「捨て石の作戦に動員された」
戦地:日本(硫黄島)
- [2]硫黄島05:42
- [3]地下壕構築05:44
- [4]米軍の上陸03:19
- [5]出撃 帰還せず04:12
- [6]迫る米軍03:50
- [7]壕から壕へ04:34
- [8]総攻撃の夜03:08
- [9]投降勧告03:41
- [10]ハワイの収容所へ03:00
- [11]封印してきた記憶03:20
Q.初めて硫黄島を見たときはどんな気分だったですか。
そらびっくりしましたよ。上がったとたんに、アメリカん飛行機がひっちゃい落れちょいかと思えば、日本の飛行機ばっかい、残がい、日本の飛行機ばっかいやったです。ホントに…勝った勝ったちゅうけど、日本は負けちょっとじゃこら、思ったですよね。あらゆるところに飛行機が落ちて、残がいになっちょるわけ。それで、空襲があっても、日本の飛行機は3機か4機おったかな、飛び出て、空襲が終わるまで戻っちゃ来んたっで、どこかへ退避を、どっか行った。ほて、空襲が終わって、1時間ぐらいしてから帰って来おった。飛行機も。
Q.島も、大きな島じゃないですよね。
もうホントに、東海岸から西海岸ちゅあ、どひこかかいかな(どれ位かな)、2キロあったかな、細長い島やっでな。
Q.最初そん船から島を見たときは、どう思ったですか?
こん所に来んなならんとかち、小まんか島で、沖からよう見えおったでな。そしてそこで、上陸して、上がったとたんに水もないし、食料もないし、ほんに、海岸に行けばなんとか、波でこう、くぼんだとこが、そこに雨水がたまっておった。そういうのを飲みおったですよね。上行けば、人家の跡があったり、タンクが掘ってあってな、雨水をためたり、そこ行って、水をくんで来て飲みおったです。わたしなんかは、断がいでこうしたとこへ、サトウキビ、葉っぱを取ってな、わたしは若いうちからああいうことは好きやったもんで、かやぶきみたいにこう斜めに屋根を張って、その断がいに、自分で入るだけの、体が入るだけの穴を掘って防空壕(ごう)、そこにおったです。「空襲」ちゅた時は、そこん中にいて、飯食って、ころころっち転べや穴ん中行く。うちもちった横着っ坊やったっじゃけども。晩に夜通し空襲やっで、空襲警報ちおらべ(叫べ)ば、もう行かんこっも多かった。誰か言っかせたっじゃいが、「笹峯や、壕ん中け入らん」。ほで、外い来ちょっせえ、「笹峯、笹峯」ち叫っと。ほで、返事せんこちゃ済まん。外から返事すれや、「ないごて避難せんとか」怒られおったで。
向こうにも小さな飛行場があったもんですからね、そこを、やっぱい確保するために、死守したんじゃろうなかろうかち、わたしは後から考えた。何の得ない島じゃない、バナナでんいっぱいあっとこならあよ、何にもなか島じゃ。ほであすこい空港があって、あひこが基地なれば、また日本が危ないちゅうとこで、大本営があっこへやったんじゃろと思いますが。
ま、日本の応援隊も全然来ないし、飛行機も、空襲警報があっても全然飛行機も来ない。アメリカん飛行機ばっかいやったで。ほいで、半端、日本な負けちょったいかもよち、こう、友達同士で語いおったですよ。飛行機は来てん、向かっていく飛行機がいない。たまにおったけど、飛行機同士の弾の速さがな、機銃掃射の弾の速さが、アメリカんとと日本の、半分も出らん。音が分かる。ホントに、わたしは、機関銃、軽機関銃やったですから、すぐ分かっとです。上で、よう聞こえちょるわけじゃ、機銃の音が。ほで、「こわ確かに日本なダメじゃいが」ち、いうこちゃもう、戦争前から分かっちょったですね。その残がいを見たら、なおさらのこと。
