【練習作】シン:ゴヲスト・パレヱド

橘寝蕾花(きつねらいか)

第1話

★シン:ゴヲスト・パレヱド


★あらすじ

 家に代々伝わる葛篭。

 それを開けてはならないと言われていた平凡な男子高校生の遠野頼人は、興味本位で蔵にあった葛篭を開けてしまう。


 出てきたのは葛篭女(つづらめ)という妖怪の葛篭姫。

 彼女は長らく現世に出られなかった恨みを晴らさんと頼人の中に棲家を移し、その肉体を乗っ取ろうとするが、あろうことか頼人の生まれ持った妖気を掌握できず困惑する。


 出ようにも出られなくなった葛篭姫と、何が起こったかわからない頼人。ただ一つ言えるのは、二心同体とも言える状態になってしまったということだった。


 葛篭姫はどうにか頼人を乗っ取ろうと画策し、頼人は彼女を別の器に移すための方法を探る。そんなある日、彼らは怪しい女から声をかけられる。

 そいつは圧倒的な妖力を求めて行動する違法術師の『呪術師』で——?



★本編



【壱】葛籠



プロローグ



 家には決して開けてはならない葛篭つづらがある。葛篭とはツヅラフジのツルから作ったカゴ状の収納ことで、現代でも職人が手ずから作っていることもあるが、ここにあるのは違う。

 遠野頼人とおのらいとは、この家にある開かずの葛篭が、少なくとも恵戸えど時代初期から存在することを知っていた。

 この裡辺皇国を統べていた、徳河とくがわ将軍の時代である。もう、五〇〇年近くも昔のことだ。


 家の蔵にある葛篭の前で、頼人は喉を鳴らした。

 きっとこの中には、お宝が眠っているに違いない。死んだ曾祖父さんの話では、この葛篭は天下の徳河将軍から拝領したものであるらしく、それこそ大判小判がじゃらじゃらと入っているだろう。

 そのうちの一枚でもあれば、やつらを——。


「あ、開けるぞ」


 頼人は誰に聞かせるでもなく、言った。変声期が終わって低くなった十六歳の声音。目は黒、髪の毛も黒。平凡な外見であった。

 身につけているのは学校帰りなので制服だ。まだ九月なので夏服である。半袖のカッターシャツは、姉がアイロンをきかせてくれているのでシワがない。

 その姉や、父を心配させないためにも禁を破らねばならないのだ。


 頼人は意を決し、葛篭の蓋を開いた。

 葛篭の中には——何も入っていない。隅から隅まで見るが、貼り付けられた和紙が黄ばんでいるだけで、なんら特徴はない。何か書いてあったのか、家紋のようなものが見られたが判別できなかった。

 遠野家は昔名のある武士の家系であったらしく、詳しくはわからないが徳河将軍にも重用されていたらしい。それが、今の屋敷の広さにつながっているのだろうか。この家は昔からリフォームを繰り返して住んでいる、年代物だ。

 だからこういう骨董品はいくらでもあるが、拍子抜けだった。


「なんだよ、空っぽじゃんかよ。やっぱただの脅し文句——」


 そのとき、空気がずっしりと重たくなった。

 頼人は何だと思った。蔵の電球が明滅し、後ろで扉の鍵ががこんと落ちる音がする。


「な——」


 まずい。なにか、触れてはならないものに触れた。

 妖怪や精霊、神秘。それらが実在し、共存する現代とはいえ、中には人間に害をなす者は一定数いる。頼人が通う学校でも、それらから身を守るための簡単な強化術や結界術を教えていた。


