ゴヲスト・パレヱド:Re

橘寝蕾花(きつねらいか)

プロローグ

 蝉の鳴き声とお坊さんの低く起伏のない読経が響いている。ジリジリと下界を焼く太陽光が、海沿いの葬儀場に無遠慮に降り注いでいた。

 自分を庇って死んだ母が、乗用車と電柱の間でプレスされた瞬間を七歳の漆宮燈真しのみやとうまははっきりと見ていた。


 燈真を突き飛ばした手が、何かを求めるように空を掻いて、次の瞬間千切れ飛んだ。母だったものは肉片と骨片と臓物の塊と化した後、炎上したバッテリーエンジンに巻き込まれ、右手を残して消失した。

 車を運転していたやつがどうなったか知らない。知りたくもない。もし生きていたら、燈真は鬼となってそいつを喰い殺しに行くだろう。

 思い出すと、胃がじくじくと痛み出す。母が死んでからというもの、ろくに物を食べられない。無理矢理に食べても、すぐに吐いてしまう。


 燈真は虚無的に、母の遺影を眺めていた。

 日本人らしからぬ白髪の美人。着ているのは春物のカーディガン。三十二歳で他界してしまった。ほかならない、自分のせいで。


 何もかもがどうでも良かった。死にたいとか、生きたいとかじゃない。ただどうでもよかった。あらゆる行いに意味を見出せなかった。

 燈真は周りの静止を無視して葬儀場を出て、裸足のまま歩き出した。

 近くの川を上流に向かって歩き、木々が生い茂る小さな森に入る。


 蝉の声が乱反射する。去年父と捕まえたカブトムシを入れていた虫かごのような、濃い緑の匂いがする。川のせせらぎが笑い声のように聞こえる。

 近づいてくる足音に気づかず、燈真はそばに寄り添う大きな白い狐に、息を呑んだ。


 尻尾は五本。耳と尾の先端は紫色。

 優しげな紫色の目を細め、燈真に優しく頭を預ける。

 なぜかわからないが、涙が止まらなくなった。一度泣き出すとせきを切ったように涙と声が溢れ出した。


「賢くなくても、強くなくてもいい。生きなさい、懸命に」


 狐はそう言って、燈真を包み込んだ。

 もふもふした毛皮が心地よくて、燈真はそのまま意識を睡夢の世界に預けた。


×


「お前がやったことはわかっているんだ。早く言え、楽になるぞ」


 警察署の、猫の額ほどしかない取調室に燈真は軟禁されていた。

 角刈りのガタイの良い刑事が、バン、と机を叩く。


「お前がやったんだろう」


 燈真の顔には青痣がいくつかあり、口が切れているのか血を垂らしている。

 彼の反抗的な目が気に食わないのか、刑事が喉元を掴んだ。


「なんだ、その目は」


 ちらり、と燈真の目が部屋の隅に向いた。

 刑事もそれに気づく。視線の先にあるのは監視カメラだ。


「可視化法なんて期待するなよ。婦女暴行……性犯罪だ。未成年だろうと許されることじゃない」

「だからっ、俺はやってない!」

「なら誰がやったんだ、ああ?」

石塚いしづかだ! 石塚清十郎いしづかせいじゅうろうがやったんだよ!」


 燈真の訴えに、刑事は笑い出した。


「石塚特等のお孫さんだろう? する理由がない」


 すげない返答に、燈真は権力の犬め、と吐き捨てたくなった。

 そこに、気忙しいノックの音が響く。


「なんだ?」

「それが…………」


 やってきた制服の警官が短く耳打ちした。

 刑事は何事か思案したのち、すぐさま掌を返した。


「君の取り調べは終わりだ。後日お詫びに謝罪に向かうとしよう」

「な——ふざけんなよ!」

「これ以上噛み付くなら公務執行妨害になるぞ」

「……くそっ」


 燈真は殴り飛ばしたい気持ちを抑え、それを必死に堪えた。


「よろしい。送ってあげなさい」

「いらねえよ。歩いて帰る」


 こちらに同情的な婦警が声をかけてきたが、十六歳の少年とは思えぬ眼力で睨みつけ、押し除けた。

 燈真は畜生、と吐き捨てて警察署を出て行った。


 家に着くと、先んじてやってきていた警察と恰幅のいい老紳士が、父とその再婚相手と何か話し合っていた。

 燈真が近づくと老紳士がやけにぎらついた鋭い目を投げてよこし、父に向かって「それでは、漆宮博士」と言って去っていく。

 父の漆宮孝之たかゆきは義母を家に入れ、燈真に向き直った。

 再婚してからというもの、燈真は父親と全く喋っていない。父も燈真も互いに言葉を無くしてしまい、会話する機会を失っていた。


「燈真。魅雲村みくもむらというところに、母さんが生前世話になった家がある。稲尾さんと言ってな。そこで少し体を休めたらどうだ」

「それは、勘当するってことか?」

「違う。それは……」


 燈真は手を伸ばしてくる父を振り払った。


「好きにしろよ。どうせ俺に選択肢はないんだろ」


 父は何か言いたそうだったが、燈真は玄関のドアに手をかけて、それから最後に、


「母さんのことなんて、とっくに忘れてるもんだと思ったよ」


 そう言い放った。

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ゴヲスト・パレヱド:Re 橘寝蕾花(きつねらいか) @RaikaRRRR89

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