書画・骨董
黄公望 「富春山居図」
『富春山居図』 数奇な運命を辿る
2011年、黄公望の代表作≪富春山居図≫の前部分、本来は一幅の6mもある山水画が、いつしか二分され、台湾と中国に別れ別れにあったものが、北京紫禁城の故宮博物院から台北故宮博物院に搬入され、四分の三世紀ぶりに、劇的な兄弟の再会を果たした。
中国清朝の始め、江蘇省宜興の宦官の家。この家の老人呉洪裕が臨終に際して家人が集まり最後の言葉を待っている時、呉洪裕の眼が枕元の宝箱に注がれたのを見て直ぐに理解した家人は、彼の前に画を広げると、その眼の端には涙が滲んだ。その後、最後の力を振り絞って「焼け」と一言、息を引き取った。
家人たちはこの言葉に驚いたが、敢えて反対を唱える者はいなかった。
衆人が見守る中、画は火にくべられて。まさに火が移ろうかという時に甥が飛び出して、火の中から画を取り出したが、間にあわず穴があいてしまい一大一小に分断されてしまった。
この画を描いた黄公望は、王蒙、倪瓒、呉鎮と合わせた元末四大画家の筆頭画家である。
1269年の生まれ。子供の頃から画が好きだった。
中年期に陥れられて入獄。出獄後に杭州にうつり50歳過ぎから山水画を習い始めた。大器晩成の彼が有名になったのは70歳を過ぎてから。富春山居図の完成に全生命を注ぎ、書き上げると間もなく86歳で逝去した。
富春山居図は、生前に親交が厚かった無用和尚に贈っていた。このことから後部は「無用師巻」と呼ばれる。
この画が世に出ると共に、文人たちは競って手に入れようとした。
何人もの手を経ながら、明代の有名な明末四大画家、沈周の手へと渡った。沈周は、何度も何度も繰り返し眺めては模写していた。ある時、この画に名のある人の題字が欠けいることを残念に思い、題字を書いてくれる人を求めて画をあちこちに運んでいる途中で失ってしまった。
傍が驚くほどに大声を上げて泣いた彼は、記憶を頼りに模写版を書きあげた。
この画には、自身の雅号「石田」を冠して、≪石田富春山居≫とした。
その後、民間に流伝していったこの画は、500年後の1996年。北京のオークションで北京故宮博物館が880万元の値で買い取られた。
沈周が失った富春山居は、長い間行方不明となっていたが、明代の画家薫其昌が所有していた。自身の名を収蔵者として記している。晩年になって、呉洪裕の祖父に売却した。
現存する黄公望の画は10幅余りである。
1745年、コレクション好きな乾隆帝が富春山居を手に入れたが、その後間もなく、別の富春山居に出会うことになる。先に買った物と良く似ている。仔細に調べた結果、先に購入した物が本物と判断した。
その後の100年余り誰も皇帝の鑑定を疑わなかったが、清朝が滅びてから、ある学者が異議を唱えた。
後に購入した画には焼け焦げや修復の痕跡があり、歴史的な記述と符合している。皇帝により本物とされた画は、「子明巻」と呼ばれた中国明代末の文人臨拳の手によるものであった。
清朝が滅んだ後、北京故宮博物館に収蔵された富春山居。1948年に国民党政府によって台湾に運ばれた。
前部分(剰山巻)は、清代にコレクターの間を転々とし、抗日時には画家呉湖帆の手に渡った。その後、浙江省の画家沙孟海の手に渡り、新中国成立まもなく浙江省博物館に寄贈された。
名画は、生き物のように数奇な運命を辿りながら、生き残っている。
台北國立故宮博物院の翠玉白菜
(参考)台湾の國立故宮博物院 序論 より
中華民国(台湾)は、1911年に孫文指導の革命により、1912年に清が滅び、中国国民党により、中国を統治する国家として成立しました。しかし、1949年に中国共産党(毛沢東)との内戦において、中華民国は崩壊状態となり、中華人民共和国が成立しました。中国国民党政府は台湾島に遷都し、台湾地域及び金馬地区などのみを統治する国家として再編成され、中国を統治する唯一の正統な国家としての権利を主張する二つの政府が並立する事となりました。
1971年、国際連合で中華人民共和国が「中国」の代表権を取得してからは多くの国が中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認しています。日本政府は、1972年以降は中華民国を国家として承認していないため、公式には「中華人民共和国内の台湾地域」として中華民国を扱っています。
