完了しました
中学時代の「オール1」から一転、大学院にまで進み、物理学の研究に没頭した宮本さん。30代半ばにして、教師になり、母校の高校に戻ることを決断する。
「名古屋大学では、大学院にも進み、素粒子の研究に打ち込みました。忙しくも充実した日々を送り、研究者になりたいと考えていました。ただ、徐々に気持ちに変化が出てきて……。いつしか、自分を生かせる職業は『教師』なのではないのかと思い始めます。小中学校では、つらい経験をしましたが、そこから学んだこともたくさんあります。学校が大嫌いで勉強ができない子どもの気持ちも人一倍分かる。そして、なによりも学ぶ楽しさや夢を持つことの大切さを教えてもらった母校に恩返しがしたいと考えたのです」
教壇で宮本さんは、生徒に学ぶ意味をこう伝えてきた。
「私の経験から、学ぶことの重要なポイントは、目標を持ち、そこに向かって努力するところにあると思っています。目的もなく勉強することは苦痛以外のなにものでもありません。ささやかな目標であっても、それが自分にとって価値あるものならば、それを見つけただけでも素晴らしい。さらにその目標に向かって努力することは、この上なく尊いことです。そして、その目標を達成させるための努力こそが、私は『学ぶ』ことだと思っています」
幸せになれるチャンスは必ずやってくる
劇的な人生を支えてくれたのは「人との出会い」。なかでも妻には感謝してもしきれない。
「中高生の皆さんは、多感な時期で、さまざまな悩みや苦しみに遭遇することがあるでしょう。私も人生でたくさんの壁にぶつかってきました。いじめや落ちこぼれ、両親との死別や社会の荒波……。それらはとても厳しくつらいものでした。ただ、どん底にいても、『夢』や『希望』を捨てなければ、幸せになれるチャンスは必ずやってくる。その機会をくれたのは『人との出会い』でした。特に九九の言えない時から献身的に支えてくれた妻の存在がなければ、今の私はなかったでしょう」
現在は講演会などで自身の体験を伝える活動を続けている。
「長男が生まれつき心臓病を患い、次男には知的障害を伴う自閉症がありました。感情のコントロールが苦手で、言葉によるコミュニケーションはほとんどできません。そのため、私か妻のどちらかが面倒をみる必要がありました。どちらも働いていましたが、育児や家事は私のほうが得意。それならばと、学校を退職して“主夫”になることにしました。
コロナ禍では自宅にいる時間が長くなり、炊事、洗濯、掃除などがより一層板についてきました。おかげさまで長男は大学生になり、20歳になった次男も日中は福祉施設で働けるまでになりました。障害を持つ次男のおかげで気付けたこともたくさんあります。
人間の究極の目的は『幸せ』になること。誰も不幸になるために生きているわけではありません。私は10代で、人生のどん底を経験しましたが、今は胸を張って言えます。とても幸せです、と」(聞き手・浜田喜将)
プロフィル
みやもと・まさはる 1969年1月4日生まれ、愛知県出身。中学1年で「オール1」の成績表をもらう。16歳で母親、18歳で父親を亡くし、天涯孤独の身に。23歳でアインシュタインの相対性理論に出会い、猛勉強の末、24歳で私立豊川高校の定時制に入学。27歳で名古屋大学理学部に合格する。36歳で豊川高校の教師となり、現在は退職して講演活動などを行っている。