「どちらがより本質的な意味で生産的か?」を考えれば、「伝統(市場)」が生産で、「市場(競争)」がそれを抑制する役割を持つことがわかりやすいかもしれない。
「集団−個人」の対比に当てはめると、以下のようになる。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
生産、分配
伝統、市場
「実は生産のためには、市場ではなく、伝統が大事だったんです!」と言えば、福祉的な問題意識を持って経済格差に反対する人たちでさえ、「やっぱり市場格差のほうがマシ!」と思うかもしれない。
ただ、今は「伝統」がないがしろにされて、「市場」が浸透しすぎてしまったがゆえに苦しいのかというと、そう主張したいわけでははない。まだ、「公共(あるいは福祉)」という別のファクターがあって、これからそれについて説明する必要がある。
「順闘争」と「逆闘争」
前章までの内容は、やや「競争」に対してやや穿った見方をしているしれないが、個人的なことを言うなら、年齢を経るにつれて「競争の結果」に対する自然な敬意を持つことができるようになったとも思う。自分はあまりスポーツなどに憧れを持たない子供だったのだが、20代半ばくらいから、サッカーの試合などをたまにテレビで見るようにもなった。
今年、マリナーズのイチロー選手が引退したが、そのときの会見で、「人より努力することはできない。秤は自分の中にある」みたいなことを言っていて、実際にその規範に沿って行動し続けてきたであろう人だけに、感動があった。同時に、ますます世の中を「安定(競争)」に向かわせる言葉でもあるな、と見ていた。
イチローが「個」を主張する一方で、プロ野球のような場は、ひとりひとり違う人間を「同じ」と想定することで成り立っている。そして、「努力を続けるのは簡単ではない」などの感覚を一般人が共有できるからこそ、成果を出した選手が脚光を浴びることができる。メディアがスポーツを報じる視点が、専門性を欠いたチープな物語重視になりがちなことは、熱心なファンからは非難されるが、純粋な競技性を見る人しかスポーツに興味を持たなかったのだとしたら、プロとして活躍できた選手は今よりずっと少なかっただろう。
選手としての「個」を追求できる場所もまた、「同じ」を見出す「数の力」に拠っていて、イチローに嫌われるろくでもないメディアの働きなどがそれを可能にしている。
近年は、公的な場において「多様性」という言葉が何かと使われるが、これも「同じ」を見出して「数の力」を得るためのワードだ。その言葉をわざわざ持ち出すまでもなく、そもそも人間には多様性があるが、「伝統的な価値観」に弾圧されていると感じる人たちが、「多様性」という「同じ」ワードで団結することができたからこそ、影響力を持つことができた。
先に、「数が多いほうが強い」が人類の原則と述べたが、そのような闘争の果てに、暴力が統一され平和がもたらされた。「数の力」が重視されるときの「伝統的な価値観」は、必然的に画一的なものになるが、自由な発言が保証されたあとは、その画一性に対抗する形で「多様性」が打ち出される。「多様性」は、「伝統的な価値観」のアンチという形で団結することで「数の力」を手にしたのだ。
ある意味では、「多様性」という言葉は、手段と目的が矛盾した状態にある。「多様性」を掲げることで主張を押し通せるだけの「数の力」を手に入れたが、その字義的な目的は「数の力」を解消することだからだ。
ところで、マスメディアやインターネットのような公開性のある場は、従来の閉鎖的な場と反転した性質を持っているように思う。そこでは、もともとの多数派と少数派の立場が入れ替わり、「多様性」の側が少数者を弾圧する、ということさえ起こっている。
- 伝統的な価値観|閉鎖的な場、家庭、職場など
- 多様な価値観|公開性のある場、マスメディア、インターネットなど
のふたつがあるとして、前者と後者では、「数の力」関係が逆転する。
「伝統的な価値観(閉鎖的な場)」の基準で、少数派や被害者になりやすい人たちは、「多様性(公開性のある場)」においては、不利を受けていたことを理由に、強い関心によって結びつくことができるので、「数の力」を得ることができる。
つまり、マスメディアやインターネットは、「少数派であるという理由で多数派になれる場所」で、弱者と強者の関係が入れ替わる。そこでは、被害性を手にしている人たちこそが「強者」なのだ。政治家や芸能人や人気ユーチューバーなど「公開性のある場」で活躍している人たちが、「弱者(強者)」を軽んじる言動をしたときにどうなりそうかを考えると、決して無視できない力が働いていることがわかる。
このような状況が、「かわいそうランキング」などと揶揄されているのを見たことがあるが、「よりかわいそうなほうが強い」みたいなルールで、被害性の競い合いのようなことが繰り広げられている。従来的な闘争が平定されたあと、このようなマイナスの闘争が発生した。
ここでは、従来的な加害性を武器にする争いを「順闘争」と定義し、それと力関係が反転した、被害性を武器にする争いを「逆闘争」と定義したい。
- 「順闘争」……加害者が強い
- 「逆闘争」……被害者が強い
今は、「順闘争(加害性)」が厳しく抑えつけられている一方で、「逆闘争(被害性)」は、そこで争いが起こっている認識すら共有されておらず、未整備でむき出しの状態だ。
もし世紀末的な秩序の崩壊が起きて、「ヒャッハー!」とモヒカンがバイクで駆け回るようになれば、人類は「順闘争」のみの世界に後戻りすることになる。幸いにも今は秩序が保たれているが、この平和な社会において、モヒカンバイクの「ヒャッハー!」は、今まさに「逆闘争」の領域で行われている。インターネットは、自由な発言が保証されているがゆえに治安が悪く、「強者(弱者)」が「弱者(強者)」をあからさまに蹂躙する様が見られる。そこでは、女性、マイノリティ、貧困層などが強者で、男性、政治家、経営者などが弱者だ。
マイノリティは、「伝統的な価値観のアンチとしてのマイノリティ連合」という形で団結するのだが、「伝統的な価値観」のすべてを心地よく感じる人なんていないわけで、大多数が「マイノリティ側」につくようになる。そのため、実数比で見ても、もはや「マイノリティ連合」がれっきとしたマジョリティであることは十分に考えられる。
そして、何らかの「良さ」で称賛を集めている場合にさえ、その背景には少数者をいたぶる快楽がある。「こういうのって素晴らしい」「こんな社会に変わってほしい」と拍手している目線の先には、「数の力」で圧倒することのできる弱者がいるのだ。我々は「数の力」で少数者を殺戮してきた人類の末裔であり、そこに快楽を覚えるのは仕方がないかもしれない。しかし、「逆闘争」の領域で行われている「正しさを掲げたいじめ」は、加担している側もまったくその自覚がなく、むしろ自分は被害者で、正しいことをしていると感じながら攻撃性を消費している側面がある。(まあ「いじめ」なんて本来そのような感じなのかもしれないが。)
公開性のある場でウケやすいコンテンツも、「逆闘争」を意識したものになっていく。つまり、見た人が「逆闘争」的な優位を感じるような、自身の被害性を肯定してくれるものが支持を受けやすくなる。もっとも定番のものは「女性が被害を受けた」というやつで、SNSのお気に入り数などの指標を見ればそのシンプルな強さがわかる。男性の場合は、「まともな見識を持っている俺が無能な上司に悩まされる」みたいな「優秀なのに理不尽な扱い」系が好まれがちだ。
YouTubeやTwitterやブログなどで活動する人は、明確にその意図があるわけではなくとも、すでに「逆闘争」に対応するふるまいをしている。例えば、「自分を弱く見せる」とか「自分を不幸に見せる」のは、「逆闘争」の場においては、「順闘争」における「防犯」などと似た役割を持つ。
メディアや広告などの公開性のある場において、「順闘争」的な価値観が「逆闘争」に駆逐されていく。芸能人たちの旧時代的なノリは、今や日本のテレビにおいても許されないものになってきている。ネットで発信する人も、人気になるほど、「逆闘争」の強者を無視できなくなっていく。
いわゆる「先進的」とされる地域ほど、「順闘争」が抑制され「逆闘争」が苛烈になっているが、一方でそれが、「順闘争」的な義務の放棄や、「順闘争」を激化させようとする動きや、あるいは「逆闘争」的な権利を剥奪しようとする動きを生む。「順闘争」に有利な側からすると、自分たちの加害性を抑えることで平和に貢献しているのに、その結果として自分たちが不利な状況に追い込まれてしまったからだ。
アメリカ発の、グローバルに影響力のある男性集団のムーブメントで、
- PUA(多くの女性と肉体関係を持つことで自己利益の最大化を図る)
- Incel(隠されている女性の優位と男性の劣位を啓発)
- MGTOW(治安や出生や経済への貢献を拒否するサイレントテロ)
などがあり、これらは、自分たちに有利な「順闘争」を抑制した結果、自分たちに不利な「逆闘争」で殴られまくっているという不満を共通の根にしているように見える。おそらく初期メンバーは白人男性の比率が高いだろう。
ミシェル・ウエルベックの『服従』という、ムスリムがフランスの大統領になる近未来を描いたスキャンダラスな小説がある。この内容がリアリティに則したものかどうかはわからないが、ムスリム政権によるパターナリスティックな施策のおかけで、リベラルな価値観のもとで治安がガタガタだった地域の犯罪発生率が大きく下がるという描写があった。
「逆闘争」の場では、他の先進国の例を持ち出して日本の後進性を指摘されることが多く、それには賛同できる部分もあるのだが、日本より先進的とされている国の多くが、日本よりはるかに治安が悪いという事実を、あまり軽視すべきでもないように思う。「逆闘争」の激化は、治安の悪化に繋がる可能性もある。
とはいえ、ここでは基本的に「逆闘争」を悪いものとは見ていない。「被害性」に焦点が当たったという点においては大きな前進であり、少なくとも「平等」の観点において、強いという理由で弱くなり、弱いという理由で強くなるのなら、直角三角形同士が重なって四角形になるような平等が達成されるはずだ。