「ちくしょうっ!」


 頼人は咄嗟に刀印を作って、結界を張った。直後、空っぽの葛篭から溢れ出した黒紫色の妖気が襲いかかってくる。

 それは物理的な力を伴っていた。確かな衝撃が、結界を介して頼人の右手にフィードバックされる。

 二度目の激突、結界にヒビが入った。


「——?」

「なんだ……?」


 黒紫の妖気はまるで疑問を抱くように一瞬動きを止めた。

 今だと思って、頼人はドアに駆け寄る。慌てて鍵を開けようとしたが、まるで錆びついたように錠前は動かない。


「くそッ、この——うわぁっ!」


 妖気が頼人を取り囲んでいた。慌てて結界を形成しようとするが、両腕を妖気に固定される。


「若造、貴様……いい、今はいい。このままでは妾が消えてしまう!」

「な、なんだよお前……っ」

「その肉体、貰い受けるぞ!」


 妖気が頼人の口、鼻、耳から入り込んだ。ずるずるとコンセントを掃除機に引き戻すように、蔵を覆っていた妖気は頼人に全て吸い込まれていった。

 凄まじいエネルギー——妖力の奔流に、頼人はくらくらとふらついた。壁に寄りかかり、周りのものを撒き散らしながらなんとか踏ん張る。


「なんっ、なんだよ……!」

「ほう……妾を取り込んでもなお意識があるか。だが結果は変わらん。この肉体を——……ッ⁉︎」


 一瞬、右手がびくんと跳ねた。それが頼人の首を絞めようとしてきたので、左手で押さえ込む。


「くっそ……! やめろっ!」

「どういうことだ……?」


 右腕が暴れる——というと、中学生特有の自意識過剰な精神的偏向を忘れられない痛いやつだが、本当にそうなのだから仕方ない。

 段ボールや屑籠を巻き込みながら腕が暴れ、頼人は必死に抑える。


「この……っ、やめろっ!」


 頼人は右手に噛みついた。


「ぎゃあっ! 貴様っ——この糞餓鬼、妾に噛み付くな! なぜだ、おかしい——なぜ乗っ取れんのだ!」


 すると頼人の右肩のあたりから、女がずるりと出てくる。幽霊のようになっている下半身と、実態を伴う上半身。


「うおでっか……」


 女は白無垢姿なのだが、胸が——バカにでかい。冗談抜きでLカップ——七キロ以上ありそうな胸である。

 肌は白っぽく、髪は漆黒。そして、目は海のように青い。


「何を見惚れておるこの助平が。おい貴様、妾に何をした」

「……葛篭を開けただけだよ」

「そんなことは阿呆でもわかるわ。忌々しい……貴様の妖気のせいだな? ちっ、まあ娑婆に出られただけ感謝しておくか」


 なんなんだろう、このムッチリムチムチの、多分妖怪であろう女は。


「…………。……俺は、遠野頼人。あんたは?」

葛篭姫つづらひめ。若造、葛篭女つづらめという妖怪は知っておるか」

「葛篭の中に入って、開けた人を驚かす妖怪だろ。あんたがそれだってのか?」

「いかにも。格が違いすぎるがな。今はお前という葛篭の中に入っておる、そういう解釈でいい。しかし妾の力を持ってしても餓鬼一人乗っ取れんとはな」


 葛篭姫はそう言って、忌々しげに口を歪める。せっかくの備忘が台無しだ。

 と、


「頼人ぉ? 蔵でなにやってんの? 家系図ならお父さんの部屋にあったわよー」

「やばい姉さんだ。葛篭姫、俺が葛篭を開けたことは内緒にしといてくれ」

「なぜ」

「どんな恐ろしい目に合うかわからないからだよ。頼む。なんとか分離できる方法を見つけるから」

「分離? 違うな、妾の器を探せ。あの声の主でも構わんが……」

「ダメだ! 姉さんなんだぞ!」


 つい、声が大きくなってしまった。


「誰かいるの? ひょっとして彼女でもできた? まっ、真っ最中とか……?」

「ちっ、違う! 上からものが落ちてきたんだ! すぐに家に戻る!」

「ふぅん。じゃあリビングにいるからね」


 遠ざかっていく足音。葛篭姫がほくそ笑む。


「貴様の弱点だな。まあよい。妾の器を見つけた上で分離せよ。それが条件だ」

「わかった、応じる」

「よろしい。契約成立だ」


 こうして、一人の少年と謎多き葛篭女妖怪の契約は成った。

 葛篭姫とは何者なのか、なぜ彼女は頼人を乗っ取れなかったのか——。


 彼らの行く末に、何が待つのか。

 それはまだ、誰も知らないことだ。



第1章 呪い


第1話 人を呪わば



 世暦二〇八二年——芽黎がれい一〇四年。九月十日、木曜日。

 七海ななみ県立青浜あおはま高等学校。

 遠野頼人が通う公立高校である。その普通科一年二組の教室は、若者特有の汗と男臭さと、制汗スプレーと香水の匂いでごった返し、渾然一体とした何ともいえない臭気になっていた。

 その教室に入るなり、葛篭姫が心の中で「なんて匂いだ。鼻が曲がる」と呻いた。

 頼人もそれには同意だが、答えない。葛篭姫のことは一切合切秘密なのだ。


「おはよう」


 挨拶をする。と、まばらに返事が返ってくるどころか、全員から無視された。

 頼人はいつものことなので気にしないが、葛篭姫は「礼儀知らずどもめ」と吐き捨てた。


(みんな、俺とは会話したくないんだよ)


 と、頼人は心の中で言った。意識して葛篭姫に話しかけるふうにして胸のうちで独白すると、会話が成立する。それは憑依一日目にして知った事実だった。

 昨日の今日で学校というのも勘弁願いたかったが、具合も悪くないのに急に休んだら怪しまれると思って登校した。家族に悟られてはまずいし、学校から怪しまれるのも面倒である。

 頼人は背負ってきたリュックから予習のため持ち帰った教科書とノートを机に入れ、そのまま突っ伏す。


(なぜ誰も若造と話したくないのだ)

(俺がいじめられてるから。目ぇつけられたくないんだよ)

(いじめ? 洒落臭しゃらくさい。そんなの力でねじ伏せれば良い。どっちが上かわからせればいいではないか)

(そう簡単じゃないんだよ)


 妖怪は実力主義者が多い。なんらかの結果を出せば認められるのだ。そしてその結果とは、暴力的な直接対決であることも認められている。

 力を得た妖怪は同時に賢くなり、組織を運営したり下の者を育成したりもするが、そうした力ある妖怪がそれを振るうことがないわけではないのだ。

 面子に関わる場面とあれば、彼らは容赦なく立ち上がる。部下をけしかけるなり、あるいは自ら手を下すのである。

 どうも葛篭姫は武闘派らしく、なかなかにパワーで解決しようという様子が見てとれた。


(人間共は面倒だな。貴様らとの共存を選んだ妖怪の気がしれん。こんなのでは弱って日和っていくばかりだ)


 恵戸時代後期から妖怪は人間と共存を始めた。葛篭姫が恵戸初期に送られたことを考えると、彼女は共存云々の前の世代の妖怪だろうことは想像に難くない。


(暴力ゴリラめ)

(なんだと、貴様)


