精選版 日本国語大辞典 「科挙」の意味・読み・例文・類語
か‐きょ クヮ‥【科挙】
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中国で隋(ずい)の文帝の587年ごろから清(しん)朝末期の1904年まで行われた高級国家公務員資格の認定試験制度。普通、文帝の次の煬帝(ようだい)の時代に始まるとされるのは誤り。科挙とは科目による選挙の意味で、選挙とは官吏登用法のこと、科目とは試験に数種の学科目があることをいう。
[宮崎市定]
三国時代以後、九品官人(きゅうひんかんじん)法による官吏登用が行われ、これは選抜の標準を徳行に置くため主観的で情実が入りやすく、特権貴族階級に有利に行われたので、隋になって客観的で公平な試験により、もっぱら才能によって人を採用する科挙に切り換えたのである。唐初は秀才、明経(めいけい)、進士などの科目があり、秀才は政治学、明経は儒学、進士は文学であったが、しだいに進士だけが尊重され、そのなかから多くの名士が出た。宋(そう)代以後、諸科目の名を廃し、内容を統合して進士一科の名を残したが、依然として科挙と称せられた。
唐代の科挙は2段に分かれ、進士科ならば地方の州で予備試験を行い、通過した者は郷貢(きょうこう)、進士と称し、都に集まって、別に中央の学校から選抜された生徒とともに、礼部が行う貢挙(こうきょ)を受ける。貢挙を通過すると、ただちに進士及第の称号を受け、略して進士という。明経以下も同じである。進士は文部省にあたる礼部が与えた資格にすぎないので、彼らが実際に任官するときは、別に吏部が行う採用試験である詮試(せんし)を受けなければならなかった。しかし宋(そう)代には貢挙のあとに天子自ら行う殿試(でんし)が付加され、進士は天子の審査を経た者なので、吏部の試験は名目的なものとなった。元代は中国がモンゴル人の支配下にあり、科挙が一時停止されたが、仁宗(じんそう)の時代1315年に再興された。明(みん)、清に至っていっそう盛大に行われ、志願者があまり多数に上ったので、これを中央、地方の学校在籍者の、監生(かんせい)、生員(せいいん)に限ることとした。すると生員になるための入学試験、童試(どうし)が重要となり、あたかも科挙の予備試験の観を呈した。清代になり各段階の本試験のあとにさらに小試験が付加されて、いよいよ複雑となった。
[宮崎市定]
清代制度の大要を述べると、地方学校の入試である童試に応ずる者は年齢にかかわらず童生(どうせい)といい、特殊の賤業(せんぎょう)を除いて資格に制限がない。童試は3段に分かれ、第一段の県試は県の長官である知県が行い、5日かかって四書、五経、詩、賦(ふ)、論を試験し、最後に清朝の教育勅語である聖諭広訓(せいゆこうくん)の16条のなかの1条を謹写させた。第二段の知府が行う府試、第三段の学政が行う院試も、ほとんど同じである。学政とは一省の教育をつかさどる大官で、総督、巡撫(じゅんぶ)と肩を並べる権力をもつ。学政は3年の間に2回、管内の府を巡回して、府試の合格者に対し院試を行う。その合格者は府学、県学に配属されてその生員となる。学校には教授、教諭、訓導などの学官があるが、別に授業は行わない。生員は自学自習して勉学を怠らず、院試のたびごとに行われる学政の歳試(さいし)を受けなければならない。成績に従って賞罰があり、成績優秀な者は中央の太学(たいがく)へ籍を移される。生員は官吏に準ずる待遇を与えられ、同時に身分に恥じない行動を要求される。生員にして科挙に応じようとする者は、院試と同時に行われる科試(かし)を受けて学力の認定を得なければならない。
[宮崎市定]
科挙の本試験は、郷試、会試、殿試の3段階に分かれ、郷試を通過すれば挙人の資格を与えられる。会試は唐・宋の名に従って貢挙とよばれることもあり、これに応ずるためには、その直前に挙人覆試(ふくし)の試験を受けて登録をしておかなければならない。さらに会試の本試験のあとに会試覆試があり、本試験の成績と照合して本人に相違ないことを確かめたのちに殿試に赴くことを許される。殿試を通過すれば進士という称号を受け、高級公務員に任用される資格を得る。進士合格発表式は宮中で天子親臨し百官が集まった前で盛大に挙行された。これを伝臚(でんろ)または唱名(しょうめい)という。いずれも姓名をよぶ意味で、成績順に名を三度ずつ呼び上げられる。首席を状元(じょうげん)、次席を榜眼(ぼうがん)、三席を探花(たんか)と称し、とくに大きな名誉を与えられた。状元からは宰相に上った者や、忠臣も少なからず出た。宋の文天祥(ぶんてんしょう)はその両者を兼ねた例である。小説、戯曲の主人公にもよく状元が登場する。
[宮崎市定]
科挙は哲人政治の理想に近く、官吏に高い教養を要求するのは甚だ進歩した制度であり、明末以来、西洋に紹介されて賞賛を博し、近代文明国における高等文官試験制度は中国の科挙の影響によるといわれる。しかし、その実際をみれば問題が多く、審査の不公平、受験者の不正手段がつねに論議された。政府は極力公平を期し、郷試、会試には、糊名(こめい)、謄録(とうろく)といい、答案の姓名の部分を糊(のり)で封じ、その全文を筆写したものを試験官に審査させたが、なお外部の非難を免れず、落第者のなかから反乱指導者が現れることもまれではない。清末に西洋文化が輸入されると、科挙は時勢にあわなくなり、学校教育にその地位を譲って廃止された。
[宮崎市定]
科挙は、中国の影響を受けることの深い朝鮮にも輸入され、958年以後継続実施された。日本の養老令(ようろうりょう)にも貢挙の規定があるが、当時まだ十分な知識層が存在しなかったので、数回形式的に実施されただけで消滅した。
[宮崎市定]