今では、みんながSNSなどを使って、政治家や大企業の社長などに対して、好き好きに「無能」などとつぶやき、それを共有することができる。「順闘争」では社長が強くても、「逆闘争」では貧乏人が強く、ある意味では、かつてなかったほどの「平等」が実現した社会とも言える。
もっとも今の世の中において、「順闘争+逆闘争の四角形」が、それほど綺麗な形をしているとも思わない。「かわいそうランキング」を論じた御田寺圭『矛盾社会序説』によると、「キモくて金のないオッサン」のようなランキング下位の存在は、実質的にはランキング上位と同じくらい苦しんでいても、透明化されているので救済が与えられない。ようは「順闘争」と「逆闘争」の両方で弱い存在がいるのではないかという問題提起だ。ただ、そのような歪みを指摘する論は一定の支持を得ているのであって、「被害性」を発掘する作業が続く以上、原理的には「平等な四角形」へと向かっていくだろう。
ここでは、「逆闘争」それ自体を否定しようとは思っていない。ただ、「順闘争」が整備されてきたのと同じように、「逆闘争」も整備される必要があると考えている。その方法を論じるにあたって、まずは「順闘争」と「逆闘争」の重要な違いを述べておきたい。
それは、「順闘争(加害性)」は統一に向かい、「逆闘争(被害性)」は分散に向かう、というものだ。
「数が多いほうが強い」が人類の原則だが、「強い」が肯定される「順闘争」では、どんどん数が増えていって、最終的に加害性は「統一」される。一方で、「弱い」が肯定される「逆闘争」では、「数の力」を得るほど被害者としての正当性を失うので、被害性は「分散」していく。
「順闘争」は、個益の追求を動機に始まるが、強さを競い合うので、数が多くならざるを得ない。対して「逆闘争」は、共益の追求を動機に始まるが、弱さを競い合うので、数が少なくならざるを得ない。
- 「順闘争(加害性)」は、個益を目指すが、数が多いほど強くなるので、「統一」に向かう。
- 「逆闘争(被害性)」は、共益を目指すが、数が多いほど正当性を失うので、「分散」に向かう。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という『アンナ・カレーニナ』冒頭の有名な一節があるが、これは「そうでなければならなかった」と言うこともできるかもしれない。「順闘争」において、加害性は統一される必要があり、「伝統的な価値観」が差し出す「幸福」は、「どれも似たもの」でなければならなかった。その必要がなかった被害性、すなわち「不幸」は、人はそれぞれ違うという本来的なところへ回帰していく。
「逆闘争」においては、被害性(不幸)を「どれも似たもの」とすることで「数の力」を得ようとする動きが起こる。しかし、そうやって力を得るほどに、不幸としての正当性を失ってしまう。
だが、最終的に力を失ってしまうことこそが、「逆闘争」の目的とも言える。例えば「多様性」という言葉は、その言葉の影響力を強めようとする一方で、その言葉を必要としない世界を目指している。
「逆闘争」の細分化と、自分たちに返ってくる問題
「順闘争」において加害性は、「国家」という単位まで統一されてきたし、最終的には「ひとつ」に統一されるかもしれない。
「逆闘争」において被害性は、最終的には「人それぞれ」まで分散していくだろう。みんなが何かしらの形で少数者であり、被害性は「一人一派」なのだ。
「女性」は「逆闘争」における強者だが、それに対抗する動きも起こる。例えば日本では、「KKO(キモくて金のないオッサン)」というワードが認知を得ていて、男性の弱者性が提起されている。しかし、「KKO」と括られる人たちにも、容姿や貯金の微妙な差、学歴、職歴、家族関係、健康、障害の有無などのグラデーションがあり、「お前は本当にKKOか?」と分断が起こる。さらに、「キモくて金のないオッサン」は、そうやって認知されて不幸を共有できる時点でもはやそれほどかわいそうではなく、本当にかわいそうなのは女性であるにもかかわらず性的魅力も金もない「キモくて金のないおばさん」だ、みたいな話も出てきて、無限にややこしくなっていく。
以前、「米国版Facebookにはジェンダーオプションが50種類以上ある」というニュースを見て、「性別の数がそんなにあるものなのか」と驚いたことがある。性的少数者を括る言葉として「LGBT」がよく使われるが、やがて「自分はその括りに当てはまらないんですけど!」という人も出てきて、「LGBTQIA」と列が長くなり、さらにそこから、12個あるバージョンや、18個あるバージョンや、数十個あるバージョンが出てきた。
なぜこれほど性別の数が増えるかというと、例えば、性対象、性自認、性区分を掛け算して、性対象ひとつをとっても、αは対象だけど、βは対象ではなく、γは……みたいな細分化をしているからで、さらにはそこに「指向と嗜好は区別できるものなのか?」などの論点が混じったりすると、もはやカテゴライズしきれるものではなくなっていく。最終的には「性別は人それぞれ違う」に行き着くだろう。
もっとも、じゃあそのままカテゴリーが膨大になっていくかというと、さすがに熱心な当事者たちでさえ把握しきれないものになっていて、もとは差別語だった「Queer(クィア)」を総称として使う提案がされたりなどしている。ただ、「性別」という直感的には数種類しかなさそうなものでさえ、厳密にやろうとすれば、把握しきれない量になるほどの分化を迫られる。
太ってる人が好きとか痩せてる人が好きとか、そういう嗜好でさえ、カテゴライズしようと思えばいくらでもできて、分化していくのは当然だ。「性的嗜好と性的指向は別物です」と主張する人もいるだろうが、では「指向」のほうに特権性を持たせられるかというと、「逆闘争」に則るほど無理がある。
ここで述べてきたこと対しても様々な異論があると思うが、まさにそれゆえに、被害性は常に分化に晒されている。誰でも定義を作ってそれを主張できるし、少数者であるほど正当性があるのだから。そして最終的には「人それぞれ」に行き着く。
順闘争における「統一」に価値があるように、逆闘争における「人それぞれ」という結論にも価値がある。だが、「認知、理解、配慮」といったリソースには限りがあるので、すべての人間が十分に理解されるのはありえない。そして「逆闘争」は、それぞれがそれぞれの正当性(被害性)を主張しながら、リソースを奪い合うものになってしまいがちだ。
日本では、「発達障害」という言葉が認知を得ていて、「発達障害傾向」や「発達障害グレーゾーン」まで含めると、「生きづらさの総称」として使われているような場合さえある。LD、ADHD、ASD、DCDなど、それぞれ領域が曖昧な先天的障害とされるものがあり、総称として「発達障害」が提案されたが、「雑に括れる言葉」が定着したことで「数の力」を手にしたのだ。
「発達障害」は定義が難しい概念だが、「凹凸(おうとつ)が激しい」と説明されることが多い。得意なことと苦手なこと、興味を持てるものと持てないもの、過敏な部分と鈍感な部分などの差が極端であることを、「凹凸が激しい」と表現している。どんな人間にも凹凸はあるが、程度が特に極端で、社会生活を送るうえで著しく不利になると専門の医師から診断されたのが「発達障害者」だ。発達障害者間でも、それぞれに凹凸の形が違うので、「○○が得意」とか「○○が苦手」という説明の仕方はあまり正確ではない。あえて包括的に説明するなら「凹凸が激しい」ということになる。
「障害」という言葉を使わずに「発達凹凸」と呼ぼうという動きもあるみたいだが、「凹凸の激しさ」は絶対値のマイナスを意味するわけではない。そして、何らかの成功を目指すうえで凹凸の激しさが有利に働く場面は多く、実際に高学歴や高収入の発達障害者は少なくない。『HUNTERXHUNTER』の「念能力」に喩えると、六角形の図の下半分が「発達障害傾向」で、「普通に闘ったら弱いけどハマれば強いタイプ」だ。定型的な業務を求められる会社員として働けば、まさに「障害」というほどの欠陥を見せることになるかもしれないが、それとまったく同じ性質が、特定の仕事においては著しく有利に機能する場合もある。
以上のことを考えるなら、発達障害の「逆闘争」的な優位性にも疑問が挟まれることになる。「定型(凹凸が緩やか)」とされる人の立場に立ってみると、「ハマった発達障害者」に上から殴られ、「ハマらなかった発達障害者」に下から殴られるわけで、「定型的な人と比べて発達障害者のほうがかわいそう」と言うこともできなくなるだろう。また、発達障害の当事者間で、「ハマらなかった発達障害者」が「ハマった発達障害者」に対して、「お前は発達障害の被害性を利用するな」と責め立てるようなことが起こり、分断が進んでいく。
性別が「人それぞれ」となったように、障害もまた「人それぞれ」に行き着くだろう。あるいは、要求が増え続けて「普通」のハードルがどんどん高くなっていく社会において、「あらゆる人間が何らかの障害者」になってしまう。
「The personal is political(個人的なことは政治的なこと)」という言葉が流行った時代があるようだが、「障害」を考えるにあたっても、それが個人的なものであると同時に社会的なものであることを、考慮に入れたほうがいいと思う。60年代のスローガンを持ち出すまでもなく、「障害」と「社会」は再帰的な(フィードバックが循環しているような)関係にある。日本では発達障害と診断される人や診断を受けようとする人が急増しているらしく、もちろん認知が高まったからなのだろうが、それに加えて、そもそもの「健常」とされるハードルが上がっているかもしれない、という視点はあっていい。
仮に、「凹凸が激しく、普通に社会生活を送るのが困難になる」を発達障害の定義とするならば、「普通に社会生活を送る」のハードルが上がるほど、発達障害者の数は増えることになる。この記事の最初のほうに、ひとりの人間に課せられる要求が増えすぎて、「普通」という言葉が実質的にごく一握りの上流を指すものになってしまった、というようなことを述べた。そのようなハードルの上がった「普通」は、発達障害を診断する際の「普通」にも影響を与えていないだろうか。もちろんそれを判断するのが専門家の仕事なのだが、同時に専門性を越える価値判断が紛れ込んでくる問題でもある。