 頼人は吐き捨てた。

 さっさと今日が終わらないかな、と思った。返っても勉強して、それから憑依体の分離方法と霊体の器に適したものをネットで検索するだけだが。

 葛篭姫は少し特殊で、霊体でありながら微かに物理的な実態を伴っている。霧状の肉体があると言って良く、憑依というよりは寄生に近いらしいことが、昨日分かった。

 そして彼女の妖気も特異で、大抵のものを力技で乗っ取れるが、どうせならきっちり適合した素体が欲しいとのことだった。

 彼女が完全に受肉して何をするつもりかは知らないし、興味もない。知ったところで、止める術がないだろうし。


 家族にいじめの一件が露呈することが嫌な頼人は、葛篭姫のその契約に応じていた。

 父子家庭で姉と父の三人暮らし。余計なことで心配をかけたくない。まして武士の子孫がいじめられっ子など、恥ずかしい。

 頼人は色々考えて鬱屈としてきた。この先自分がどうなるかわからない。どうにでもなってしまえという投げやりな思いもある。

 早くどうにかせねばという焦り、葛篭を開けた後悔と罪悪感、いじめっ子に対する怒り——ストレスがどんどん大きくなる。


(おい、あれがいじめっ子か)


 葛篭姫がそう言った。頼人はちらっと開いたドアから入ってくる、体格のいい男子生徒と取り巻き二人を見た。

 金髪の一番デカい熊妖怪を真ん中に、細身で背が高い鎌鼬、そして人間の太った男が付き添っている。

 頼人はこくんと頷いた。


(大したことないな)

(お前にとってはな。俺にとっては違うの)

(案外そうではないかもしれんぞ)


 葛篭姫はそう言って、鼻を鳴らした。

 自信を持てと励ましてくれているのだろうか。

 と、いじめっ子の主犯格である金髪熊妖怪の熊谷謙之介くまがいけんのすけが頼人を見た。

 へばりつくようなニヤケ面で、「ついてこい」とジェスチャーする。

 頼人は奥歯を噛み締めながら席を立った。


 ああ、全く。嫌な日だ。


×


 昼休み、頼人は校舎裏に呼び出された。今朝方熊谷たちから「あとで、わかってるよな」と言われ、こうなった次第である。

 断れる状況ではなかったし、断る言葉も持ち合わせていなかった。どうにか理由をつけて逃げたかったが、うまい文句は出てこなくて今に至る。


 突然、熊谷に腹を殴られた。

 ボディブロー気味に打ち込まれた一発に、頼人はたたらを踏んで後ずさる。


 遠野家は武士の家系。その血のほかにも武術という形で、現代に遠野の教えは流れている。

 無論頼人も遠野流の武術を修めていた。けれどこんなヤンキーでもないような、ハイエナめいた連中のために力を使いたくなかった。


(気に食わんのお。どれ、恵戸の狂犬と言われた妾が拳一つで軽くひき肉にしてやるか)

(やめろっての!)


「約束の十万蕗貨ろっかは用意できたかよ」

「十万で解放してやるって約束だろ?」

「お屋敷にそれくらいのお宝の一つ二つあったろ」


(なるほど、それで葛篭を開けようと思ったわけだ)


 頼人は奥歯を噛んで耐え忍んだ。今はそうすべき時だと思っていたからだ。

 どんなに惨めでも耐えて耐えるしかない場面は、誰にだってある。それが賢い方法だからだ。だから頼人はそうした。そうせねばならないと思ったからだ。

 けれど次の瞬間、熊谷はとんでもないことを言った。


「お前がそういう態度なら、もういいや」

「え……」

「そん代わり、お前の姉貴を俺らの性奴隷にすっから」

「いいねえそれ!」

「最高じゃん! 最初っからそうしときゃよかったぜ!」


 熊谷たちが下卑笑い声を上げた。

 怒りが沸々と込み上げてきて、拳が白くなるまで握りしめられる。

 耐えろ、と理性が言い続けた。とにかくじっとしていろ、こいつらにそんな度胸はないと——。


「弟のせいで犯されてるんだぜって言ったら、どんな顔すっかな」


 その瞬間、頼人の中で何かが弾け飛んだ。

 右拳が目にも留まらぬ速度で振るわれ、熊谷の鼻っ柱をへし折った。ゴッ、と鈍い音がして、熊谷が仰反る。


「け、謙之——」


 鎌鼬の取り巻きの股間を思い切り蹴り上げると、そいつは白目を剥いて口から吐瀉物をぶちまけて悶絶。

「お、おい待て!」と慌てる人間の腰巾着の喉に貫手を打ち込んだ。「ぐえっ」と潰れた蛙のような悲鳴を漏らし、昏倒する。

 一方的にブチのめした三人の前で、頼人は静かに言った。


「家族を巻き込むな。次ふざけたこと抜かしたら、ぶち殺す」


 冷たい鋭い刃を突きつけられたような感覚に陥り、三人は黙り込んだ。


 言った。言ってしまった。そしてやってしまった。


(妥当な撃退だな。お優しいことだ、首の一つへし折ってやればいいものを)

(捕まるのが葛篭姫だけならそうしてもいいけどね)


 しかしただ一人、熊谷謙之助はいいようにやられたことに逆上していた。

 踵を返してくるりと背を向けた頼人に、熊谷は右手で刀印を結ぶと妖力を練り上げる。青い妖力球を形成し、それを無防備な頼人の背中に打ち込んだ。

 下手すれば肉が吹き飛んで失血死、あるいはショック死を免れないような力任せの威力である。


 頼人が気配に気づいた時、遅かった。


「な——」


 しかし。


(貸し一つだ、若造)


 頼人の右腕が勝手にブンッと動き、黒紫色の妖気を纏って妖力球を弾き飛ばし、霧散させていた。

 驚いたのは頼人だけではない。熊谷も、呻きながらことの次第を見ていた二人の取り巻きもだった。


(口を借りる)