行ったとたんにそういう、食料でん十分あればな、衰弱もせんとやけど、やっぱい、飲んも食もしないで、一所懸命働かんないかんかったわけやっで。
Q.持ってきた食料とか、そういうのはすぐなくなったわけですか。
持って行くちゅっても、米がどんくらいやったかな、茶碗、湯のみ一杯ぐらいやったかな、そんくらいのもんやったでや。ほで、1日の配給も湯のみで半分ぐらいずつ、まわりおったです。そいで飯ごうで炊いてな、食べた。
Q.湯のみ一杯で1合ですもんね。
湯のみで半分、有いか無かやったかもな。
Q.しかし当時、「こいで戦争をせえちゅうのかよ」ち、思わんかったですか。
思うもないも、そいが常識みたいな、兵隊やもう、そういうもんじゃったです。どこ行ってもな。
草の葉を取ってきたり、何にも、食べるもんなかったですよね。パパイヤの木まで倒してきて、切ってきて、皮をむいてな、中だけきれいして、柔らかいところ、あれを食べおった。
Q.みんながパパイヤを食べれば無くなるわけですよね。
しまいにゃなくなってな、サトウキビを、空襲ん時は飛行機を見て、・・・食べおったですよ。何でも、沖縄ん辺のサトウキビも、横に寝っちょっでな、こんなとがずーっと。そいが一番美味しいところやっでや。風が強いもんだから、倒れて。
Q.壕掘りはもう、長く暇がいったわけですよね。
何十日かかったかしらんけどな、戦争が始まってからもう、ずっと壕掘り。上あがって行った人も、自分だけ入るたこつぼち言おったですけど、人間が入がないひこ穴を掘わんこてな、外て出ちょはならんわけですね。
もう力はないし、水もないし、食料もろくにないあれだったですからね、もう、やっぱい若い兵隊は、うちなんか分隊は、37、8の召集兵が半分、参って、みんなやせて、栄養失調でな、仕事はしやならん衆ばっかい。ほで、そげな衆を相手にわたしも自分なりに一生懸命しごったわけじゃ。そえな衆のくせ、上官から見止められて、早よ戦死をさすいごっ、「いらん」ち、「こげな兵隊はいらん」ちゅこっで、特別に危ないところへ遣られて、まあ、こげんこと言うていかんかもしれんどんな、そげな世の中やったでや。こっちを、牧園の有村ちゅともおったですから、38ぐらいの、召集で来たとが、第二国民兵ち、召集で来たわけですよね、もう兵隊が足らんじ、ほとんどが民間のあいで、召集で。
Q.そん当時は、物資は全然届かんかったわけですよね。
(補給は)いやもう全然(ない)。船が来んとですよね。来れば、荷揚げ作業に行かんなならんかったですけど、何にも来ないし、来もならんわけやっで、潜水艦がずっと回っちょいわけやっで。
Q.米一粒、来ないと。
水も一滴もないし。「水の一滴は血の一滴」ち、言われてたですね。ホントに、雨水ばっかい飲んで、ガーゼを口にしおっせえな、口つけて飲みおった。汚れ水ばっかやったで。
Q.ガーゼを湿らして…
口にこう当ててえ、口とも水の中へ浸けて。ボウフラがおったり、ごみが入っちょったりな、それを言おったち(どう言おうと)、飲みゃならんわけですよ。
Q.米軍の船が見えた時は、笹峯さんは見ておられたわけですか。
はい、見てた。もう、いっぱいもう、そっちを見る限いずーっと、何隻も重なっちょいわけよ。小さい島やっで、そらな。
Q.見たときはどんな気分がしたですか。
びっくいしたですよ。初めて見ゆんやけんなあ。そいかあ、艦砲がひっきりなし来るわけでしょう。飛行機は飛行機でな、上から来いし。ほで、地形も変わったんじゃろ、あすこ、艦砲射撃と空爆で。
Q.米軍が来た時は、壕の中からずっと見ておられて、どれぐらい数がおったち、分からんぐらいですか。
