第2話 旅の支度と夜の刺客

 この能州塔螺島のすとらとうは、極東とも極西とも言える土地にある。レイジの故郷の数倍の面積には遥か昔より移住してきた多くの民が独自の文化圏を築き、そしてこの島でのみ通じる能州語を使用する。

 レイジは島に来るにあたって七年、言語の勉強をした。今年で二十四になる彼は、十五の夏に師匠の病を知り、ひたすらに治す術を探した。

 現代医療では治せない病——臓器が徐々に壊死していくそれ。レイジは言霊師としての支援金と、彼女の貯金を使って高額な医療費を払って延命していたが、それももう長くは持たない。

 一刻も早く目的を達成せねば、大切な人が死んでしまう。

 その焦りを諌めたのもまた師匠であるが……。


 それはそうとして、現在レイジがいるのは島の西。そこはニシノモリ地方と呼ばれ、文字通り西の森を中心に開拓された地域だ。

 レイジは漁村で一泊することになっていた。初めからその予定だったのだ。

 差し当たって必要な物資をここで揃えるためにも、一夜はここで明かすことになる。レイジは船着場の喧騒を潜り抜け、物々交換に対応してくれる店で持ち込んだ貴金属やらと旅道具を交換した。


 特に厳しい関税があるわけではないが、凶器の持ち込みは禁止であるため、レイジはこの村で数打ち物の刀を一振り購入した。

 保存食、飲料水、それらを運ぶ角の生えた馬ともいうべき幻獣、快馬ゾイロスを一頭買う。

 おかげで手持ちの貴金属類はだいぶ叩いてしまったが、構わなかった。というか、足りたのが意外だった。おそらくはシーウルフ撃退が功を奏したのだろう。おかげで行く先々でその話をされ、やや食傷気味になってしまったが。


 残った貴金属類を買い取ってくれる店で現金に変えると、レイジは適当な宿に入った。馬留めにゾイロスを入れ、背中を撫でて「明日から頼む」と声をかけてやる。幻獣のゾイロスも、普通の馬も賢い。いや、動物自体、人が思う以上に賢い。案外、自分が馬鹿にされていることや大切にされていることを敏感に感じ取るものだ。


「いらっしゃい」


 年増の女妖怪がそう出迎える。女将というより娼婦という出立ちだが、宿が娼館を兼ねていることもあるという。

 レイジが暮らしていた国に比べるとずいぶん時代錯誤的なのだが、島の文明水準は地域ごとに大きく異なる。慣れていくしかない。


「一泊」

「噂の言霊師さん? した方がいいかしら」


 犬妖怪の女は柴犬のような耳を指で擦りながら聞いてきた。レイジは「いらん」とすげなく断る。


「素泊まり五〇〇〇蕗貨ろっか。気が変わってサービスをつけるなら一万」


 レイジは黙って一〇〇〇蕗貨硬貨を五枚置いた。

 女将はつまらなさそうに鼻を鳴らし、鍵をよこす。鋳鉄の、簡単にピッキングされそうな鍵穴なんだろうなと思いながら受け取った。


「二階の角部屋よ」

「どうも。男なら、俺を乗せてきた船頭がいい。歳は食ってるが、なかなか元気そうなおっさんだった」

「そう。ありがとう」


 売ったわけではない。船頭自身が船旅中、セックスレスでどうのこうのと愚痴っていたのだ。レイジは未婚だからその話題に興味がないし、みだりに強く意識して言葉を発すると、それが己の因子に適合した単語であれば言霊になるため無言を貫いていた。

 会話のコツは、言いたいことだけ言うのではなく適度に相手を立てて気分を良くさせることだ。それもまた、師匠の教えである。言葉の力で苦労する言霊師は、実際レイジのように無愛想なタイプか饒舌で会話上手なタイプかに大別されるものだ。


 二階の奥、角部屋に向かった。部屋は向かって右側に並んでいる。レイジは鍵穴にキーを突っ込み、捻った。部屋の中は殺風景なものだった。クローゼットとベッド、机と椅子が一セット。部屋自体も猫の額のように狭い。

 レイジは荷物をベッド脇に置いて、ベッドシーツに腰を下ろした。安宿相応の、ボロいパイプベッドだ。やけに軋る。

 背嚢の中から、レイジは古びた装丁の文庫本を取り出した。灰色の表紙には何も書かれていない。


『言葉の力は無限である。言葉の数だけ力がある。破壊をもたらす言葉もあれば、創造をもたらす言葉もある。死滅を導く言葉もあれば、癒しに導く言葉もある』

「癒しに、導く言葉……」


 それがあれば、師匠の病も治せるのか……?