 葛篭姫が頼人の口を一時的に動かした。代わりに、右腕が自由になる。呆然とする頼人は、手で口を押さえ止めることを忘れていた。


「餓鬼ども、次ふざけた真似をすれば挽肉にする。二度は言わんぞ、いいな」


 ぞく、と背筋が粟立った。まるで背骨の中を氷のナイフが滑っていったような感覚である。

 口の違和感が去り、頼人は遅ればせながら葛篭姫が勝手に喋ったのだと悟って何か取り繕おうとしたが、(よせ、脅しは充分だ。黙って去れ)と当妖とうにんに言われ、言われた通りにした。


 校舎裏から出てばくばくなる心臓を押さえつけながら、午後の授業が始まる美術室に戻る。

 予鈴がなってもあの三人は現れず、本鈴が鳴っても同じだった。クラスメイトが「いつもの三馬鹿こないじゃん」とか「所詮金持ちのドラ息子なんだ、高校なんて遊びなんだろ」とか話している。

 頼人は黙っていた。自分が反撃し、あまつさえ黙らせたからとはいえない。


 武術を使うなと厳しく言われているわけではない。むしろ、身を守るため、人を守るためなら積極的に使えとすら言われている。

 でもあんな底辺の糞野郎なんかに、武士の技を使いたくなかったのだ。けれど今日はカッとなってしまった。


 眼鏡をかけたハーフエルフの美術教師が、女性特有の落ち着いた高い声で「今日は目の前のリンゴを素描デッサンしましょう」と言った。

 美術部ではない頼人にはデッサンとスケッチの違いがわからないが、この同じ高校で三年生の美術部だった姉が言うには、デッサンとはモチーフ描く力よりも見る力を養うカリキュラムであるという。

 そんなことを言われても、さっぱりだ。


 頼人は淡々と、手にした鉛筆の何種類かとパンの耳きれ、練り消しを手に画用紙に体を向ける。

 クラスメイトが各々リンゴを描き出してしばらくしてから、例の三人がやってきた。顔が腫れ上がる彼らに周りがざわめき、美術教師が心配するが「うっせーんだよ」と彼らは吐き捨て、席につくとそのまま突っ伏して寝てしまった。


 あれが高校に入ってから五ヶ月もの間頼人を苦しめてきた男たちの末路だと思うと、惨めなように思えて、素直な感想として「ざまあみろ」と思ってしまった。

 人を呪うのは、たとえ心の中でも良くないことだと直後に思い至り、出来上がった画用紙の中のモチーフが歪んでいることが妙に気になった。



第2話 VSコンビニ強盗



 学校が終わり、頼人は高校の敷地を出て青浜市の街を歩いていた。

 青浜川という大きな運河の岸と海に面している青浜市は、海産物で有名な都市だ。頼人は屋台でサラダ天という野菜と魚のすり身を練ったものを購入し、はんぺんのようなそれをかじった。玉ねぎのシャキシャキした食感が程よいアクセントになっていて、頼人はこれがお気に入りだった。


(少し見ないうちに人の世はだいぶ様変わりしたな)

(葛篭姫が箱に入れられたのは徳河将軍の時代の最初の頃だろ? 五〇〇年も経てば、そりゃあな)

(人間どもの進歩の速度には呆れるな。お主らの欲は止まることを知らん)

(葛篭姫も食えればよかったんだけどな)


 そう言うと、頼人の口が勝手に動いてはんぺんをかじり取っていった。意思とは関係なく咀嚼が始まり、味覚がいつもより鈍くなる。そうして飲み込んで、腹に溜まる感覚は同じだが……何かが違っている気がした。


(何ししたんだよ)

(口と味覚を借りた。ふん、練り物自体は知っておるが、最近のは味に色気が出ておるな。口ばかり肥えておるわ)


 いちいち偉そうなんだよなと思いつつ、頼人は残りのサラダ天を食べ切った。竹串を側のゴミ箱に入れて、街をぶらつく。

 いじめから解放された——その喜びと、そして本当に終わったのだろうか? あっけなくないか? という不安が、鎌首をもたげていた。


(男のくせにうじうじするな。胸を張って肩で風を切れ。せっかくいい体をしておるのだから)

(わかってるよ。っていうか、風呂入ってる時寝てろって言っただろ)

(お主は寝ろと言われてすぐ寝れるのか)


 頼人は遠野武闘流という武術を身に修めるにあたって、幼い頃から鍛えている。実際に喧嘩をすれば、熊谷程度瞬殺だが、元々の穏やかで争いをあまり好まない気質がナヨナヨした雰囲気を醸し出してしまい、ナメられるきっかけとなってしまったのだ。

 なのでカッターシャツ一枚脱げば、その下は筋肉に張り付いたタンクトップが一枚、ぴっちり食い込んでいる。顔立ちも、髪の毛をもう少しどうにかすれば女性から声をかけられるだろう。今はなんというか、もったりしたたぬきのような印象が拭えない。本来は狐的な、ワイルドな外見にもなりそうなのだが。


(若造、あれはなんだ)


 ぐん、と右手が動いた。指し示したのはなんてことない、ただのコンビニ。


(コンビニ。八百屋とか画材屋とか、薬屋とかお菓子屋とか、氷屋とか……なんか色々一緒になってまとめたようなところ)

(面白そうだな。入れ)

(何も買うもんないんだけど)

(いいからいくぞ)