米軍の姿も見ちゃみらんなった。わたしは。外におらんたっで。壕ん中から出いがならんなったもんじゃっで。
Q.艦砲とか空襲とか空爆ちゅうのは、どういう状況ですか、そん当時の。
ものすごい威力ですよね。そわ、爆弾の、大きな爆弾が落ちて破裂すりゃ、相当なとこまでゴミが飛んで来らわいな。もう、人間の姿は見えんひこばっかい、馬ぐらい。わたしが父島であったこと。爆弾が近くに落ちて、もう砂をいっぱいかぶってな、人間の姿じゃなかみたい。
Q.相当な穴が…
穴がぶーっち、あたいげん家が入いひこばっかいの(入りそうな)穴が空いて。
都合よく、うちなんかの壕はつぶれやせんじな、健在やったですけど、つぶれたとが多かったでしょう。そいでまあ戦死をしたり、うちなんかのほうはまあ、助かってまあ、ほで、西海岸はだいたいその直接あん衆があがって来んなったもんですから、助かったわけじゃな。1大隊の方はあっちからあがっ、東海岸の方からあがって来て、全滅されたわけですから。戦車もずーっと一緒にあがってくるわけで。
戦闘が始まって10日ぐらいたってからじゃないかね。真ん中辺で上がって来ちょったじゃなかろかい。なんか分からんけど、艦砲、爆弾の破片かないか分からんけど、辺りが真っ暗く煙でなって、見えんなったですよターッと倒れたもんですから、
Q.笹峯さんが、けがをされたときちゅうのは、恐らくその壕の近くに、ふとか爆弾が落ちたんですかね。
そうじゃち思がな。もう、音も聞こえんし、煙で充満しよったで、前も見えんしな。自分でも倒れたもんですから、当たったとたんに倒れたっじゃろ。爆風じゃったかも分からんどんな。
何か、小隊の、何かの連絡で行きおったわけ、わたしが一人。そしたら、真っ暗煙で、自分は倒れたもんじゃっで、こわいかんなったち思っせえ、立ち上がっせえ歩っみったや、歩っがないもんじゃっで、こらしもたと、小隊の壕まで行って、俺はけがをしたよち。ほで、衛生兵もわたしと同年だったもんですから、「どら、みせっみよ」ち。ここん背中から背中せえでっ。「うぇや(お前は)穴が4つ空えちょわよ」ち、「早よ養生をせんないかん」ち、それまで。包帯を巻いてもならんし、ただ、ばんそうこう引っ付けたばっかいで、壕ん中け入っちょった。鉄砲も握やならし、何にもしやならん。飯は若い人が作ってな、くれおったばっ。
Q.1大隊がもう全滅じゃとか、やられたちゅう話は・・・
聞いた。聞いて、応援に、2大隊が行ったわけよ、元気な衆ばっかい。うちの6中隊もほで、元気な衆は全部出て行ったわけ。もう1大隊が全滅したから。
Q.笹峯さんはそん時は…
ケガをしおったもんで、行かんちよかった。ほで、まあ、今で言えば、ないごて(なぜなのか)やっとか、連れて行かんかったわけやっでね。隠れいいひこばっかいやったでや。黙っせえな。言えば、やっぱい、わたしが聞かんじ、付いて行かせんかち思たわけじゃっどんから。
Q.つまり、その、笹峯さんには言わんようにしてみんな・・・
そういう点があったんじゃないかち思うがな。黙って行ったでや。
今夜、最後の攻撃じゃつっせえ、壕ん中で食事をいっぱい炊いてよ、ふとか釜で炊いて、一個小隊食べるだけの、明日と昼の分まで飯ごうに詰めてやっでや。飯ごういっぱい詰めて、ほて、それを食べんで出て行ったでやな、最後の攻撃やち。そで、戻って来やせん。けが人が4、5人どま居やせんかったかな、戦争に、上へ上がい行っがならん衆が。待っちょっどん、待っつけやならじ、戻っちゃ来んなった。
あとから聞いてみたら、もう上がって行った兵隊も全滅です。
