「漫画の巨星・梶原一騎の世界」最終回は、「空手バカ一代」の主人公である極真空手の創始者・大山倍達(ますたつ)の弟子たちの物語。漫画にも登場する「極真の龍虎」と呼ばれた山崎照朝(76)と添野義二(76)が作品を語る。2人は梶原と大山、極真空手との関係、作品が世の中に与えた影響をどのように見ていたのだろうか。(高柳 哲人)
つのだじろう(第1~3部)、影丸譲也(第4~6部)の2人が漫画を担当した「空手バカ一代」。つのだが描いた前半が大山の超人的な技やライバルとの壮絶な戦いが中心となっている一方で、後半は弟子たちが活躍し、その姿を大山が見守るという展開が増えてくる。
「日大の龍」の異名を取った山崎は、これこそが作品の魅力とみる。「館長(大山)の人間としての物語を描いた漫画であると同時に、オレらみたいな弟子が館長の期待に応えて実戦で表現する格闘漫画でもあるという、2つの面があったのが人気の理由だったんじゃないかな」。梶原は本作の前にも、読み切りで空手の名勝負ものを手掛けていた。その中で大山の空手を研究し、さらに人間ドラマを盛り込んだのが「空手バカ一代」だった。
一方、「僕にとって梶原先生は恩人、大山先生は恩師」という「城西の虎」こと添野は「今の自分があるのは、梶原先生のおかげです」と断言する。現在も「世界空手道連盟士道館」の総帥を務める添野は、元々は空手を“職業”にすることを考えていなかった。
「空手や柔道をやる人は、体を鍛えるためにと片手間の人がほとんど。だから、空手じゃ食えないから警察官になろうと(試験の)勉強もしていたんです。でも、『空手バカ一代』でブームに火がついた。ニューヨークに修行に行って『自分は空手一筋で生きていこう』と考えるようになったんです」
小学校の時に「姿三四郎」にあこがれ、講道館の柔道を学んでいたという添野は、当時の空手のイメージは良くなかったと回想する。「『柔道が正義、空手は敵役』みたいな。ケンカに強くなるために空手をやるみたいな人もいましたから。でも、空手を真剣に長い間やって、極めていくとケンカじゃなくなってくるんですよね」
作品でも当初、大山のフルコンタクト(直接打撃)空手は「ケンカ空手」と表現される。だが、大山が空手と真摯(しんし)に向き合い、弟子たちに自らの背中で「空手『道』」を見せることで極真空手は世界へ広がり、同時に漫画の人気も高まっていった。
連載開始前、梶原宅に呼ばれた山崎は「あしたのジョー」の話題になり、梶原から「ジョーに力石ってライバルができたんだ。モデルはお前だ」と言われたという。「でも、まだ世の中に登場していないんだから。分からないよな」と笑いながら振り返った。
山崎に向かって、梶原はある時こんなことを口にしたという。「『あしたのジョー』までは世間から『漫画原作者』として見られていたけれど、あの作品で作家として、物書きとして認められた。それがうれしかったと、ポロッと言ったのを聞いたことがあったね」。梶原の残した作品の数々は、半世紀がたった現在も読者の心を揺さぶっている。(敬称略)=終わり=
◆初弟子モデル 架空の人物か
作品の序盤に“最初の弟子”として描かれているのが有明省吾。元々は別の道場にいたが、大山の実戦空手にほれ込み、弟子入りを志願。その後、警察官に暴行を振るったことで破門され、自暴自棄になった末に交通事故で命を落とす。ただ、有明にモデルとなった弟子はいるものの、実在する人物ではなかったとされている。
◆山崎 照朝(やまざき・てるとも)1947年7月31日、山梨・甲州市生まれ。76歳。日本大学卒。都留高2年の時に極真空手に入門。69年、キックボクシングの大会に出場し8戦連続KO勝利でスターに。同年、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権で優勝。上段回し蹴りを武器に「日大の龍」と呼ばれる。73年に引退。中日映画社などを経て、現在は格闘技ライターとして活動。
◆添野 義二(そえの・よしじ)1947年9月29日、埼玉・所沢市生まれ。76歳。高校1年の時に大山道場(後の極真会館)に入門。その後、城西大学に入学し、空手部を設立。同時にキックボクシングの修行にも励む。「城西の虎」と呼ばれ、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権準優勝。その後、タイ・バンコクでムエタイを修行。78年、「世界空手道連盟士道館」を設立。総帥を務める。
◆梶原 一騎(かじわら・いっき)本名・高森朝樹(たかもり・あさき)。1936年9月4日、東京・浅草生まれ。梶原一騎のペンネームで「勝利のかげに」で作家デビュー。漫画原作者として「巨人の星」「あしたのジョー」「空手バカ一代」「タイガーマスク」「愛と誠」などのヒット作を手掛けた。87年1月21日死去。享年50。