見返りを求めない
昼のバラエティ番組『笑っていいとも!』でお茶の間の人気者になったギニア出身のオスマン・サンコンさん(74歳)は、初めて来日してから半世紀以上が過ぎた。
「本当は有名人になるつもりもなかったし、日本でずっと暮らすとも思っていませんでした。だって、ギニアの外務省の職員として来日しただけでしたから。それがひょんなことでテレビの仕事をするようになり、それなりにおカネがもらえたので、貧しい祖国ギニアのために自分は何ができるのかを考えるようになったんです。
当初は衣類などをギニアに送る手伝いをしていましたが、'00年からは自分でも毎年ギニアに文房具やランドセルを持っていく活動を続けています。'06年にはギニアにサンコン小学校を作ることもできました」
サンコンさんの慈善活動は、ギニアだけに留まらない。日本で受けた恩を、日本にどう返すかも考えている。
「僕は3月11日生まれということもあり、東日本大震災のときには、相撲の尾車親方と力士と一緒に被災地へ行って炊き出しをしました。'16年の熊本地震のときもアニキと慕う故・千葉真一さんと一緒に被災地で炊き出しをしたんです。
『男はつらいよ』の寅さんが教えてくれた『義理と人情』という言葉が大好き。人はやはり持ちつ持たれつですね。
日本でテレビに出られて、ラッキーだった。だから、どうやって世間に恩返しをするか、今もそれしか考えていないよ。だっていつか人は死んでいくから。死んでしまえば、集めた物やおカネは持っていけない。だから何か将来のためになるものを残していきたい」
浜松医療センターの感染症内科医、矢野邦夫さん(68歳)は、今も感染症治療の第一線で活躍する。新型コロナウイルスが猛威を振るった当初、命を賭して治療に当たった。矢野さんが言う。
「新型コロナが流行し始めた当時、横浜に寄港したクルーズ船で、集団感染が発生しましたよね。その患者が浜松医療センターに運ばれてきて、私が主治医になりました。そのときに感じたのは、感染すると自分の生命が危なくなるということ。そして家族が差別されるのではないかということも頭をよぎりました。当時は治療薬もワクチンもなかったですからね。
感染する可能性は当然あります。しかし、誰かが患者を診なければいけません。自分が一番近いところにいる以上、私がやらないと患者さんが困ると思って感染症治療に従事しています。
当時、中学校の生徒さんから温かい手紙をもらって、苦しい時期を乗り越える心の支えになりました。紙1枚の短いものでしたけど、涙が出るほどうれしかった」
けして見返りを求めてはいけない。年を取ってから人のために生きることは、実に清々しいことなのだ。