Q.2大隊は、だいたい西海岸におったちゅうことですけど、上陸をしてきてから、しばらくしてから米軍が来たわけですね。
戦争(上陸)が始まってから、やっぱい(やはり)どっか、2週間以上経ってからじゃせんどかい。西海岸まで来たのはな。
Q.笹峯さんが近くに米兵が来たのは、目で実際見いやったですか。
見てない。まだ、見たことなかった。壕は入っちょってな、けがをした人ばっかい、海岸の、自然にこうできた壕、そこい一番最後、残ったでや。10人ばっかい入っちょったんじゃないかな。ここいアメリカん衆が上から、ガスを投ん込たいすっどん、小まんか穴やっでそら、効き目はなかったけど、そゆ、小銃でこっちから、あっけ居っつこっが分かっおったで、撃ったこっがあっでや。壕ん上。今度は、昼かあ、艦砲でそん穴を目掛け、物すごい、そん壕が奥まで回っちょい壕やったで、今もあいじゃがな、そこ入っちょったで。で、まあ助かったけどな。艦砲は、そん穴を目掛け来たでや。大丈夫やったどんな。
Q.結局、米軍はなんかそこに日本兵が居ると分かれば、集中攻撃するわけですか。
そこを集中して来いわけよ。ほんの、残った兵隊ばっかいじゃったどん、けが人ばっかいじゃった。
いやもう、腐れてな、なんか、虫が出来てお、こうすりゃ、ゴロンゴロン落ちおったよ。シラミか、シラミが。ホント惨めやったいな…
Q.ある人は、傷にウジがわいて…
ウジがわいたわけよ。ここ辺のずっとはって歩く、あいが、ウジがな。汚いちゅは思ちょはならなった。そいでよいなこっじゃったわけ。砂をつけて、うみが出てよ、温いところやっでな。
Q.薬ちゅう薬はないわけですよね。
薬はなかったわけさ。ほいでもう、なんか、ふんどし、人が履いちょったふんどしん布やないやらで、うみを取ったりな、しおった。
Q.亡くなった人のふんどしを取って…
はい。何にもなかたっでやな。
Q.ウジがつけば痛いもんですか。
痛くは…かゆいわけよな。触れば、ゴロンゴロンすったっで、ウジや。ホントに惨めやったいな…
Q.移動をするちゅは、夜に移動するわけですか。
そう。ほで、やっぱい幾分か、前の人が食べた残りがやっぱいな、壕へ入れば、あいもん(有るもの)ですよ。乾パンの残りやっとか。ほで、食料は結構、食ぶひこ(分)はあったですよ。
Q.そうすると、移って行く間にいくつも壕を尋ね尋ね行くわけですよね。その壕は空っぽやわけですか。
空っぽやいわけよな。みんなが連れ行たっくえ(連れて行ってくれ)ち、泣っごっ(泣き言)言うとやっどん、連れ行っがならんわけでしょう。わたしなんか手やったで、足は大丈夫やったどん、ひざやられた人は、ホントにかわいそうで、またひざんような痛てもんない、今、考ぐればな、自分でひざが痛てが、ホントにきついですよ。ひざをちっとやられた人が、そわ、「動っがならん」ち、「どしてん、連れ行たっくれ、助くっつもいで連れ行たっくれ」ち、何度ち泣っ方で言たどん、連れ行かならんち、自分さえよいなこっじゃったっち。連れちゃ行かんかったどんな。
けが人がいっぱいおるわけよ。死がいがな、寝っちょって、ないかコロンコロンすっどちゅえば、頭がもう腐れっせえ、人ん死がいの上、寝っちょっところやった。あすこは、温い、壕ん中も温いところやっでな、ガスが出っせえ、ほいで腐れも早いわけじゃ。
Q.全然、壕の中もまた暗いから…
真っ暗やっどがな。ろうそくもないし何にもなかとこやっでや。
もう、においがな、今じゃれば入っちょはならんかもな。そん当時の、人の腐れの臭いと、硫黄の臭いとな。なんとも言われんやった。
Q.しかし真っ暗で見えんわけですよね。