「自分は○○の障害のゆえに苦しい」と感じている人は、何らかの手段や治療によって「普通」に近づこうと、あるいは「普通」と同じ扱いを求めるのかもしれないが、その「普通」というのは、実質的に上位数%のことを指していないだろうか。そして、弱者性を認定された人は、自身のそれに対する理解を社会に求めるが、まさしくそれこそが、自分を弱者にしてしまうハードルの高い社会の構成に一役買っている、という再帰的な構造がある。
例えば、「ひきこもりには発達障害者が多い」という話があって、それはたしかに重要な論点なのだが、それを「発達障害に対して理解のない社会」という問題にしてしまうのは片手落ちかもしれない。もし今の世の中に、「簡単に始められて、ちゃんとした意義があり、それなりの給料と承認がもらえる仕事」が溢れていたなら、ひきこもりの数は今よりずっと少なかっただろう。「普通の仕事」のハードルがやたら上がっているのが根本的な原因に見える。そして、「ひきこもりが発達障害かもしれないことを考慮に入れなければならないほど、高度な配慮を要求される社会」こそが、まさにその「普通の仕事のハードルが高すぎてひきこもりが発生してしまう状況」を形成している。問題が循環しているのだ。
「逆闘争」は、「健康で文化的な最低限度の生活」などの「人権」を前提にして「少数者である個」としての正当性を争うが、それは「順闘争」の加害性をセーブする役割を担っている。「日本国憲法」における基本的人権は、「全体主義的な国家に対しての個人の権利の保証」という意図を強く感じる内容だが、「順闘争」の結果としての「強い公権力」があり、それが抑えられなければならないという前提において成立しているのが「逆闘争」だ。
ただ、被害性が「個」に向かっていく以上、「認知、理解、配慮」しなければならない問題は、細部化してどこまでも増え続ける。その作用こそが「強い公権力」への対抗になるのだが、今起こっているのは、「強い公権力」に対して投げかけたはずの様々な要求が、自分たちに跳ね返ってきている、といった状況。
「逆闘争」が激化する一方で、対抗する相手だった「順闘争(強い公権力)」が、もはやそれほど強いものではなくなってしまった。「マジョリティ」に対する、そのアンチとしての「マイノリティ連合(多様性)」が大きくなりすぎて、いつのまにか少数派だったほうが人数比で上回ってしまった構図だ。ただそれは、別のまとまりができたというよりも、単に分断が進んだというべきだろう。そして、少数派の立場から多数派に向かって投げたはずの要求が、「個々という名の多数派である自分自身」に返ってくる。「理解してほしい、配慮してほしい、と言うけど、そうやって社会に多くのものを要求するお前には、いったい何の価値があって、何ができるんだ?」と問い返されるという、恐ろしいことが起こっている。
だが、これに対して、「逆闘争」が過剰になっているから問題、としたいわけでもないのだ。
「集団−個人」の対比を再び出す。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
生産、分配
伝統、市場
この分類で言うと、「逆闘争」は、「個人」のほうに当てはまる性質のものだろう。「逆闘争」は、公的な前提によって始まるが、性質上「個」に向かっていかざるを得ないし、「認知、理解、配慮」というリソースを奪い合う競争にならざるを得ない。
これを持ち出すことで何が言いたいのかと言うと、「市場」も「逆闘争(公共)」も、「分配」の役割を担うものということ。
「市場」が「上位から順に分配する」仕組みだとしたら、「逆闘争(公共)」は「下位から順に分配する」仕組みだ。
最初に、「市場−公共」の二元論で考えると行き詰まる、と述べたのを覚えているだろうか。「市場」と「公共」は、どちらも「分配」の仕組みであり、頑張ろうとすればするほど「競争」が過剰になってみんなが苦しくなる。「生産」という視点がないまま、上位争いと下位争いを全力でやっているような状態だ。
「個人主義」という性質を持った「市場」と「公共」は、ある種結託して、社会を両極に引っ張り、「中間」を引き裂いて、人々を「個人」に分断していく。これは「集団」の危険性を抑えるために必要な作用ではあるのだが、今はそれが過剰なのだ。
そして今の先進国は、「集団−個人」の対比における「集団、協力、発展」のほうを必要としていて、そのために右傾化の動きなどが起こっているが、それもまた危険なものであることは言うまでもない。
そして、ここまで来てようやく、本題に入ることができる。
「順闘争」の整備と、「逆闘争」の整備
少しややこしいが、ここでは、「闘争」と「競争」について、以下のような言葉の使い分けをしたい。
- 「闘争」……未整備の状態
- 「競争」……整備された状態
「闘争」に対しての「競争」を用意すると、「未整備のものを整備する」みたいなイメージ。
また、何度も出しているが、「集団−個人」の対比については以下。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
生産、分配
「数が多いほうが強い」によって「協力」せざるを得なかった伝統的な社会に対して、人間は市場などの「競争」を整備することで秩序を安定させてきた、というようなことを先に論じた。
ここではそれを、「順闘争」に対しての「順競争」と定義したい。図で示すと以下のようになる。
①順闘争|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|個人|統一に向かうところを分散させる
(字面がややこしいので以降から番号をふる。)
「集団」「個人」とあるが、これらは「集団−個人」の対比に対応しているものと考えてほしい。つまり、①順闘争は「集団、協力、発展……」という性質を持ち、②順競争は「個人、競争、安定……」という性質を持つ。
あまり厳密ではないが、話をわかりやすくするために、
①順闘争:伝統
②順競争:市場
とイメージしてほしい。
①順闘争は、個益の追求を動機にするが、「数が多いほうが強い」という人類の性質上、「加害性が統一」されていく。
②順競争は、①順闘争のもともとの目的だった個益に焦点を当て、「勝てば個人が利益を得られる競技」を整備することで、「加害性を分散」させ、秩序の安定を図る。
「伝統、宗教、独裁」がベースの封建的な社会から、「市場」によって生産を分配する社会への変化は、①のみから、①と②の体制へ移行するものであり、これによって「発展」と「安定」のバランスをとることができた。
その後、経済格差という問題や、人権意識の高まりなどから、「③逆闘争」という新しい闘争が発生した。
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
③逆闘争|被害性|個人|共益を目指すが分散に向かう
ここでは、とりあえず
①順闘争:伝統
②順競争:市場
③逆闘争:公共
とイメージしてほしい。(伝統も市場も公共も、本来もっと広い概念ではあるが、便宜的にこう考えてほしい。)
すでに述べてきたが、
- ①順闘争(加害性)は、個益を目指すが、数が多いほど強くなるので、「統一」に向かう。
- ③逆闘争(被害性)は、共益を目指すが、数が多いほど正当性を失うので、「分散」に向かう。
という対比がある。
また、②順闘争(市場)と③逆闘争(公共)は、加害性と被害性という点においては対立するが、「個人、競争、安定」という性質が共通していることも、先に論じてきた。
②順競争が、あえて「個」に焦点を当てて加害性を分散させるのに対して、③逆闘争は、被害性の性質上「個」に向かっていかざるを得ない。整備された加害性と、未整備の被害性は、「個人主義」という共通の性質を持つ。
そして、②③の「個人主義的な市場−公共の二元論」で考えると、多くの問題を見誤ることになる。
例えば、
- 「市場」で財を生産して、「公共」でそれを再分配する
- 「市場」では個益を追求し、「公共」では共益を追求する
などがありがちな誤解で、②順競争(市場)と③逆闘争(公共)は、どちらも「分配」として機能するものであり、どちらも「個人」を追求するものだ。
なお、「被害性−加害性」が表面的に反発し合う一方で、「集団−個人」は、より見えにくく深い部分で反発する。
③逆闘争は、①順闘争と②順競争の両方を敵視するが、両方が対立している①よりも、個人主義が共通している②のほうに親和的だ。
例えば、①的な差別である「家庭を持つ男性をまともな人間と見なす」と、②の結果として生じる「学歴の高い者をまともな人間と見なす」は、どちらも差別的ではあるが、③は①を徹底的に糾弾する一方で、②のような差別は許される場合がある。また、優秀な人間のほうが被害性の序列が高くなったりと、②の勝者は③的な優位性を持ちやすい。また、逆側から見ても、②の勝者ほど③の価値観に理解を示しやすい傾向がある。
②を重視する「新自由主義(小さな政府)と、③を重視する「福祉国家(大きな政府)」でさえ、表面的には激しく対立しているものの、「個人主義」という地平では手を取り合って、人々を「個」に向かわせようと共謀している。
そのような②③の「個人主義的な市場−公共の二元論」は、どちらも「競争」として機能するので、頑張れば頑張るほど苦しくなるような形で行き詰まってしまう。そこから脱却するためには、まずは「集団」のパフォーマンスを認める必要がある。
今の先進国は①②③の段階だが、図を見れば、明らかにバランスが悪いことがわかる。「個人、競争、安定」が過剰で、「集団、協力、発展」が足りず、「出生率の低下」はそのわかりやすい結果だろう。
「②経済格差が行き過ぎている」とか「③ポリコレが行き過ぎている」と問題提起されることが多いが、②と③のどちらかが行き過ぎているというより、①VS②③だと、単に1対2だからバランスが悪い。