 五〇〇年ぶりの現世。葛篭姫は楽しみで仕方ないらしい。まあ、頼人にも勝手に葛篭を開けた責任がある。付き合える範囲なら付き合ってもいいだろう。

 横断歩道や信号機、車にもいちいち反応する葛篭姫にあれこれ説明しながら、頼人はコンビニに入った。

 鹿角を生やした、服を着るのに難儀しそうな鹿妖怪が挨拶して出迎えてくれる。彼らはファスナーやボタンで前開きする服を好んで着るというが、それはやはり角が理由だろうと思う。

 彼らの角は薬の材料にもなり、落ちたものを買い取る業者もいた。龍族の鱗と同じように、生きているだけでちょっと小遣いをもらえるのだ。


 それはさておき頼人は店内を見回った。客がまばらにいる。作業着のおじさんに、スーツ姿の女性。

 漫画——それ自体の説明は、昨日の夜した。頼人の部屋で、絵画に台詞やらをつけて物語にした本だと言ったら、興味を持っていた。

 飲み物や食べ物に関しては、容器の説明が主である。薬についても、入れ物の説明で戸惑った。


(おい、このコンドームというのはなんだ。〇・〇一? なんのことだ)

(それは俺にはまだ無縁だよ。よく知らない)

(本当か? 誤魔化してないか?)

(それよりもうよくないか? 適当に飲み物だけ買って帰ろうぜ)


 頼人はドリンクコーナーに移動した。飲み物を選んでいると、


「動くんじゃねえ! 金を出せっ!」


 突然、そんな大喝が響き渡った。

 頼人は慌てて身を低くし、棚に隠れる。


(おいなんだ今のは)

(強盗だよ、関わらない方がいい)

(止めはせんのか。お主なら止められるだろう)

(正義の味方じゃないんだよ俺は!)


「早くしろっ、手当たり次第、殺してくぞッ!」


 奥歯を噛んだ。足が震える。

 なんのために武術を学んだのかわからない。それでも、こうして弱くて情けないのが自分だ。感情的にならないと、体が動かない——。


「やかましい! その舌千切って豚の餌にしてくれるわ!」


 頼人の口が、勝手に動いていた。


(馬鹿っ!)

(うじうじするなと言ったはずだ若造。お主がナメられるということは妾が下に見られるも同然。天下の葛篭姫が下に——)

(うるさいよ! 少しは力を貸してくれるならまだしも——)


 ズカズカと、強盗の男がやってきた。

 頼人は咄嗟に棚の酒瓶を掴んで、不意打ちを決める。裏拳の要領で振るった酒瓶を、強盗は肘を立ててブロックした。

 破砕音と舞い散る焼酎。ツンと香る、アルコールの匂い。


(ほう)

(素人じゃない!)


 男がナイフを逆手に、鋭く踏み込んできた。頼人は左手の甲で相手の右手首を弾き、右手で相手の肘を押し込んでその体を肩を支点に回転させ、姿勢を崩す。

 剥き出しの左脇腹に左のレバーブローを打ち込む。間髪入れず右のアッパーカットを鳩尾へ加え、左の前蹴りで押し飛ばした。

 しかし強盗は優れた体幹と体捌きで転倒をまぬかれ、数歩たたらを踏んで踏ん張った。


「なんだ小僧、格闘技習ってんのか」

「そういうあんたこそ」

「なら、これじゃあ埒が開かねえか……邪魔さえしなきゃよかったのにな。でも、これをこなせば俺も晴れて『呪術師』だ!」


 男が刀印を結んだ。

 頼人も瞬時に刀印を結び、結界を張る。


「くそっ」


 形成された青白い膜に、相手が放った衝撃波が激突。凄まじい威力に、一撃で結界に大きなヒビが入った。

 熊谷の妖力球のような、妖力を圧縮しただけのそれとは違う。なんらかの属性が付与された、立派な妖術だ。

 衝撃の余波で商品が吹っ飛び、繰り返し男は刀印を振るった。放たれた半透明の波打つ衝撃が結界を打ち砕き、腕をクロスして顔面をガードした頼人が吹っ飛ばされ、ドリンクコーナーのドアに激突。

 ガラスが割れ、頼人の体を冷気が包み込む。


「がふっ」

(若造! 攻撃しろ、防戦一方では負けるぞ!)

(攻撃術なんて習ってないよ!)


 男が目の前でもう一度刀印を振ろうとした。

 頼人はなんとか跳ね起きて、相手にミドルキックを叩き込む。が、結界で防がれた。


(刀印に妖力を集中し、火の玉をイメージしろ。余計な効果は今はいらん。火の玉でいい)

(火の玉……)


 相手が刀印に妖力を集中。頼人も、右手の刀印に妖力を集中した。


(火の玉……!)


 振る。

 打ち出された衝撃波と、そして黒紫色の火の玉。鬼火のようなそれが激突し、相殺された。


「何っ⁉︎」

「はぁっ、はぁ……」


 頼人は初めて使った攻撃術に、緊張と疲労で口の中がカラカラに乾き始めていた。

 その様子を見て勝ちを確信する男だったが、そのとき——。


 コンビニに、ひんやりと冷気が満ちた。それはドリンクコーナーから漏れるものではない。

 直後、パキパキと男の靴が凍る。


「なんだっ、この——」


 そこへ、刀を手にした青髪の男が現れた。素早くそれを強盗の首筋に擬する。


「動くな。動けば首を落とす」


 ゾッとするほどの美貌の、鬼男。その後ろから白装束の、青白い肌に水色の髪をした雪女が現れた。


「子供の前ですよ。怖がらせるべきではありませんわ」


 雪女がうっそりと微笑むが、その微笑みも底冷えするほどに恐ろしいものだった。

 頼人は内心で、退魔師だ、と呟いた。


(退魔師……)