見えんわけですよ。人の腐れも、どこに埋まっちょいか分からんし。もう、コロンコロン転じょいわけやっでな、死がいが。そしてそんまま、何も食べんでそんまま死んだわけ。
ほて、1回ぐらい、食料を盗いけ、水盗いけ、5人、まあ動っがない衆ばっかい5人出て、壕を破ってな、入っときゃ、壕をまたしっかり閉めんにゃいかんわけや、泥を盛って。ほて、出っときゃそれをそろーっと開かして出らんなならんわけ。壕の戸口、なんとか線を張っちょっせえ、アメリカ軍の衆が、3人、1回でやられたことがあっでや。わたしは4番目やったで助かったわけ。ほで、そういうこともあった。
Q.つまりその、壕から出ようとして…
出ようとしっせえ、ないか、こまんか針金を張っちょいわけよな、引っ掛かる。それを触った途端に爆発がそこいあって、3人いっぺんにやられたことがあってな。
Q.笹峯さんも戦友の人たちがいっぱい亡くなったと思うんですけど、そんときは涙ちゅうのは出るもんですか。
いや、涙は出なかったですね。もう、自分もいっじゃろかいち考えちょいばっかいで。涙も何にも出なかったです。
もう、いっじゃろかい、いつ死ぬじゃろか、そいことばっかい。怖さちゅうのはなかったですよね。
生き残りばっかい、一番頭ん北ん方せえ上がっせえな、師団本部の壕に入っちょっち聞いたもんですから、どしてんこわ、追っかけっ行かんこてよち、いく晩かかかって、けが人ばっかい、追いついたわけじゃ、向こうの、師団本部の壕にな。ほたら、入り口で「ないごて来たか」。「部隊やおらんごっなっせえ、追っかけっ来たっじゃ」ち言うどん、そん幹部ん人は聞かんじ、「ここは来っ所いじゃね」(来る所じゃない)ち、「また出っ行け」(出て行け)ち言やっでや。ほどんけがをし、何もできもせん、仕方なしそこん、真っ暗した壕に入っちょった。
Q.師団の司令部に、本部に行った時ちゅは、師団の壕はどんな状況だったんですか。
もう、そいこそ元気な兵隊はいなかったよ、もう。全部、出ちょったわけやっで。その(総攻撃の)晩に、あたしなんかは、たまたま着いたわけじゃいな。もう、夕方全部出て行って、元気な兵隊は全部。
Q.最後の総攻撃の時にちょうど笹峯さんなんか、師団に…
そうやったわけですよね。うちなんかの中隊もそこい一緒にいって、一緒出たんじゃせんのか。
Q.2大隊とか、連隊本部がですね…笹峯さんは、2大隊長とか連隊長とか顔は見いやったことはないですか。
いや、全然もう、名前も忘れた。わたしばっかいやいかもしれんどん、覚えちゃおらん。
(別の)壕におったっじゃらせんかな。玉砕も何も分からんなったでや。日本の報道で、やっぱい、そえなふうになったっじゃらせんどかい。3月の17日か、の、あれで、玉砕やったと。全員戦死。ほいで、遺骨も戻っちゃ来んて、磯浜の砂で、あれしたっじゃちゅはせんけ。遺骨代わりに。
壕の中で、二世の衆が、日本の二世の衆が、アメリカん兵隊にないおっせえ、「日本な負けたよ、もう出っ来やんや、もうここで難儀をしおいよっかん、十分に食べ物も水もいっぱいあっで出っ来やい」ち、何度かち言われた。何回も、一日何回も来てせえ言う。出やせんやったけどな。そい、分かいこちゃ分かい、日本な負けたちゅうこちゃ。全滅じゃったで。
Q.言われた時はどういうお気持ちだったですか。
日本の応援に来なったゆうこっが分かった。
あらゆる木に、バナナん木やっとかパパイヤん木に、「応援頼む、応援頼む」つこばっかい書いてお、あいしちょったけど、応援が一つも来なかったもんじゃっでな、そいから、もう、なるほど、日本な力はなかとやと、思って。
Q.木にぶら下げてあるわけですか。
いや、字を書くわけ。応援頼むち。書いちゃったわけ。せつなかったわけじゃろな。