「②どうでもいいことにリソースを空費させる」とか「③被害性が分散して個に向かっていく」という特徴それ自体が悪いと言いたいのではなく、むしろそれらは秩序を安定させるために必要なものだ。だが現時点において、①②③のみだと「個人、競争、安定」が過剰でバランスが悪いから問題。
先進国の多くで右傾化が進んでいるが、「個人、競争、安定」の過剰から抜け出すために、①順闘争を強くしようとする動きはどうしても起こる。
あるいは解決策として、③逆闘争の排除を主張する声も大きくなりつつある。近年発展している非民主的な国々や、中国などの国を見れば、③を否定して①②だけでやったほうが、バランスが良いのは明らかだからだ。
ではどうすればいいかだが、ここまで①②③と論じてきたわけで、解決として④を提示したいんだな、ということはすでに察してもらえていると思う。
④を、「③逆闘争」を整備したものとして「④逆競争」と呼ぶことにする。
まずは図を出す。
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
③逆闘争|被害性|個人|共益を目指すが分散に向かう
④逆競争|被害性|集団|分散に向かうところを統一する
ここでは、①に対して②を整備したのと反転した手順を行い、③に対して④を整備する。
③逆闘争は、共益の追求を動機にするが、「数が多いほうが強い(数が少ないほうが正しい)」という性質上、分散していく。
④逆競争は、③逆闘争のもともとの目的だった共益に焦点を当て、「みんな違ってみんな苦しい」という形で「被害性を統一」し、「みんながラクになるための発展」を目指す。
「統一」に向かう①順闘争を、意図的に「分散」させようとするのが②順競争なら、「分散」に向かう③逆闘争を、意図的に「統一」しようとするのが④逆競争だ。
③逆闘争を整備して④逆競争にすると、言葉遊びみたいだが、「協力」を意図するものになる。
④逆競争は、
- 分散に向かう被害性を意図的に統一する
- 協力して発展を目指す集団主義的なものである
という性質を持つ。
具体的な④逆競争としてイメージしやすいのは、無差別・無条件に定額を配る「ベーシックインカム」という制度だろう。
「ベーシックインカム」は、資力調査による不平等やスティグマを生まない福祉制度として、③逆闘争的な問題意識から提唱されることの多い制度だ。実際のところ、②順競争的な「市場」が、①順闘争の問題の根本的な解決になり得たように、④逆競争的な「ベーシックインカム」は、③逆闘争の問題の根本的な解決策になり得る。
④逆競争について、これから説明していくが、とりあえずは「ベーシックインカムっぽいもの」と考えておいてほしい。
まず①と④の関係だが、「加害性−被害性」という点では反発し合うが、「集団主義」であることは共通している。
①と④は、互いに「集団、協力、発展」の機能を持つが、「多様な要求」という人々を分断に向かわせるものに対して、
①順闘争は、「優先すべきものものを決める」ことで「協力」を促す
④逆競争は、「優先すべきものを決めない」ことで「協力」を促す
となる。
④逆競争は、「みんながベーシックインカムをもらえる社会を作っていくぜ!」という形で、「協力」を呼びかける。保証や再分配といった発想ではなく、「発展を目指すためのもの」であることに注意が必要だ。
一般的に最も誤解が発生しやすいのは、②と④の関係だろう。多くの人が、「②市場」が「生産」で「④ベーシックインカム」が「分配」と考えるが、これは逆だ。
②市場……競争によって序列を生み出し公正な分配を図る
④ベーシックインカム……発展を目指すための指標
となる。「発展」のためにこそ「④ベーシックインカム」が必要なのだ。
市場での取引き量に着目するGDPのような数値を増やしても、分配の正当性を巡る競争が激しくなったとは言えるかもしれないが、全員のパイが増えているのかどうかはわからない。一方で、「市場」の調停機能を維持したまま、「ベーシックインカム」という誰もが無条件にもらえる購買力の額面を引き上げていけば、それはわかりやすく「豊かになった」と言えるのではないだろうか。
「ベーシックインカムの額面を引き上げていく」という「みんなのため」の指標であり目標ができることで、「協力」して「発展」を目指すことが可能になる。言い換えるなら、「ベーシックインカムを増やしていける制度がなければ、そもそも発展ができない」のだ。
「市場」で勝とうとするのは「個人のため」の試みであり、「ベーシックインカム」を増やそうとするのは「みんなのため」の試みだ。それなら、「みんなのため」を考える「政治」は、前者を促進しようとするのではなく、後者に注力すべきだろう。
③と④の関係だが、現在③の問題とされているものは、むしろ④で解決すべき問題である場合が多い。
「被害性」においては、今の福祉制度で見られるような、様々な問題が細かく議論されている状況こそを未整備と言うべきなのだ。「弱者と認定された者に福祉が与えられる」というのは、ある意味では野蛮な状態で、①順闘争で喩えるなら「戦争の勝者にとって露骨に有利な社会制度」のような感じ。これはこれで当然の成り行きではあるのだが、長期的には②順競争として正常に機能するものに作り変えていく必要があるように、③逆闘争においても④逆競争を整備する必要がある。
④逆競争的な「ベーシックインカム」という制度が、③逆闘争的な問題意識から提唱されるのは妥当なことだが、だからこそ、③と④が切り離される必要がある。本質的な解決をもたらすものであるからこそ、③と④は「対立し合う別のもの」にならなければならないのだ。
①順闘争と②順競争が対立するのと同じように、③逆闘争と④逆競争も、対立するからこそ機能する。
そして、現在のベーシックインカムの問題点は、それが③から切り離されないまま提唱されていることにある。
ベーシックインカムが説得力を持たない理由
「ベーシックインカム」は、国内外で提唱されていて、支持者も増えつつある。一方で、まだ欧州の小さな国でさえ実現に至ったところはないし、日本人のほとんどが、仮に「ベーシックインカム」が良さげな制度だと考えても、日本で実現可能なものとは思わないだろう。
ここから、「ベーシックインカムとはどのような制度か」「なぜ今のベーシックインカムは説得力を持たないものなのか?」について詳しく述べていく。
なおここでは、「無差別・無条件に同一の金額を給付する仕組み」を「ベーシックインカム」としたい。(つまり、条件付きだったり、人によってもらえる額面が違う制度の場合は「ベーシックインカム」としない。)
様々な「ベーシックインカム」像について
「ベーシックインカム(以下、BIと略す)」は、様々な立場の人に、それぞれ違う理由で支持されるような政策で、人によって「BI」という言葉から描くもののイメージがまったく異なる場合すらある。まずはそれを説明したい。
おおまかに、BIの主要な論点とされるのは、
- 財源
- 額面
のふたつだ。どこから金を持ってきて、どれくらいの金額を配るかで、同じ「無条件・無差別のBI」でも、まったく性質の違う政策になり得る。
例えば、
- 既存の福祉を削り、BIという形で社会保障を一元化すれば、(②順競争を重視する)新自由主義的な制度になる。
- 既存の福祉に手を付けず、税金を増やしてBIを拡充させていけば、(③逆闘争を重視する)福祉国家的な制度になる。
なお、このふたつのどちら側にどれくらい寄っているかも程度の問題で、これだけでも多様なグラデーションがある。
「どうやって財源を捻出するか?」をとっても、
- 既存の福祉を広く薄く削る
- 既存の福祉のなかで、逆進性の高いものだけを削る
- 既存の福祉のなかで、資力調査が恣意的で複雑過ぎるものだけを削る
- 政府通貨を発行する
- 税金を増やす
などなど、様々な立場があり、そのうちのひとつの「税金を増やす」にしても、どこから、どうやって、どれくらいの税金を徴収するかで、多様なバリエーションがある。
これら諸々の組み合わせは膨大なものになり、同じ「ベーシックインカム」という言葉でも、人によってイメージするものがまったく違う、ということが起こりうる。
「無差別・無条件こそがBIのメリット」であることは、多くのBI推進派が肯定するところだと思う。しかし、BIのイメージや、BIを実現するための方法論については、人それぞれのBI像があるほど「複雑化」してしまっている。これはBIにとっては由々しき事態と言うべきだろう。
「簡易的」であることを良しとするBIは、それ自体の定義や、実現のための方法論もまた「簡易的」であるのが望ましいはずだ。
ベーシックインカムの実験について
BIについては、多くの実証実験が行われていて、その実験結果は、①順闘争的な「金だけ与えると怠け者になる」を否定するために引用されることが多い。
途上国などでよく実験されているのだが、貧困層の生活を定期的な給付によって保証すると、「金だけ与えても怠けるだけ」という保守的な価値観に反して、アルコールやタバコなどの支出が減り、教育や医療などの有意義な支出に金が使われるようになるそうだ。定期的な収入という安心の基盤を与えられることで、癒やしや埋め合わせのための消費をする必要がなくなり、ポジティブなことに金を使えるようになる。それを実証するBI実験の結果が、BIを推進するためのエビデンスとして持ち出されたりする。
しかしこの手のものは、様々な変数が複雑に絡み合っているものなので、実証性という点で言えばなかなか厳しいようにも見えてしまう。BI否定派からすれば、いくらでもケチのつけどころがあるだろう。
ガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道』という書籍には、BIの試験プロジェクトの話も書かれているのだが、著者によると、BIの実験は、必ずしもその有用性自体を判断することではなく、どのような形でBIが効果的になるかを明らかにする目的もあると書かれていて、そういう意義もあるのなら、あえて実験を否定するのも難しいかもしれない。
ただ、BI実験による①順闘争的な価値観の否定に関して言えば、「多くの人が思っているほどは、BIにとって①順闘争は障害にならない」と主張したい。