 葛篭姫が反芻はんすうし、それから頼人は気が抜けたようにその場にへたり込んだ。

 雪女がそばにやってきて、額にひんやりする手を当ててくれる。


「ひどくほてっておりますわね。舞呑ぶてん様、救護班の用意をしてよろしいでしょうか。妖力疲労ですわ」

「構わん。ついでに車も二台呼べ。こいつを牢に打ち込む。そっちのガキも、様子を見て事情聴取だ」


(若造、わかっておるな)

(余計なことは言わないよ)


 頼人は厄介なことになったと思いながら、息も絶え絶えにそう応じた。


×


「ご家族には連絡をしておきましたわ。心配なさっていましたが、治療のおかげで回復したと伝えたら安堵しておられました」


 風吹小雪ふぶきこゆきという雪女がそう言って、ベッドに上体を起こした状態でスポーツ飲料を飲んでいる頼人に行った。


(汗みたいな水だな)

(やめろこら)


 デリカシーのない葛篭姫の言葉が脳に響く。小雪が小首を傾げたが、頼人は「すみません、まだぼーっとしていて」と答えた。

 こちらの目を介して何かを見るように、小雪がじっと瞳を覗き込んできた。頼人はバレるんじゃないかと一瞬思ったが、努めて平常心を維持した。

 しばらくして小雪は微笑んで、「妖力疲労は、もう心配ありませんわね」と頷く。


「遠野さん、わたくしの上司から言伝を一つ預かっておりまして」

「……なんでしょう」

「退魔師になられてみるつもりはありませんか?」

「えっ、退魔師ですか」


 唐突なスカウトに、頼人は言葉を失った。

 退魔師といえば先ほどのような呪術師や、魍魎もうりょうという怪物と戦う仕事をする術師のことを指す。

 身の危険はあるが、それ以上に実入りがよく、術師にとっては憧れの職業だ。

 けれど頼人は退魔師になるために攻撃術を使ったわけではない。あの場を切り抜ける咄嗟の判断だった。


(退魔師になれば情報が得られるやもしれんぞ)

(それって虎穴にいらずんばってやつだろ。下手したら、葛篭姫が除霊されるんじゃない?)

(妾の心配か?)

(まさか。後遺症の心配だよ。恨まれても怖いし)


 頼人はしばらく考えた。リスクはあるが、リターンも多い。危ない綱渡りになる。だが、


「すみません、流石に高校生をしながら退魔師っていうのは、ちょっと……」

「そうですわね、二足の草鞋は困難でしょう。……こちら、名刺です。気が変わったらご連絡ください」


 小雪が一枚の名刺を差し出してきた。そこには加賀美健二郎という名が躍っている。


「では、しばらくしたらご家族がお迎えに来るそうなので、安静にしていてください」

「わかりました。色々、ありがとうございます」


 頼人はそう言って、枕に頭を預けた。


×


「くそっ、くそっ」


 熊谷謙之助は苛立っていた。

 日がどっぷり沈んだ街を歩いて、空き缶を蹴飛ばす。

 その缶が、一人の女の足に当たった。こちらを振り返った赤い目の女は、やや青白い肌を月明かりに晒して薄く微笑む。

 控えめに言って、驚くほどの美女だった。


「いい具合に淀んだ目……あなた、力が欲しくない?」

「あァ?」

「復讐したい相手は、誰かいないかしら」

「…………っ」


 それは、悪魔の誘い。

 乗るべきではないと理性ではわかっている。だが、感情が振り切れていた。


「いい子」


 女は醜怪に微笑み、手招いた。

 熊谷はその誘いに乗って、そして夜の闇に消えていった。



第3話 呪い



 父の車の中で、頼人は夜景を眺めていた。

 むっつり押し黙っている空気がなんとも重苦しい。空気を読んでいるのか寝ているのか、葛篭姫も茶化さない。

 父の頼成らいせいは特別厳しい人ではないが、口数が多いタイプではない。寡黙で態度と背中で語るタイプの、ステロタイプな父親である。

 頼人は刑事をしている父を誇りつつも、同時に苦手としていた。

 その理由はもちろん、態度だけではないが……。


「……強盗を取っ捕まえたんだって」

「うん……」

「よくやった」

「……!」

「でも、危険なことはあんまりするんじゃない」


 スーツ姿の父はそう言って、仕事で署に籠りきりで髭が散った横顔を正面に向ける。青信号になり、父はセダンのアクセルを踏んだ。

 片側二車線道路を進む間、後部座席の姉・美頼みらいが「ずーっと心配してたんだよ、お父さん」と言い添えた。

 父はそんな態度などおくびにも出さず、ハンドルを握っている。


「頼人、今日はもう遅いから外食にしよっか」

「うん」

「お父さん、適当なところに寄って」


 姉に言われ、父は無言で頷いてハンドルを切った。車が近くのカツ丼チェーン店に入る。カツ美屋という、裡辺皇国全国展開の大手チェーンである。どこにでもあって、安定した美味しさの店。