Q.兵隊さんたちが最期に書いたちゅうことですか。
Q.最後、米軍に見つかった時ちゅうのは、どういう状況だったんですか。
毎日毎日、壕ん戸口からマイクで。ガスを入れたりな。「出っこんなガスを入るっど」ち、一時、避けちょれよち、ガスを充満さす。奥い毛布をおっかぶせ、しゃごんじょれば、一時じゃいごったどんな。死ぬようなこちゃなか。薄いガスやったじゃいかな。
Q.煙が出るわけですか。
はい。充満しおって、前も見えんよな、あいやったよな。
Q.壕の中ちゅうのは、昼間はちった光がさすわけですか。
いや、光は全然なかと。
Q.壕の中にどかどか米軍が5、6人入ってきたと、米兵がですね、アメリカ兵が。そん時ゃ向こうは銃を構えてるわけですか。
はい、銃をみんな持っせえな、構えて。ま、自分の身を守るためやったかもな。
Q.そん時は、どういう気持ちだったですか。
やあもう、仕方がねえやと思って、みんなあきらめじゃち。殺されるときゃ殺さるっでええやっち、そひこんこっ(それだけのこと)じゃった。
Q.刃向うちゅて、刃向うものも無いわけですよね。
何もないしな、手りゅう弾なんか一つは持っちょったけど、何じゃい鉄砲も持っちゃおらんし、何もなかったわけじゃ。
Q.すぐ壕から引っ張りだされて、そのまま船に載せられたわけですか。
はい。なんかこう、たまり場ちゅうのはなかったいな、硫黄島には。またそげな場所じゃなかもんな。壕しかなかわけやっでな。
Q.そん時はもう笹峯さんもやせてあれしてたんでしょうね。
ええとな、46キロ。やせてたですから。
Q.元は何キロばっかいあいやったんですか。
鹿児島おっときは61キロばっかいあったどんな。
ハワイ行ったら、今、ええとな、何ちゅう島かな、アメリカで言えば、なんかこう、孤島で、収容所ない、悪るいことした衆の入っとこいの収容所やってで、一っの島いないおっで、そこい入れられたんじゃな。もうあらゆるとこいから、何百人ち来ちょったよな。南方ん辺から、沖縄、どこそこからずっと、捕まった衆が来とったですよ。海軍も船でやられて浮かっちょったとこ捕まえたち、そういう衆も多かった。
Q.しかし、捕虜になれば殺されるち言われおったわけですよね。
ほんとよね。たら、ホントにてねん(丁重に)されっせえ、まあ、後ゃ俺なんだ、日本に売られっせえ、お金を取っとやいかもよちいうこっばっかい考えよったよな。元気させおっせえ、日本に売い考えやっとやち。ほどん、そえなこっもなかった。却って、お金をもろたいな。1日どひこか手当てがあったちな、捕虜の。300ドルばっかいじゃなかったか。そん時のドルの価値が、15円。4000円ばっかいもろたで、帰る時ゃ。
Q.当時の4000円ちゅは、相当なお金ですよね。
そん当時、日本な4000円ちゅは、ほんのこてな、ホッコホッコやったですよ。終戦当時やっでな。今、100円ばっかいやっどん。あたんどが帰っ時ゃ、15円じゃったでや。
Q.最初、笹峯さんが実家に帰って来られた時ゃ、どういう、あいだったですか。
そいだけなかしたどん、やっぱい、あっちこち戻っ来い時期やったもんじゃっで、木佐貫の人なんか、あたいよっか1か月ばっかい先戻って来ちょった。誰かが連絡しっせえ、あたいも元気しよっち、分かっちょったっじゃな。
Q.しかし笹峯さん、今、振り返ってみてですよ、それこそあの硫黄島の戦争ちゅうのに意味はあったですかね。
わたしは無かったち思うな。苦労ばっかいして、ホントに、人権を無視して、あげな島へやらしてよ、何にもやったことはなかった。死に損じゃっち思うな。大てこっの、2万人かあ、犠牲になっちょったい、兵隊の衆が。ほんに無駄死にやっち、あたしはそげん考えじゃ。苦労ばっかいやったで。