「働かざる者食うべからず」という旧来的な規範があるからBIが実現しないのだ、と考えている人は多く、たしかに①順闘争と④逆競争は、表面的には大きく反発し合うが、「集団主義」という地平を共有しているので、実はそれほど相性が悪くない。
むしろ、積極的にBIを提唱しがちな②順競争や③逆競争こそが、「個人主義」という、BIを根本的に否定するような前提を有している。
自由主義的なベーシックインカムについて
②順闘争的な立場からのBI推進派も存在する。③を無視するという前提のうえで、④が提唱されることが多いのだが、それに関しては①〜④図の②と④だけに着目してみれば、納得感があるかもしれない。
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
④逆競争|被害性|集団|分散に向かうところを統一する
たしかに、「市場(②順競争)」と「BI(④逆競争)」だけでもバランスがとれて、これはある意味では、完璧に整備された理想の世界だ。国境がなくなり、あらゆる闘争が整備された世界は、あるいは「市場」と「BI」だけのようなものになるのかもしれない。
しかし順序としては、①順闘争がまず最初にあって、それを抑えるための②順競争であることを忘れてはならない。小さな政府推進派が主張するような「国家は夜警だけしてればいいよ」というのは、「社会保障の軽視」というよりはむしろ「暴力を舐めすぎ」なのであって、そのような考え方をこそ「お花畑」と言うべきだろう。(あと、たいていの場合、「②④だけ」のようなことを考える人は、「市場が生産」であり「BIが分配」であるという勘違いをしている。)
なお、個人主義的な②③と、集団主義的な①④を考えるとき、
- 「正しさ」では「個人(②③)」が勝つ
- 「数の力」では「集団(①④)」が勝つ
という視点が必要だ。(集団に対して確立される「正しさ」は、ひとりひとり違い、個に向かっていくものだから。)
そして、「④集団主義」であるBIは、「個別の利害(それぞれの正しさ)」を、「数の力」で乗り越えることができなければ実現可能なものにならない。逆に言うと、BIは「正しい」という形で説得力を持つことができない。
②の観点で見ても、BIは、「現時点で権限を握っている人間がやりたくない制度」だ。政治家や官僚は、軽減税率のような「複雑化」をやりたがるし、自分たちの権限をなくそうとするBIのような「簡易化」に対して、数多くの否定的な根拠を持ち出してくるだろう。
そして、「BI(集団主義的なもの)」と「経済的利権(個人主義的なもの)」のバトルになったとき、BI側は、「正当性」で争うと負けてしまうので、「数の力」で戦わなければ勝ち目がないと考える必要がある。そしてこれは、③逆闘争についても同じことが言える。
福祉国家的なベーシックインカムについて
思いつきのレベルではなく、切実な問題意識からBIを提唱しているのは、③逆闘争に関心のある人が多い。今の先進国における「福祉」は、あまりに酷い状況なので、それももっともだろう。
①順闘争的な規範、②順競争的な利権、③逆闘争的な被害性の序列が絡まり合う現状の「福祉制度」は、「地獄」のような有り様だ。
今の日本には、「生活保護」という「働かずに暮らしていける制度」もすでに存在する。それを得るためには、「受給に値する弱者」であると認められなければならないのだが、少なくない人が、そのような③逆闘争において弱者性を競い合うよりは、ホームレスになったほうがマシだと考えている。
福祉制度の受給者は③逆闘争の勝者だが、勝者であるからこそ、常にその正当性を厳しく問われる。被害性の特性上、弱者と認定され支援を受けていること自体が、③逆闘争的に弱くなることを意味するので、受給者は、正当性が低下したぶんを上回るくらい「再起不能なほど悲惨な状況」をキープしなければならない。
やっかいなことに、「一生懸命働いて税金を納めているけど、生活保護より手取りが低い」という状況もまた、③逆闘争的には弱くないポジションであり、文句を言えるからこそ、その悲惨な状況に留まりたがる人が多い。それに対して、文句の不当さや福祉の重要さを説く試みもまた、正しさを争う③逆闘争に回収されてしまう。福祉の受給者は、安心を与えられるどころか、過酷な弱者争いの渦中に放り込まれるのだ。
より悪くなるインセンティブがあり、行き着いた先でスティグマを押される。権利を得てからも悪い状態を維持するマイナスの競い合いを迫られる。そのような「福祉制度」そのものの土台も、①順闘争や②逆闘争の動きによって脅かされている。ただでさえ競争が過酷になっている社会において、そのセーフティネットは穴だらけで今にも引きちぎれそうだ。
このような状況に対して、「なんとかしなければ」と考えるのは当然であり、解決のためにBIが提唱されるのも妥当だ。しかしBIは、これを打開する可能性を持つものであるだけに、③逆闘争と対立する④逆競争的なものにならなければならない。しかし、切実な問題意識を持ってBIについて考えている人ほど、③にハマりやすいようにも見える。
BIを実現しようとする取り組みを続けている「BIEN(Basic Income Earth Network)」という団体があるらしく、そこの共同創設者であるガイ・スタンディングが、『ベーシックインカムへの道』という著作を出している。30年ほどBIに取り組み続け、様々な国際的な活動をしてきた著者が、一般読者にBIを解説する内容だが、本書の冒頭で問題意識を述べている部分を引用したい。
昨今、ベーシックインカムへの関心が高まっている一因は、現在の経済政策と社会政策の下で、持続不可能な規模の不平等と不正義が生まれているという認識にある。猛烈なグローバル化が進み、いわゆる「新自由主義」の経済が浸透し、テクノロジーの進化により労働市場が根本から様変わりするなかで、20世紀型の所得分配の仕組みは破綻してしまった。「プレカリアート」と呼ばれる人たちの増加は、その一つの結果だ。プレカリアートとは、雇用が不安定で、職業上のアイデンティティを持てず、実質賃金が減少もしくは不安定化していて、福祉を削減され、つねに債務を抱えているような人たちを指す言葉である。
以前は、国民所得のうち「資本家」と「労働者」がそれぞれ手にする割合はおおむね一定だった。しかし、昔の常識は崩れた。ごく一握りの「不労所得者(ランティエ)」―物的資産や金融資産、知的財産などの資産が生み出す利益により、豊かな暮らしを謳歌する人たち―への所得の集中が加速している。このような状態は、道義的にも経済的にも正当化できるものではない。社会の不平等が拡大し、人々の怒りも高まっている。不安、無関心、疎外、怒りが混ざり合う結果、社会は最悪の危機に飲み込まれつつある。ポピュリスト(大衆迎合主義者)の政治家たちが人々の不安を煽り、支持を広げやすい環境が生まれているのだ。これは、19世紀の金ぴか時代(「金ぴか時代」とは、19世紀後半のアメリカで資本主義が急速に発展を遂げ、貧富の格差が拡大した時期のこと)にアメリカで起きたのと同じ醜悪な事態だ。
新しい所得分配の仕組みの確立に向けた確かな一歩を踏み出さなければ、社会はますます極右に傾斜していくだろう。2016年にイギリスの国民投票でEU離脱(ブレグジット)が選択され、アメリカ大統領選でドナルド・トランプが当選した底流にあるのは、そうした社会の右傾化だった。このような潮流に抗し、より平等で自由な社会を築くためには、ベーシックインカムの導入が政治的な必須課題だとわたしは考えている。
この問題意識の部分だけでも、著者が、①的な右傾化に危機感を持ち、②的な格差拡大を嘆き、③の立場からBIの必要性を主張していることがわかるだろう。
本書の内容は、おそらく、BI論者の中でもバランスが取れたほうで、②的な「自由」という観点からも数多くのメリットがあると配慮した上で、③的なBIを提唱している。既存の福祉の大幅な撤廃を意図せず、福祉制度の中でも特に逆進性の高いものを削り、富裕層への課税を強めて得た財源を使ってBIをやろう、という堅実で良識的な感じだ。しかしそれゆえに、こういうやり方は行き詰まってしまうと思う。
著者のガイ・スタンディングを始め、③的な問題意識からBIを提唱する論者は、「既存の福祉を削ってBIで一元化する」という②的なやり方は論外だと思っているだろう。しかし、BIを「再分配」の仕組みとして考える以上、これは程度問題であり、いずれどこかの時点で「他の福祉制度よりもBIを優先する」となってしまうことは避けられない。
仮に、富裕層への大幅課税が成功するなど、何らかのやり方で「財源」を確保できたとする。しかし先進国において「福祉の財源は常に足りない」状態だ。であるからには、BI用の財源を確保したところで、「なぜその財源を福祉に使わないの?」となり、どこまでいっても原理的には「他の福祉よりもBIを優先する」にならざるを得ない。そして、「(集団主義的な)BI」と「(個人主義的な)福祉」が「正しさ」を競い合ったときに、BIは「より正しいもの」として説得力を持たないだろう。
③逆闘争と④逆競争は、同じ「被害性」という問題意識を持ちながらも、根本的な部分でバッティングを起こす。例えば、「権利」という概念について考えてみると、
③的な「権利」……1か0かで保証されるもの
④的な「権利」……増やそうとするもの
となる。
BIは、現実的に、少しずつ金額を増やしていこうとするものにならざるを得ないが、③逆闘争は、「まだ十分ではないけどこれから増えるかもしれない権利」といったものを認めることができない。
「無差別・無条件のBI」は、「この程度の金をもらってどうしろっていうんだよ。そんなことより福祉を充実させてくれ」という個人の被害性に対して、「より正しいもの」になることができない。
BIは、④逆競争的な性質のものなので、③逆闘争の枠内で提唱されても説得力を持てないのだ。
根本的な解決を目指せばこそ、③と④は切り離されるべきだし、そうなった場合のBIは、③的なBIとは、大きく雰囲気が違ったものになるかもしれない。では、④的なBIとは、いったいどういったものになるのだろうか?