 頼人は駐車場に停められた車から降りて、秋の色が出てき始めている夜風に深呼吸する。


「頼人、さ」


 美頼がそばに来て、そっと耳打ちする。


「葛篭、開けたでしょ」

「えっ」

「大丈夫、言ってない。……何か、入ってた?」


 素直に答えるべきか、黙っておくべきか。

 いや、ここは黙っておくべきだ。余計なことを言って、危険に巻き込みたくない。


「空っぽだった」

「そっか……お宝なんて、入ってるわけないか」


 遠野家では例の葛篭にはお宝が入っていると伝えられていた。実際持ってみると重たいし、その重みから何か価値のある物が鎮座しているのではと思われていたのだ。

 重みの正体は霧状の物理的実体を伴っていた葛篭姫という、葛篭女妖怪の女だったのだが。


「いらっしゃいませ」


 店員は、オーク族の男だった。緑色の肌で、頭部にはコブ状の角がある。

 カウンター席には、多分友好国のエルトゥーラ王国恵国の民であろう、ダークエルフの女。カフェオレ色の肌をしていて、スーツを着込んでいる。

 その女性が振り返り、父に話しかけた。


「遠野先輩、奇遇っすね」

「お疲れ様、エイミー。これから家族水入らずで食事なんだ」

「へぇ。じゃ、私は静かに食べてますね」


 どうやら彼女も警官らしい。そういえば、最近組んでいるのは新人のダークエルフだと言っていた。

 銀髪のダークエルフは頼人と美頼に手を振って、カツ丼に向き直った。こっちに来て長いのか、裡辺語にも箸の扱いにも慣れている。まあ妖怪は外見年齢以上に実年齢を重ねているから、二十代に見えても余裕で百歳を超えていたりするのだが。


 父は勝手知ったるふうに奥まった席に座った。途中で、新聞を取ることも忘れない。


「お父さん、このお店によく来てるの? 店員さんも知ってる風だった」

「……食堂の飯に飽きるとここに来る」

「えぇー、ずるいよ、私もカツ丼食べたいのに」

「お前たちは手料理を食べてなさい。子供のうちは手料理の方がいい」


 父は新聞紙の向こうでどんな顔をしているのだろう。けれど声音は明るい。機嫌が悪いわけではないようだ。

 頼成は怒っても怒鳴ったり手をあげたりしないが、その分場の空気が重くなるタイプである。

 時間は午後九時。夕食のピーク時間を過ぎていることもあって店は空いていた。まばらに客が入っている程度である。店員は二人ほど見え、一人は人間の、大学生くらいの女性だった。

 手元のタブレットに、父はカツ丼大盛りを入力する。頼人はカツ牛丼大盛り、美頼は少し迷ってからネギ盛りカツ丼大盛りをオーダーした。


「父さんは、ああいう強盗を……よく捕まえるの」

「……ああ。地味な仕事の方が多いが、俺は術師資格も持っているからな。そういう現場には駆り出される」

「頼人知ってる? うちってね、ご先祖様に狐がいるんだって」

「昔、曾祖父さんから聞いた。曾祖父さんの、父さんの代だっけ」


 高祖父母の代だ。その代の妻が妖狐で、以来遠野家の中には術師として活動する者がたびたび現れていた。頼人の母も、人間でありながら術師であったという。


(なんだ、才能がある家系だな)

(母さんも術師だったしな)

(退魔師を蹴った理由がわからん)

(学生と一緒になんて両立できないよ)


 父は新聞を折りたたんだ。

 セルフサービスの水と味噌汁をとってくるのだろう。頼人は姉に荷物を見てもらって置いて、ついていった。


「頼人」

「何、父さん」

「お前の人生を、俺がどうこういうことはできないし、そんな資格はないと自覚しているが……あの葛篭は先祖が手を焼いたものだ。いいか、助けて欲しい時はしっかり言え。そのために父さんは警官をやってるんだ」

「……うん。ごめん。でも、大丈夫だから」


 父にも見透かされていた。きっと姉も、頼人が何かを葛籠から得たことを悟っているのだろう。


 二往復して味噌汁と水を用意した頃、頼んでいたカツ丼が運ばれてきていた。

 それから久しぶりに家族三人で食事を摂った。葛篭姫は余計なことを言わず、その様子を黙って見守っていた。


×


「小雪!」

「舞呑様、確かにこちらに来ましたわ!」


 雪女の小雪と青髪の鬼の舞呑は、突如発生した異質な妖気を追って中心街から住宅街へ駆けていた。

 その妖気は異様な速度で、指向性を持ってある地点へ移動している。

 その場所とは、遠野家の屋敷。


「急げ、何が起こるかわからんぞ!」


 舞呑はそう言って、小雪と共に雑居ビルの屋上のへりを踏み締め、跳躍した。


×


 家に着いて、頼人たちはさっさと眠ることにした。父は仕事があるということで警察署に踵を返し、頼人と美頼はそれぞれ自室に戻る。

 頼人は一時間ほど霊体妖怪に関する記述を調べ、それからベッドに入った。

 時刻は午前一時。

 だんだんと眠気がやって来て、頼人の意識をかき乱していく。


 広い屋敷に姉と二人だけ。寂しい気もするが、これでも盆や正月になれば親族で賑わうのだ。

 と、ガン、ゴゴンと物音がした。

 屋根に何かが落っこちて来たような音である。

 頼人は物音を訝しみ、ベッドから起き上がった。


「なんだ……」


 窓から顔を出し、周囲を確認するがなにもな——


(若造、いかん、いかんぞ。妙な妖気が入って来ておる)

(どういうこと?)

