たまたま読んだ林真理子氏による最近の新聞掲載コラムで、以下のくだりが出てくる。
「・・・ガザ地区の惨状には、地団駄踏みたくなる。これはウクライナ侵攻の時とはかなり違う」
「あちらは善悪がはっきりしており、私たちも支援団体に寄付するなど、少しは気が晴れたが、今回は何も出来ずもやもやが残るのみだ」
「加害者側と被害者側とが複雑に入り組んでおり、どう考えればいいのかわからない。・・・・・」
(中東へのつらくやりきれない思い 作家 林真理子 - 日本経済新聞 (nikkei.com))
色合いに変化の兆し、正義のフィルター
本稿に即して解せば、ロシア・ウクライナ紛争では「便宜」を適用するだけで「善悪がはっきり」となるが、イスラエル・ハマス問題では、その歴史にまで踏み込むと「どう考えればいいのか分からない」となってしまうわけである。
林氏の書かれたことに対して、「ならば、ロシア・ウクライナ紛争では、「加害者側と被害者側とが複雑に入り組んで」いない、と言えるのか」と問う余地はあろう。
しかし、ロシア・ウクライナ紛争で一般に得られる諸情報は、それが発せられる時点で多くが「正義」のフィルターで濾過されており、そのことが問題の詳細へ議論を進める可能性を低めてしまっているように思える。
西側と日本のメディアでは大量の対ロシア批判が連日のように流されるものの、ロシア側の主張や説明は、その大部分がこれまでフェイクや誇大妄想の産物として片付けられ、まともに相手にされてはこなかった。
その状況に疑義を呈して単身ロシアへ乗り込んだ国会議員や、ロシア主催の国際会議に出席した研究者は、相手に利用されるだけだと批判を浴びる。
それが今の日本の雰囲気なのだが、そうこうしているうちにロシア・ウクライナ紛争も何時かは終結の時が来る。
その暁には、結果がロシアの完全敗北でない限り、戦後処理に関して日本を含めた西側は否応なくロシアと交渉せねばならない。
相手を知らずして、その交渉で彼らに向かって「オマエは悪だ」を連呼するしか能がなかったのなら、何かを新たに生み出せるべくもなかろう。
最近になって米英のメディアでは、ウクライナにとって手厳しいとも言える記事が出始めている。
長期戦で勝利できるのか、という疑問や、それを巡ってのウクライナ内部の見解の対立、等々。
4か月で片が付くはずだった反転攻勢が、これまでのところ不発に終わっていることが物事の流れを変え始めているかのようでもある。
これから先も、ロシア・ウクライナ紛争で正義はともかく、「便宜」が通用し続ける、と断言できるのだろうか。
冒頭で述べたゼレンスキーのイスラエル・ハマス問題への対応は、一時的な失敗で済む問題で終わらず、それはウクライナが秘かに恐れている点にまで至る導火線だった、ということになるのかもしれない。