「逆競争」の考え方
もう一度「個人−集団」の対比を見てほしい。BIはこの「集団」側だ。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
生産、分配
「個人」と比べて、「集団」は、不自然で不合理なものだが、それゆえに「発展」の可能性を持っている。
「BI(④逆競争)」という「集団主義」的なものが、「経済的な利権(②順競争)」や「個に向かう福祉(③逆闘争)」といった「個人主義」的なものに「正しさ」で勝てるわけがなく、②③の「個人主義的な市場−公共の二元論」で考える以上、BIは説得力のあるものにならない、ということを述べてきた。
検証や議論を重ね、「正しさを示せばそれが為される」と考えること自体、個人主義的な発想に寄りすぎている。何らかの不合理を指摘することができたとしても、その不合理に介入できるだけの「数の力」を得た時点で、今度は自分たちが不合理な存在になってしまっているのだ。これはマルクスの「正しさ」から始まった共産主義の教訓でもあるだろう。
「集団(数の力)」は、(個人主義ほどには)正しくはないが、今はその正しくないものこそが必要とされている。
自分は、「市場」が「比較的マシな競争」として評価されているように、「BI」を「比較的マシな協力」として評価され得るものだと考えている。それを踏まえたうえで、④逆競争的なBIの特徴を論じていきたい。
「財源」は考えなくていいし、「額面」はたくさんあるほど良い
BIの主要な論点になる「財源」と「額面」について、④逆競争的には、以下のような感じ。
Q「財源はどうするか?」A「考えなくていい」
Q「どれくらいの額面を配るか?」A「たくさんあるほど良い」
「財源」についてだが、BIは「再分配の方法」ではなく「発展を目指すための方法」なので、そのための「財源」を問うこと自体がおかしい。「財源」として想定されているような「全体のパイ」のような概念があるとして、BIはそのパイを大きくするためのものなのだ。
BIと財源は「鶏と卵」の関係で、BIの根拠として財源を問うと何もできなくなる。手順としては、まずはBIを引き上げて、それによって起こるインフレを収めるために生産性を向上させ、大丈夫そうだったらまたBIを引き上げる、というものになるだろう。
「額面」についてだが、金をもらえるのなら、たくさんもらえるほど良いに決まっている。もちろん、額面の数字だけ増えてもそのぶんインフレになってしまえば意味がないので、ここで言う「額面」とは物価をBIで割った「購買力」のことだ。つまり、市場が機能している状態で、BI(購買力)がだんだん増えていけば、それがわかりやすい「発展」になる。その場合における「BI」は、多ければ多いほど良い、というものになる。
④逆競争的なBIを目指すうえでは、なるべく複雑なことを考えないことが大事。何となくだが、実現の手順は以下のようなものになる。
- 財源などの難しそうなことを何も考えない
- みんなでBIを要求する政治運動をする
- まずは大丈夫そうな程度(例えば月1万)のBIを達成する
- これからもBIを上げていけるだろうという期待のもとに生産性を向上させる
- 政治活動を続けて、BIのさらなる引き上げを図る
- 「BI引き上げ→生産性の向上」を繰り返す
- たくさんのBIがもらえる豊かな社会になる
チープなイメージではあるが、未来の教科書に、「2030年はBIでこれだけのものが買えました」「2040年はBIでこれだけのものが買えました」「2050年は……」みたいな写真が載っていて、そのラインナップがだんだん豪華になっていけば、わかりやすく「発展した」ということが言えるだろう。そのような「誰でもわかる発展のイメージ」こそが必要なのだ。そして、「BIというわかりやすい指標であり目標」があるからこそ、協力して「みんながラクになる発展」を目指すことができる。
BIを前提とする社会になれば、発展のためには、「BIを引き上げていけばいい」のだから、一気に話が簡単になる。
今の社会は、例えば「豊かさ」や「生産」などの言葉をとっても、膨大な議論が発生する。GDPとして定義される経済活動の総量を豊かさという人もいれば、スマホやパソコンのスペックが上がっていくことを豊かさという人もいる。あるいは、「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」で描かれるようなかつての庶民的な暮らしにほとんどの人の手が届かなくなっているのだから、豊かさはむしろ減っているという人もいる。単純に少子化で日本人の人口が減っていることを豊かさの減少と捉える人もいる。この手の議論において、誰もが納得するような結論が出ることはないし、「個」に向かっていく議論に突入すれば、問題の所在すらもはっきりしなくなっていくだろう。
「BI」という集団のための仕組みが存在せず、「市場」という個人のための仕組みしかない場合、AIなどの技術革新が起こっても、「市場で行われる分配の正当性を決めるための競争の内容がさらに過酷で不公平なものになるだけ」の可能性すらある。(もちろんそれについても様々な議論が発生すると思うが。)
だが、「市場が機能している状態で、BIの額面(購買力)が上がっていく」のであれば、それはみんなにとって「わかりやすい豊かさの向上」になる。今必要とされているのは、定義が分化しないような、「BIというわかりやすい指標であり目標」なのだ。
そのため、BIの定義などを巡って複雑な議論が起こることは、避けなければならない。だからこそ、「財源は知らん、額面は多いほうがいい」というバカみたいにシンプルなものである必要がある。
複雑な議論を避ける
「財源や額面に関する議論がいらない」と言ったって、現実的な意思決定の様々な過程において、議論が発生しないわけがない。だが、あくまで「④逆闘争のフェイズにおいては、複雑な議論をする必要がない」ということ。
④をセーブする役目は①②③が担うので、④のフェイズにおいては、「財源なんて知らねえ!」「お金たくさんほしい!」でいい。
④に求められる役割は、「数の力で個別の利害を乗り越えること」なのであって、だからこそあえて複雑な議論を避けるし、そのための「BI」なのだ。
「無差別・無条件に金を与える」というやり方にしても、厳密に考えるほど、それほど自由でもなければ平等でもないだろう。ただ、「最大多数の最大共通項」として妥協できそうなのは「金」くらいだろうな、みたいな感じで、あまり厳密に考えない。
BIについて、「どれくらいのBIがあれば人間的な暮らしができるのだろう」とか「もし労働をしなくてよくなったら人は何をすべきなのか」みたいな議論がされることもあるけど、そういうのも一切必要ない。やりたい人はやりたい人だけでそれぞれにどうぞ、って感じ。
とはいえ、BIが④として機能するようになれば、それは他の①②③のフェイズにも影響を与えるし、そこで様々な議論が起こるだろう。
BIの額面が上がっていけば、それ受けて③逆闘争的な福祉も変化を迫られる。例えば、それなりの額のBIと生活保護が重ねれば、その正当性に対して議論が起こるだろう。だが④は、そのような個に向かう議論につき合う必要はない。何らかの細かい調整が必要になった場合は、③のほうでやるべきだ。
また、上がっていくBIの額面に対して、②順競争のほうから「上げすぎだから下げろ」という批判も起こるだろう。①順闘争からも「けしからん」みたいなのがあるかもしれない。
もっとも、そのような形で①〜④が対立し牽制し合うからこそ、それぞれが健全に機能するのだし、そうなるために④をやる必要がある。
可能性を担保にする
この記事では、GDPという指標に対して疑問を挟むような言及もしてきた。工業中心の時代には有用な指標だったとしても、マッチポンプ的な問題の生産と解決が行われる現代の先進国においては、GDPは高いほど良いと言い切れる指標でもないのではないか。これはGDPを労働時間などで割って算出する「労働時間性」にも同じことが言える。
もっとも、「本質的な生産性」なんて定義できるものではないので、だからこそ欠陥が多いと知っていながらGDPに頼らざるを得ないという事情がある。この文章の流れで言うなら、むしろ「生産性」にあたるのは「出生率」かもしれないが、そういうことを言うと②③を重視する人たちに怒られるだろう。
あるいは、BIが当たり前の世界になれば、「国民ひとりあたりのBI(購買力)」が、その国の豊かさを表す指標として見られるようになるかもしれない。
BIは、GDPで評価されるような経済のあり方を変えるために要請される。そして、であるからこそ、「GDPの○○%を配れば月額○○円のBIが可能」みたいな試算もあまり信用できないのではないか。つまり、BIを導入すると、今のGDPで評価されている経済が長期的には変質する可能性があり、そこには必然的に不確実性が紛れ込む。
BIが前提となった社会において、「どれくらいの働かない人を、どれくらいの生活水準のまま養えるのか」みたいなことは、実際に導入してみないとわからないことが多いと思う。意外とみんな働かなくてもラクに暮らせた、となるかもしれないし、社会を維持するために必要な仕事は予想以上に多かった、となるかもしれない。予想できなかった問題が明るみになる可能性もあるだろう。
自分は、①〜④の「闘争−競争/加害−被害」モデルからの演繹で、「BIの額面を上げていけば出生率も上がるだろう」と踏んでいるが、それも実際のところはやってみないとわからない。
④逆競争的なBIには、現状を脱却する可能性があるが、だからこそ、エビデンスを示して「これくらいのメリットがありますよ」と言える種類のものではない。確約されたものは何もないのだ。
じゃあどうやって価値を判断して意思決定するかというと、結局のところ「可能性を担保」にするしかないのだ。
これからみんな何かしらの生産活動に従事すると思うのだが、「市場という分配のための競争」に多くを費やすよりも、どうせなら、みんなを豊かにするような仕事に携わりたい、という気持ちがないわけではないだろうし、BIはその可能性を持っている。だから、「自分はこれから何をしたいか」が判断の基準になるかもしれない。(まあ普通に「お金ほしい」でいいと思うけど。)
もちろんそれは、「優秀な個人」が決めるのではなく、「政治」の場で「国民」が決めることだ。
大衆的公共性
①〜④を、それぞれ戯画的に書くと、以下にようになるかもしれない。
①順闘争:身を修め、家庭を持って子供を作り、共同体に気を配り、国家に尽くしなさい。
②順競争:ライバルに負けないようにスキルを身に着けよう! 夢に向かって努力しよう! 国は市場にあんまり介入しないでくれ!