(憎悪と呪詛の妖気だ。大き過ぎて場所を特定できん)


 一体、誰が——。


「きゃぁっ! いやっ!」


 そのとき、姉の悲鳴がした。頼人は余計な思考をかなぐり捨てる。


「姉さん!」


 部屋を飛び出し、廊下を走る。奥の美頼の部屋にノックもせずに入ると、赤黒いモヤを纏った金髪の男が、姉の首に腕を回し微笑んでいた。


「相変わらずいい女だ。よくも俺のことを振ってくれやがって」

「ぐ……このっ、あんたっ、誰よ!」

「去年いたいけな中学生が告白して来ただろう。忘れたのかよ。案外何十人とまぐわってるようなヤリマンなのか?」


 男が姉の胸を揉む。美頼がジタバタ暴れるが、無意味だった。


「てめぇ……熊谷か!」

「気づくのおせーよ」


 熊谷だと気づかなかった理由は、黄緑色だった目が赤くなっていたからだ。

 体は少し大きくなり、上背は二メートル近くになっている。彼は胸元から一粒のビー玉を取り出した。


(まずい、若造、あれを弾き飛ばせ!)

「姉さんに当たっちまう!」

(その姉がどうなってもいいのか!)


 熊谷がほくそ笑む。


「お前、やっぱなにか憑依されてんのか? まあいい、おら!」


 ビー玉を姉の胸元に押し込んだ。とぷん、と吸い込まれたそれが、姉の身体中に奇妙な呪印を浮かび上がらせる。


「ぎっ————ぁぁああああああああああああっ、あああああああああ!」

「姉さんッ! この野郎、何をした!」

「何って、復讐さ。呪ったんだよ。このアバズレの意識は、解呪するまで牢獄に幽閉される。可哀想にな」


 熊谷が姉を離した。姉が糸の切れた人形のようにくずおれる。熊谷が肩をすくめ、小馬鹿にしたように笑った。と——、

 その隙に、頼人は一気に突っ込んだ。強化術をかけ、ドロップキックを打ち込む。

 窓ガラスが吹っ飛び、熊谷が外に放り出された。頼人は裸足のまま外に出て、ガラス片を踏みつけながら右のフックを繰り出す。

 素早く左腕を立ててブロックした熊谷だったが、直後頼人が放った左の掌底が鼻に激突。が、相手は妖気を爆発させるように放って、頼人を吹っ飛ばした。


「がはっ」

(術を使え!)

「わかってる!」


 刀印を結び、頼人は火球を放った。


やるんだっけか」


 その黒紫の火球を、熊谷は腕を振るっただけで霧散させた。


「(な——)」


 頼人と葛篭姫の驚嘆が重なる。


「そら、お返しだ!」


 熊谷が刀印に妖力を集中させた。妖力球が形成される。しかしそのスピードも密度も尋常ではない。

 頼人は咄嗟に結界を張った。それも二重。


「ぶち抜いてやるよ!」


 ギュンッ——と放たれたそれが結界に激突。一枚目が無抵抗に砕け散り、二枚目で微かに拮抗。頼人はその隙に三枚目の結界を作り出した。

 二枚目が破れ、三枚目に激突。しかしそれも抵抗虚しく砕かれ、頼人の体に激突した。

 衝撃にもんどりうって吹っ飛び、松の木に激突。玉砂利の庭園に力無く倒れる。


「この程度かよ、呆気ねえなあ」


 上空。

 熊谷は素早く妖力球を発射した。空中で刀を振るってそれらを弾いたのは、舞呑。

 大上段から振り下ろされた刃を、熊谷は後ろへ飛んで回避した。妖力球で応戦し、連射されるそれを舞呑は苦しげに凌いだ。


「なんて妖力量だ」

「舞呑様、飛んで!」


 小雪の声。次の瞬間池の水が凍りつき、それが龍のようになって熊谷に突っ込んだ。

 ガシャァン、と澄んだ破砕音が響き渡る。


「手応えは?」

「抵抗されましたわ」


 氷の龍、その全身が砕け散った。

 熊谷は赤黒い妖力を纏った拳で、氷の龍を殴り砕いていたのだ。


「鬼熊の力を覚醒させたか……」

「あんたら誰? マジで邪魔なんだけど。遠野殺しに来ただけでこれかよ」

「殺させませんわ」


 熊谷はうんざり、という顔で両手を叩いた。それから両掌の間に、バスケットボール大の妖力球を形成。


「あっそ。じゃあまとめて死ね」


 狙いは、気を失っている頼人。割って入った舞呑が札を取り出し、辺りを水浸しにした。そして小雪がその水で幾重もの分厚い氷の壁を形成する。

 そして大型妖力球と氷の壁が激突し、轟音を撒き散らしながらその衝撃を振り撒いた。

 屋敷の窓という窓が割れ、玉砂利が後ろ向きに吹っ飛ぶ。

 氷の壁が八割砕かれたところで、ようやく勢いが去った。


 シンと静まり返った中庭で、舞呑は残った氷の壁から出て行って周囲を見回した。

 あたりに、あの異様な妖気はない。だいぶ遠ざかっている。


「ちっ、逃げ足の速い野郎だ」

「遠野様!」


 小雪が頼人に駆け寄った。皮膚が破れ、血が溢れ出している。

 失血死待ったなし、致死量の出血だ。


「待て小雪、様子がおかしい」

「え……あ」


 その傷が、まるでビデオを逆回しするかのように治癒していた。

 肉が沸々と泡立ち、傷口が塞がれ組織が修復されていく。


「なんなんだこいつは……」

「ひとまず、退魔局へ連絡を入れましょう。救護班を待つより、我々で運んだ方が手っ取り早いです」

「それもそうだな……」


 舞呑は小雪の提案を受け入れ、頼人を抱えた。

 人一人にしては重いが、筋肉のせいだろうか? そのまま舞呑は退魔局へと、そして小雪は屋敷の捜索にあたることにした。

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