渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

オートバイとの接し方

2023年11月16日 | open



(高校時代)

 
初めて自分で所有したオート
バイはイトコの兄貴からのお
下りだった。
カワサキのMS90。
バージョン変更でパワーダウン
されたその後のKM90とは別物
で、クラス最速だった。
その後、所有したオートバイは
全て自分で買った。
高校1年の時から。
親から貰ったお小遣いとかでは
ない。全て自分で働いて得た金
でオートバイはこんにちに至る
まで購入している。
当然、高校生や大学生の時は
一所懸命にやったアルバイトで
稼いだ金でバイクを買った。
私は免許もこれまで全て自分
の金で取った。
 
また、学生バイトで得た賃金で
あっても、オートバイは買える、
つまり若年層でもバイトでバイ
に手が届く価格帯にオー
トバ
があった。
この商品価格帯は日本に空前絶
後のオートバイブームをもたら
した。
誰もが望めば二輪に乗れる。
特定の大金持ちだけが独占でき
るのではない世界。
日本の二輪メーカー4社は大変
な努力をして純国産であるにも
かかわらず廉価で庶民が入手し
易い価格帯で二輪車を製造販
売していた。
だからこそ、歴史的なバイク
ブームが10数年も継続する事
ができた。
ある意味、日本におけるモー
ターリゼーションの中でのモ
ーターサイクル元年は、あの
想像を絶する1980年代の二輪
車ブームの時に開始されたと
いっても過言ではない。
社会的にはオートバイを悪の
乗り物として3ない運動など
の憲法違反を「指導者」面し
た層が必死に展開していた時
代にあって、それとは裏腹に
国民はバイクに親しんだ。
 
オートバイに限らず、基本的
に車両は自分の力で買うもの
だ。誰かに買ってもらうので
はなく。
特にオートバイは自分で買う
のがよい。
それは、オートバイは自分で
買って、自分で乗るもので、
自分ですべて何とかするのが
オートバイだからだ。
オートバイは倒れたら乗る
者が
自分自身の力で起こ
す乗
物だ。
ひと気のない山道で転倒して
自分で起こせないとしたら、
そこで野宿だ。携帯電波も届
かない場所だとしたら、かな
りの危機的状況になる。
クマが出るかも知れないだけ
でなく、そこでのサバイバル
野営が誰もができるとは思え
ない。飲料水や食料の確保や
外気温や天候への対処含めて。
 
オートバイは、自立した乗り
物だ。
自分では直立できない構造体
を人間が跨って乗って立たせ
る。倒れてしまった時も自分
の手で起こし上げるのはごく
当たり前の事だ。
オートバイとはそうした乗り
物なのだ。
人頼りの上げ膳据え膳グラン
ピングなどという世界はオー
トバイの世界には存在しない。
勘違いして、姫ライダーとか
称して男頼りなのは二輪乗り
ではないので、山で一人転ん
だらそこで人生サヨウナラだ。
ファッションで二輪になど乗
っていると、いつかそうなる。
 
オートバイは自立した人間が
乗る乗り物だ。
それは精神的な独立性と経済
的な自立性を要求する。
乗るのも自分、止まって支え
るのも自分だ。他人ではない。
そういう乗り物がオートバイ
だ。
オートバイは、最初の始めか
ら、人に挑戦して来る。
「独り立ちできない俺に跨っ
て独り立ちする事が君にでき
るのかな?」と。
「そうさ、できるから、よろ
くな」と跨るのがオート
だ。
自立した人間が自立できない
二輪車に跨って、活き活きと
一体となって走る。
乗る人間の質性が自立してい
なければ、二輪車に乗る事は
できない。
それがオートバイだ。
そして、それが乗り人である。
 
 
 
 
 
 

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