③逆闘争:様々な問題や、かわいそうな人たちに目を向けてください。経済格差反対! 国家による強制はもっと反対!
④逆競争:色々とごちゃごちゃしすぎなので難しいこと考えるのやめてみんなで協力しよう。BIが増えてけば単純に最高じゃね?
①〜④のうち、どれが良くてどれが悪いという話はしていない。インフレのときはインフレ対策、デフレのときはデフレ対策、みたいな感じで、出生率が低すぎるなら①④、出生率が高すぎるなら②③を意識するのがいいのではないかと思う。ただ、現状は①②③しかない状態なので、とにかくまずは④をやるべきだ、という話になる。
戯画化した④の特徴は、「明るくてバカな感じ」なのだが、それこそが今の先進国に必要なものと主張したい。
④逆競争を成り立たせるためには、大衆化を嘆くのではなく、むしろ積極的に大衆化を推し進める必要がある。
今の政治の場では、「もっと政治について学びましょう」ということがよく言われるが、まずこれが罠。「理解しなければならない」前提の上で、それぞれがそれぞれの利益のために「複雑化」を始めるからだ。
「理解しなければならない」のであれば、そこにプライオリティを置く官僚や業界団体に、国民や政治家が勝つことはできない。そして、意図的にわかりにくい仕組みを作っておきながら「もっと学びましょう」というマッチポンプが行われる。「複雑化」によって国民は団結することができなくなり、政治が形骸化していき、権限を握っている人たちほど有利になっていく。
例えば国民が団結して「減税」を呼びかけようとしても、「この税を減らすと、この層が得をして、この層が損をする」というのが複雑に絡み合っていて、それがどういう効果をもたらすかについて勉強と議論が必要になるし、意見も割れる。そうやって国民は分断されてしまう。「国民が政治に関心を失っているのが問題」とされるが、関心を失ってしまうような比較検討を難しくする複雑化が、意図的に行われている側面もあるのだ。
人は良くも悪くも、自集団の価値体系の中で思考するようになってしまう。例えば、「急な少子化によって世代間の人口格差が進む中、将来世代に負債を残すわけにはいかないから財政再建が必要だ」みたいな理屈で動く集団がいるが、彼らの体系の中ではそれが合理的なのだろう。国民全員の利益よりも、省庁の利益を追求するほうが、そこ所属する人たちからすれば合理的なふるまいであり、それを考えるなら、不合理な「集団」よりも、合理的な「個人」の問題が目立ってきていると言える。
政治が、もともと、「ちゃんと勉強して」という類のものだったかというと、そうではないだろう。大衆が雰囲気で意思決定して、政治家がそれを代表し、テクニカルな部分は官僚がなんとかする、というものだったのではないか。政治家に難しいことを理解する能力が必要ないとは言わないが、それよりもまずは「共益を向いているか」を見るべきではないか。
地元で握手をして回ったり、冠婚葬祭に出席したり、選挙カーで演説するような古臭い政治家のやり方は、②③的な個人主義からはバカにされるだろうけど、「共益を向いている人」を選ぶ基準としては妥当なものだったと思う。「政策についてちゃんとした知識のある人が比較検討を」という基準で賢いだけの政治家を選んでも、個別の利害関係に巻き取られてしまうだけだからだ。
もちろん、①順闘争的な古い政治も今は厳しいし、だからこそ、④逆競争的な政治の判定基準が必要になる。
④的な政治のやり方はとても簡単で、「BIに賛成する政治家に票が入りやすくなり、BIに反対する政治家には票が入りにくくなる」という状況を作り出すだけでいい。
もちろん「政治」という場で議論すべきことはBI以外にもたくさんあるし、個々の政治家の能力が重要でないというわけではない。ただ、「BIに賛成するかどうか?」でスクリーニングをかけて、「共益を向いている人」が選ばれやすくなることに意味がある。「④を導入することで、バランスが悪かった①②③も、まともに機能するようになる」という発想だ。
普通の人の政治参加は、「まずは選挙に行って、BIに賛成している政治家に投票する」でいい。このような考えは、市民的な政治を志向する人からすると度し難いものかもしれないが、自分は、「公共性はこれからもっと大衆的な方へ向かっていく」と考えている。というより、「BIこそが公共性」だと思っている。
「公共性」といったものについて、今まで連綿と議論されてきたわけだが、今回は、公共性の変化を論じたハーバーマス『公共性の構造転換』に則って話を進めたい。
『公共性の構造転換』は、難解な内容の本だが、ざっくり言うと、封建的な権力が解体されて、自由な市民による「市民的公共性」が誕生したが、資本主義が進んで福祉国家が必要とされる過程などによって、「市民的公共性」もまた変貌していく、みたいな流れがあると思う。ハーバマスが重視する「市民的公共性」は、公権力に批判的なかっこいい男たちが、コーヒーハウスで教養ある議論を繰り広げている、みたいなイメージ。この「市民性公共性」は、いまだに引用されることが多い概念であり、「市民的公共性」の再興を図ろうぜ、という肯定的な形で持ち出されることが多い。
しかし自分は、ハーバーマスがますます涙目になるような形で、「公共性」が変化していくと思っている。手前味噌な説明になるかもしれないが、「公共性」は、①〜④の「闘争−競争/加害−被害」モデルの末尾に当てはまる形で、変遷していく。
まずは、①と②しかなかった状態を考えたい。
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
①順闘争:伝統
②順競争:公共
①と②しかないときは、②が「公共」になる。このときは、「強くて危険な公権力」に対して「優秀で実力のある個」が対抗しているイメージ。ハーバーマスの「市民的公共性」はこの時期のもの。
この時期における「citizen(市民・公民)」の概念は、現代からも理想化されがちで、その気持ちはよくわかる。一方でそれは、「被害性」をあまり考慮しなくてよかった時期のものに過ぎないのではないか、という疑問もある。現代において、もはや「市民性」というものが成り立ちそうにないことを嘆く人は多いが、ポジティブな見方をするなら、「被害性」が重視されるようになったことで、①②の段階から①②③の段階へと進んだのだ。
次に、①②③の状態。今の先進国がこれにあたる。
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
③逆闘争|被害性|個人|共益を目指すが分散に向かう
①順闘争:伝統
②順競争:市場
③逆闘争:公共
①②③のときは、③が「公共」になる。
ここの問題点についてはすでに何度も述べてきた。「個人主義」が行き過ぎて、「集団、協力、発展」が足りなくなっている。
この状況は、③逆闘争(公共)の立場からしても、「加害性」と「被害性」が2対1で、「被害性」が押されている状態だ。そのため今の「公共」は、様々な問題に焦点が当たる一方で、実情をわきまえないヒステリックな被害者のイメージもあるが、「被害性」の側からすれば切実なものがある。
①②③のバランスの悪さが問題になっているが、それに対して「市民性の復権(責任感のある個の確立)」みたいなことを言い出すと、実質的に「被害性」を無視する「保守への回帰」と似たような話になってしまいかねない。
ここでは、「①②のほうが良かった」という後退を否定して、①②③④への前進を目指したい。
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
③逆闘争|被害性|個人|共益を目指すが分散に向かう
④逆競争|被害性|集団|分散に向かうところを統一する
①順闘争:伝統
②順競争:市場
③逆闘争:福祉
④逆競争:公共
①②③④のときは、④が「公共」になる。つまりこの段階に来ると、「ベーシックインカム」が「公共性」なる!
「権力に対する個人」のレベルは、だんだん下がっている。ていうか最終的には「個人」ですらなくなり「集団」側になってしまっている。
①②のときの②……権力に対抗できる実力者でなければならない(実力+知性+公共性)
①②③のときの③……色んな問題を知っていなければならない(知性+公共性)
①②③④のときの④……共益に対する意識さえ持っていればそれでいい(公共性)
だが、こうしてこれまでの流れを記述すれば、なんとなく納得してもらえるかもしれない。政治参加が名誉だった時代と、投票率の低下を嘆く時代とで、「公共性」の性質が変化してしまうのは仕方ない。そしてそれは、「民主主義」や「被害性」など、かつては考慮しなくてよかった問題に対処した結果でもあるのだ。
というわけで、これからの先進国は、「市民的公共性」への回帰を目指すのではなく、言うなれば「大衆的公共性」の実現を目指すべきなのだ!