 繰り返しそのページだけ読んでいて、手垢で黄ばんでいる。レイジは角が擦り切れて丸くなった本を背嚢に突っ込んだ。

 外は夕暮れどきである。軽く仮眠してから、晩飯を食おう。

 ゆっくりと目蓋を落とし、レイジはさざなみのように迫ってくる睡魔に身を委ねた。


×


 ガサガサと何かを漁る音が聞こえた。

 レイジは跳ね起きるようにして薄っぺらい毛布を跳ね除ける。外はすっかり暗く、仮眠のつもりが熟睡であったことに気づいた。


「あんた、何してる」


 捲れ上がった毛布の中にいた女将に、レイジは問いただした。

 彼女はレイジの袴の帯に手をかけていたのだ。バレても慌てず、生地越しにペニスを揉みしだきながらしなだれかかってくる。


「言霊の力は遺伝する。それくらい、島民はみんな知ってる。言霊師になればこの島の富をわずかでも得られるんだ。将来安泰だよ。なあ、一発くらいいいだろ?」


 それか。

 レイジに言い寄る女の目的は、これか、金だった。

 頭に来る。好きで欲した力ではないのに、そんなものを欲しがるなんて。ましてそんなもののために愛や親子の絆を利用するなんて。

 レイジは女将を押し退け、帯を締め直した。荷物を背負う。


「ま、待ってくれよ。女をほてらせておいてそんな……」

「静かにしてくれ。イラつく」

「なあ、後生だ。一夜を共にするくらい——」


 右手が蛇のように動いた。飛びかかるようにして女将の首を締め上げ、万力のような力を加える。

 人間ではなく半妖だ。その筋力は、超人めいている。たちまち女将の顔は赤黒くそまっていき、両手でレイジの腕を掴み、足をばたつかせる。


 危うく失禁しかけるところでレイジは彼女を離し、放り出した。情けなく乳房を露出させている年増の女将は、逆上して腰の短剣を抜いた。

 息も絶え絶え、喘ぐように呼吸して「きあぇぇええええええええ!」と叫びながら短剣を突き出してくる。


「このアマ……!」


 レイジは素早く身を捻って直撃を回避した。女将は姿勢を崩しかけたが壁に手をついてこちらに向き直り、血走った目で短剣を構え直す。

 咄嗟に腰の刀を抜いて、切り掛かってきた女将の動きに合わせてカウンターの一太刀を浴びせた。

 加減はした。

 血飛沫が上がり、女将が倒れる。腕で上半身を支えながら起き上がった彼女の顔には、斜めに切り傷が走り、それなりに整っていた面を血で真っ赤に染めていた。


「ぐぅ……この……」

「まだやるか。次は急所を狙う」


 低く脅すと、女将は黙って短剣を置いた。

 レイジは血振りをして肘口で刀身を拭うと、鞘に納めて歩き出す。

 宿には他にも客がいるかもしれない。鉢合わせては面倒だ。

 レイジは窓から外へ飛び降りた。深夜なのか、人は出歩いてはいない。まばらに歩いているのは夜の住民である妖怪だろう。

 たったままうつらうつらと眠っているゾイロスを起こし、鞍に跨った。


「悪いな。予定が早まった。行くぞ」


 ぶるる、と鳴いて、ゾイロスは歩き出した。

 手綱を握って快馬かいば(ゾイロスのことだ)を歩かせ、レイジは村の門までやってきた。半分寝ていた守衛の男はオーク族で、「あれ、あんた言霊師だろ? こんな時間から出るのかい?」と聞いてきた。

 レイジは頷いて、


「予定が詰まってる。それに、夜明けまで時間もないだろう」


 と、時間がわかっていないが適当なことを言った。夜明けまでの時間云々は、職業によって変わる。八時から始業の一般企業と、夜明け前から航海に出る漁師では朝の概念が違うのだ。


「ああ、もう四時だもんな。……どうぞ、通っていいよ」

「ありがとう」


 しれっと嘘に嘘を重ね、レイジは村を出た。

 二度と戻ってくるものかと思いながら、帰りは別の港から出ようと心に誓って。

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