台湾になぜ中国歴代王朝の宝物を納めた故宮博物院があるのでしょうか。故宮博物院の宝物は、宋(960年-1279年)、元(1271年-1368年)、明(1368年-1644年)、清(1616年-1912年)の中国歴代王朝の収集品で、北京の紫禁城内部に蔵されていました。
1912年、清が滅び、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立しました。孫文は、袁世凱(えんせいがい)に総統の座を譲り、袁世凱が臨時大総統職に就任します。
1916年、袁世凱は皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めるなどの独裁が始まると各地で内乱が起き、1916年に袁世凱は退位します。
1914年、紫禁城南側の外廷に古物陳列所が設置されました。
1925年、故宮博物院が発足し、紫禁城の内廷が展示場所として公開されました。城内には書画、古典籍、陶磁器、古鏡、青銅器、装飾品など100万点を超える文物が収蔵されていました。
1928年、蒋介石(しょうかいせき)が中国国民党を支持基盤とする南京国民政府を樹立します。
1933年、中華民国政府は戦火を避けるために故宮文物を列車に乗せて上海に移します。
1937年、日本と南京国民政府との間で日中戦争が勃発し、南京国民政府は重慶へ撤退します。
同年、戦火が激しくなる中、中華民国政府は故宮文物を、鉄道や自動車で転々と移動し、四川省巴川県、四川省楽山、四川省峨眉へと移します。
1938年、日本の支援によって汪兆銘((おうちょうめい)を首班とする汪兆銘・国民政府が南京に成立します。
1945年、日本は第2次世界大戦に敗北し、汪兆銘・国民政府が崩壊します。南京国民政府が国際連合に「中国」代表として加盟し、安全保障理事会における常任理事国の地位を獲得します。蒋介石が毛沢東と会談(国共首脳会談)
1947年、戦後の混乱の中、故宮文物は南京に戻ります。
同年、日本との戦いで共同戦線を組んでいた国民党と中国共産党の内戦が再開します。
1948年、劣勢となった国民党は、故宮文物を3回に分けて軍艦や商船で台湾へと搬送します。運び出された故宮文物は青銅器や書画、陶磁器、七宝などの古文物が5249点、四庫全書や経典などの図書が157,602冊、宮中当案などの文献が204箱、中央博物院の所蔵品から852箱が搬出されました。これは、北京・故宮博物院から運び出された文物の、約22%にあたるそうです。運び出された故宮文物が現在の台北・故宮博物院の根幹となっています。
1949年、ソビエト連邦からの全面的な支援を受けた共産党軍の攻撃を受け、中華民国軍が敗退。南京国民政府が崩壊状態に陥ります。蒋介石は、崩壊状態にある南京国民政府を台湾へ移転し、実効統治区域内で戒厳令を実施しました。
1965年、台湾に移された文物のために、現在地に台北・故宮博物院が建設されました。「国父」とされる孫文の字を冠して「中山博物院」とも呼ばれています。
故宮文物
故宮文物は、台北市北部の士林区にある国立故宮博物院に収蔵されていて、書画、銅器、磁器、玉細工、漆器、彫刻など、古美術品の収蔵点数は70万点に達すると言われています。
黄公望≪富春山居図≫ youtube動画へ
黄公望≪富春山居図≫ Wikipediaへ
イシコロモノローグ
イシコロは、山水画としては沈周のほうが書体、画とも好きである。
中国美術蒐集家の師匠さんからしばらくお借りして撮影したものである。
もちろん、本物(真作)ではないが、贋作とも言えない。
おそらく、同時代の、あるいは後生の画家(弟子)の模作であろう。
1523年の作だから、明の時代かもしれない。絹本で風格はある。
沈周も黄公望の作品を臨模して、石田富春山居図を完成した。
日本の雪舟よりも、はるかに威厳があり、賞玩に値する。
上海美術館に収蔵してあった画より、迫力があり、訴えるものがあった。
白泥の絹布が長すぎて、日本の普通の家屋では間に合わない。
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