捨て石やな。犠牲になっただけじゃ。ほで、こげな話、わたしは今まではすごとはなかったわけじゃ。ホントにバカらしいやと思て。何じゃいなっちゃおらん事じゃったで。
Q.溝辺でも、硫黄島で亡くなってる方がいらっしゃいますよね。
おひと(おおいい)、おひと。ほで、戻っ来たとき、なんとかちゅう人や、わたしなんかん中隊で、同じ中隊じゃった。家族と会うたことがあって。で、妙な面をされ、語いをしやったで、そいぎい、会おごっもなか。
ま、捕虜になっせえ戻っ来た人じゃっちゅうひこばっかい軽べつしたような物ごとじゃったやな、そいぎい(それっきり)。我ぇ、どひこばっかい難儀をしっせえ、苦労して来たか分からん。
Q.戦後、戦争のことは語らんかったちゅうのは、やっぱい、どういうあれで語ろごちゃなかったですか。
いや、そら、わたしは、戦争でなんじゃならんなったちゅうこと考えて、我うえ傷したばっかいのことで、何じゃ得るところはなかった。ほでもう、一切忘れよう、思うたわけ。忘れようち思っせえ戻ってきたわけ。ほで、何年しても語ろごちゃねし、手柄話もならんしな、語らんちことやな。
クレジット
- 番組名
- [証言記録 兵士たちの戦争]硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~
- 収録年月日
- 2010年5月25日
証言者プロフィール
笹峯 光雄さん
- 1923年
- 鹿児島県姶良郡溝辺村に生まれる
- 1943年
- 歩兵第145連隊に入隊
- 1944年
- 硫黄島の戦いに参加 第二大隊六中隊上等兵
- 1947年
- 浦賀にて復員
- 農業を営む
出来事の背景
【硫黄島 地下壕に倒れた精鋭部隊 ~鹿児島県 陸軍歩兵第145連隊~】
東京から南へ1250キロ、太平洋に浮かぶ硫黄島。太平洋戦争終盤、周囲22キロの、この小さな島で米軍6万人と日本軍2万1千人が激突。1ヶ月に渡り戦闘が行われた。
昭和19年(1944年)、米軍は、サイパン・グアムを相次いで占領し、日本本土への空襲に向け長距離爆撃機B29を配備した。爆撃ルートの中間に位置する硫黄島は、重要な航空拠点として攻防の焦点となった。
硫黄島を守る日本軍守備隊の最高指揮官、栗林忠道(ただみち)陸軍中将は、米軍の上陸に備え全長18キロに及ぶ地下壕を網の目のように張り巡らせ、
全島を要塞化。米軍を持久戦に引きずり込む戦略をとった。守備隊は総員2万1千人で多くは、戦争末期の兵員不足で急遽召集された3、40代の兵士や少年兵だった。その中で、20代の現役兵を中心に鹿児島で編成された陸軍歩兵第145連隊は「栗林の虎の子」とも呼ばれる精鋭部隊で、激戦が予想される地点に配備された。
昭和20年2月16日、早朝。米軍は攻撃を開始。三昼夜に及ぶ砲爆撃の後、3万の米海兵隊が上陸を始めた。待ち構えていた日本軍は一斉に反撃し、5日間で硫黄島を占領できると考えていた米軍に大きな犠牲を強いた。
しかし、米軍は圧倒的な火力を投入し日本軍の陣地を一つ一つ制圧していった。上陸からおよそ1ヶ月後に日本軍守備隊の組織的な戦闘は終わったが、兵士たちはその後も武器や水、食料が底を突く中、死者や負傷者で埋め尽くされた地下壕で壮絶な持久戦を続けた。硫黄島の日本軍守備隊2万1千人のうち、生きて島を出られたのは千人あまりだった。
昭和43年(1968年)、硫黄島は日本に返還された。多くの遺骨が今も収集されぬまま地下壕に眠っている。



