『宮崎市定著『科挙』(中公新書)』
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隋に始まり清末1905年までの約1300年間,中国の歴代王朝で続けられた官吏登用試験制度。その起源は三国魏から始まる九品中正(きゅうひんちゅうせい)制に求められるが,貴族制度と妥協し門閥偏重に陥る傾向があったので,598年中正官を廃止し,みずからの能力に応じて官吏を志願する道を平等に開くことになった。科挙制は隋唐では不徹底であったが,宋代には地方州の解試(かいし),中央の省試(しょうし),さらに皇帝みずからが臨席する殿試(でんし)の3段階の試験制度が整い,朱子学が科挙に採用されて体制が完成した。明清では科挙のほかに学校制度が合体し,さらに一層の発展をみた。皇帝に代わって徳治政治を代行する官吏は儒教的教養を備えていなければならず,その能力を判定するのがこの制度の目的であったため,この制度には知識が古典に偏重し実務に向かない伝統主義的官僚を輩出する欠点が内在していた。それゆえ清末になり近代改革に適合する人材養成の必要が生じると,しだいにその存在意義を失うことになった。
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…漢代では〈賦〉が盛んであったが,〈五言詩〉が成立すると,詩はしだいに文学の諸ジャンルの中で最も尊重されるようになり,その傾向は唐代に至って確定的となった。唐代では,詩が高級官僚資格試験である〈科挙〉の最重要科目とみなされたこともあって,詩作は官僚たらんとする知識人に必須の教養となったのである。宋代を代表する文学は〈詞〉であるとは,よく言われることであるが,それは〈詞〉が〈詩〉を圧倒したことを意味するものではない。…
…試験は,人間の能力・資質の評価方法の一つである。その起源は,成人としての能力の有無をためすための通過儀礼(成人式)や,習得した技能の水準を徒弟,職人,親方などの身分・資格認定の条件とする徒弟制度などに求めることもできるが,現代社会における独自の社会制度としての試験の源流は,6世紀にはじまる中国の〈科挙〉にあるとするのが,ほぼ定説になっている。中国の科挙は,世襲貴族にかわる,業績(教養)にもとづいて選ばれた支配階級としての国家官僚の選抜試験制度である。…
…しかし時代が下るとともに,単に古い家系を誇るのみで,無教養な貴族が多く現れて,世人の軽視を招いた。隋代の科挙はこの弊を匡(ただ)すために開始されたもので,唐代に入ると世人は単なる貴族士大夫よりも,科挙出身の新士大夫を尊敬するようになった。宋代に入り科挙万能の世となり,士大夫とはもっぱら教養ある文化人を指すこと,高尚な趣味の画を士大夫画と呼ぶ用法に見らるるごとくである。…
…つづく太宗は,太祖の諸政策を継承するとともに,さらにいっそう強化して,宋朝の基盤をかためた。なかんずく,科挙の門をひろげて大量の知識人層を官僚に登用したことは,士大夫階級が政治,社会の指導層として進出する道を開くことになった。 宋朝は中国統一によって国内の平和と繁栄をもたらしたが,対外的にはつねに周辺の新興国家の圧迫をうけた。…
…やがて元の時代をへて明・清時代に入ると,南方優越の形勢は決定的となる。科挙における進士合格者の数,学者芸術家の数,税負担の額,すべて江蘇,浙江を頂点とする南方が圧倒的である。モンゴル民族の征服王朝たる元朝が南人に対して過酷であったことが,かえって南方士大夫の文化を発展させ精彩を与えることとなったという(内藤湖南)。…
…こうした官吏登用は隋代になって制度化された。それが〈科挙〉の制度であった。これは高等文官試験であり,情実によることなく,能力によって官吏を採用するというきわめて近代的な制度であった。…
…高麗初期の支配層を形成したのはこれらの豪族たちであり,統一新羅期の支配層の閉鎖性に比べると,はるかに広い基盤から成っていた。 高麗はやがて科挙制度を取り入れて,官僚制的な国家体制への傾斜を見せるが,科挙及第者であることが支配層になるための不可欠の条件となることはなく,豪族の系統をひく門閥貴族の力も依然として大きかった。ところが李朝時代になると事情が一変する。…
… 地方制度は,州県制(〈郡県制〉参照)であり,ときに郡ともよばれた州は数県からなり,全国はおよそ350の州と1550の県に分けられていた。なお,唐の官吏登用法は,隋に始まった秀才,明経,進士等の科目からなる科挙の制を受け継いだが,唐初には秀才科が廃絶してしまい,ついで則天武后が権力を握るや,文章の才ある人物を選ぶ進士科を尊重する方向を打ち出し,それまで正統と目されていた明経科の地位が低落してしまった。 唐初の律令体制は,7世紀末以後,つまり武韋時期を経過した時点で破綻しはじめた。…
…巡撫・巡按の派遣されたことは,直隷地方も各省と同じである。
[官僚の選抜]
官僚の選任については,中央に国子監があって官僚養成機関とされたが,これが実質的機能を果たしたのは初期だけであって,やはり科挙に合格した進士が,高級官僚としては圧倒的な地位を占めた。科挙について前代と変わった点は,郷試の受験資格として府州県に置かれた儒学の生員たることが求められ,したがって事実上儒学の入学試験が科挙の第1段階となったことと,地方試験たる郷試の合格者に与えられる挙人が固定した資格となり,進士に合格するのを待たず,挙人の資格で官界に入る者が出てきたことである。…
※「科挙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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