「市民性公共性」の観点からすると、「難しいことを考えず、ただ金をくれと主張する政治運動」を「公共性」などと言うと、許しがたいポピュリズムに思えるかもしれないが、例えば「税の3原則」が「公平・中立・簡素」と言われているように、公共的なものほど簡易的でなければならないという考え方もある。
宗教が大衆的になると「念仏を唱えるだけでいい」と言い出すし、文脈のない状態からすぐに大勢を笑わせようとするお笑い芸人のネタはバカみたいなものになる。「公共性」が「みんな」のものになるからこそ、誰にでも理解できて参加できるものでなければならない。逆に言えば、複雑な議論をしたがるエリート的な態度ほど、むしろ公共性を軽視したものとさえ言える。
④逆競争的な公共性は、「複雑なものほど公的でなく、公的なものほど単純であるべき」という考え方をする。もちろんこのような傾向が過剰になればそれはそれでヤバい。ただ、現在は「競争(安定)」の過剰が問題になっているわけで、出生率が2に近づくまでは、「協力(発展)」を目指すための簡易化を志向する方針で行くべきだとも思う。
「SEALDs」という学生団体の運動が盛り上がったとき、「言ってることがめちゃくちゃ」と批判も多く、実際にそう見えるものでもあったと思うが、政治運動が「数の力」による影響力を持った時点で、「個」の視点から不合理なものに見えるのは当然だ。問題は、彼らが理性的でなかったことではなく、自由民主主義とか立憲主義とか、難しげなものを運動のテーマに掲げてしまったことにあるように見える。
我々は、「お金がほしい」という、もっと頭の悪い理由で団結すべきなのだ!
BIの引き上げが決まるたびにスクランブル交差点でハイタッチする集団が現れるようなノリがほしい。ある意味でルソー的な感覚への回帰と言えなくもないだろう。そして、そのような「大衆的公共性」のためには、「一般意志(金)」くらいまでレベルを落とす必要がある。
まず恩恵を受け取ること
今の政治、今の社会には、停滞と絶望が漂っている。
この文章の冒頭で、既存の利害関係を大きく変えるような改革が可能と考えない、と述べたが、これからBIに対する意識を少しずつ高めていって、「BIに賛成を表明した政治家に票が入りやすくなる」という状況を作り出すくらいであれば、不可能なものとは言えないだろう。そして、そのような漸進的な活動の延長で、ごく少額であれ、国民の働きかけによってBIが成立すれば、それが大きな転機になり得るかもしれない。
少額のBIが配られたところで生活はほとんど何も変わらないだろうが、その成功体験を得たあと、政治運動を継続的なものにして、少しずつ額面を引き上げていくことも、まったく考えられないような話ではない。選挙のたびにBIの引き上げや引き下げが争点になるような社会になれば、良くも悪くも、今の閉塞感とはまた違ったものが見えるようになっていると思う。
でも、「④逆競争が今の日本に必要だってことはわかったよな。じゃあ今すぐ動こうぜ!」なんてことは言わない。そんな筋合いはどこにもないからだ。
④逆競争は、大きく貢献したからといって、それに見合う対価が返ってくる性質のものではない。まずは、自分や、自分に親しい人たちの利益を追求することが大前提で、その上で、みんなのことを考える「政治」の場においては、④逆競争的な考え方をしよう、という話。当然だが、やりたくなければやらなくていいし、反対したいなら反対するべきだ。
なお、④逆競争を、政治やベーシックインカムに限定したいわけでもない。
「みんな苦しいよね」という被害性の統一から出発し、「協力して発展させていく」意識を持ち、「○○しなければならない」を決めるパターナリズム以外のやり方で「集団」になれば、それは④逆競争的なコミュニティと言えるだろう。
自分は参加したこともないし実態をまったく知らないが、コミュニティ系の仕組みが賑わいだしているらしい。YouTubeが流行って、個人プレイヤーが可処分時間を奪い合うと「競争」になりやすいが、そのような場所で発信力を得た人が始めるコミュニティは「協力」になりやすいだろう。実際のところ「コミュニティ」は、②③からは批判されやすい一方で、「発展」の可能性を秘めたものでもある。
これから新しくできるコミュニティが、①順闘争的なものか④逆競争的なものかは、判断が難しい場合が多いと思う。設立者の属人性に多くを頼っているとか、積極的にコミュニティを拡大しようとする動きが強ければ、④よりはむしろ①かな、となるかもしれない。ただ、②③が反発しながらも個人主義を共有しているように、①④も反発しながら集団主義を共有している。BIでさえ、国家という枠組みで行われることになるわけで、完全に④に寄っているとは言えない。
①か④かの簡単な判定基準を言うなら、「我慢した先に恩恵があるのが①」で、「参加してすぐに恩恵を受け取れるのが④」だ。
④逆競争的であるならば、「まず最初に恩恵を受け取る」必要がある。
この④逆競争の性質について、「老後」という例を出して説明してみたい。
人は誰しも老化するし、若くして死なない限りは「老後」という問題がやってくる。これについて、①②③それぞれの対応は、
①年金、または「子供や孫に面倒を見てもらう」
②貯金、または「アンチエイジングで老いを克服し、生き生きとした老後を!」
③生活保護、または「どんな老人でも十分な福祉を受けられる社会にするべき!」
となる。
悲観的に考えるなら、①は子供を残さなかった人間を責めるように、②は老いに対する危機感を煽るように、③は老いの悲壮さを強調するように働きやすい。老人は、①順闘争的なプライオリティが高くないし、②逆競争で勝てる能力が失われていくし、③逆闘争的なかわいそうさもそれほどない。①②③で総合的に弱いのが老人で、そのため、医療の進化によって寿命の期待値が長くなった先進国の多くの人が、「老い」を極度に恐れている。
一方で、④逆競争においては、「老後」の優先度は高い。なぜなら、「BIをもらえて遊んで暮らせる老後」は、多くの人にとって望ましいものだろうからだ。「老後」を良いものにしていきたいというモチベーションを多くの人が持っているし、「最高の老後」の用意は、非常に共益性の高いプロジェクトだ。
介護ロボットなどの様々な発明に囲まれて快適に暮らせて、介護人の待遇も悪くないのでケアしてもらうことにあまり負い目を感じない。毎月のBIで自由な購買活動が可能。今までの人生で積み残したコンテンツを楽しみ放題。身体が衰えてもVRとかでオンラインの世界に遊びに行けて、社交性を失ってもAIに相手をしてもらって孤立を感じずに済む……みたいな、あくまで現時点からの陳腐で曖昧なイメージに過ぎないが、そういう「最高の老後」なるものをなんとなく想定するとして、そういう感じのものをみんなで作っていくことは可能だろうか?
もちろん現時点では、確約されたものは何もない。そもそものイメージすら漠然としている。
だが、これからも大勢の人が何かしらの生産活動を行い、様々なものが進歩していくわけで、そういう未来がまったくナンセンスとも言い切れないだろう。そのような未来に貢献するような仕事をしたいと考える人だって少なくないはずだ。
④逆競争は、「可能性を担保にして、まず恩恵を受け取る」というやり方をする。「最高の老後、作りたくない?」みたいなものを共有して、それぞれが「なんか良い方法があったらやるかも」と漠然と思っておくだけでいい。「まず恩恵を受け取る」というのは、「自分がそれに関わって何かを良くしていけるかもしれない」と思った時点で、少し気分が明るくなる、みたいなこと。
何らかのプロジェクトが立ち上がったとして、それに興味を持った人がその時点で恩恵を得られる、というのが④逆競争的。即物的な世界観なのだ。(だから④逆競争だけでは具体的な話がまったく進まないこともあるだろう。)
ただ、ひとりの人間が、何となく共益についての意識を持つだけでも、それはすでに漸進的な進歩と言えるし、そういうものを少しずつ育てていくやり方が、BIの実現といった重要度の高い目標に対しても有効だろう。「BI」にしろ「最高の老後」にしろ、「運動に参加している時点で楽しい」とか「それを考える時点で気分がいい」というものであるからこそ、「共益」を追求できる。
「個益」と「共益」には埋まらない溝があって、基本的に個人は「個益」を考えるべきだし、誰かが誰かに対して「共益を考えろ」と支持できる筋合いはない。(少なくともそれは④逆競争的でなない。)「共益」を考えるなら、それを考えた時点で「何か良い気分になる」みたいな恩恵をまず受け取れるはずなのだ。
自分が何かしらの形で世界を良くしていけるかもしれないと考えること、そういう感覚が誰かと何となく共有されていることは、今日よりは明日のほうが良くなっていくと信じられることでもあって、プロジェクトが実現するかどうかの以前に、すでに恩恵を受け取ることができている。
まとめ
この文章で言いたかったことは、「集団−個人」の対比と、「闘争−競争/加害−被害」モデルに集約される。
集団、個人
協力、競争
発展、安定
不自然、自然
不合理、合理
生産、分配
①順闘争|加害性|集団|個益を目指すが統一に向かう
②順競争|加害性|個人|統一に向かうところを分散させる
③逆闘争|被害性|個人|共益を目指すが分散に向かう
④逆競争|被害性|集団|分散に向かうところを統一する
「普通の人が普通に生きていくのがつらい」理由
今の先進国は①②③の状態だが、「集団、協力、発展」対「個人、競争、安定」が、1対2で偏っている。
そのため、社会は安定しているものの、競争が過剰。
問題
①②③はバランスが悪く、少子化により変化を迫られると、①を強めるか、③をなくそうとする動きが起こる。
個人主義的な②と③の二元論で思考することが前提になってしまっているので、競争から抜け出せず、努力するほど苦しくなっていく。
④の方法であるベーシックインカムの注目が高まっているが、③の枠組みのまま提唱されているので説得力を持たない。
解決
ベーシックインカムを③から切り離して④として確立する。
④ができると、バランスがとれるので①②③も健全に機能しやすくなる。