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2008年9月

伊藤 鶯、いざ出陣

不思議と、昨晩はよく眠れました。

眠剤も飲まずにスゥーっと意識がもってかれました。

(死ぬ時もそうだといいけど。)

途中、何度か断眠はありましたが、結局起きたのは午前9時。

一度も母の顔を見ることはありませんでした。

それで、それでよかったのだと想います。



強迫観念を緩和してしまう働きのある、セレネース等のメジャーも切り、ただ上がらないようにテグレトールと抗不安薬のみを飲んでいます。

今日の気分は、イケそうです。

頭の中がごちゃごちゃしています。(霧がかかったよう)



無駄話はこれくらいにして、最後に私の身の上話を聴いてやってください。



私が辛いのは、暇なのに何もできない(しようとしないのかも知れない)ことです。

何処へも行くところがなく、何もすることがなく、ただ一日を布団の上で過ごす日々。

朝8時くらいに起き、夕方6時に母が仕事から帰ってくるまで、二階の寝室でひとりで、眠ることもなく、ただただ心の平安を願い、寝返りを打つ毎日。

「大学へ戻れ」「働け」誰からでもなく、どちらもまさに私の脳が私に命令することで、私はそれが耳元で煩くて仕方ありません。

それに順応できれば、まだ救われるのかも知れませんが、病んでしまった心ではついていけません。


心の病気をもっていても、工夫して、頑張って、勉学に励んでいたり働いている人は大勢います。

私の場合は、ただの甘えです。

人が汗水たらして働いたお金で飯を食い、服を買い、風呂に入り、パソコンを使い、音楽を聴き、友達と遊びに行っているわけです。

6年間のそんな生活から、いきなりバリバリ動く生活に戻れるわけがないことも解っています。


何もできない時間は、ただ忙しい時よりも遥かに辛く、心を蝕んでゆきます。



気付けばいつも、私は、母の帰りを待っていました。

私の両親は、私が小さい頃に離婚をして、私は母に引き取られたわけですが、当然働かなければ食べていけない母は、私が小さい頃もずっと働いていました。

小学校にあがると、私は学童保育に入れさせられました。

いわゆる「鍵っ子」が、学校が終わってからの数時間を仲間と一緒に遊んだり、創作活動をしたり、おやつを食べたりする場所です。

私は小さい頃から、常に物言えぬ寂しさをもっていました。

母は定年を過ぎても働く、と言っています。

私のこの寂寥感は、たとえ私がこの先を生きていっても、ずっと続いていくものです。



私はどうして、こんな病気になってしまったのでしょう。

常に強い不安感が私の心臓を突き刺します。

「病気にならなければ、前途洋洋な未来が待ってたのにね」

最近の母からの言葉です。


私は、病気になった中学3年時点の学力ならば、それなりに勉強すれば東大に入れることだって出来ました。

山のようにいた友達も、すべて失いました。(私の中学は中高一貫だったからです)

病院に通うことも、薬を飲み続けることも、苦痛でなりません。

けれど、躁うつ病ゆえに、これらは一生続くのです。

逃亡しても、ホームレスになるだけです。



また、私の摂食障害は完治はしておらず、冗長な一日の中で唯一の愉しみである食事も、自分の好きなものを食べることができません。

本当は、ご飯もパンも食べたいです。

毎日みんなのような、普通の食事がしたいです。

けれど私は、それを始めた途端にぶくぶく醜く太っていってしまいます。

体質遺伝なのです・・・。

私が158cm-42kg(人様に言えるほど痩せてもいないし)でいられる所以は、我慢に我慢を重ね続けた経過なのです。

最後にチョコレートを食べたかったけれど、最近は食欲もないので、何も食べずに死にます。


だから、排便にも人一倍気を配っていたのです。

毎日、排便をして体重計に乗るまではなにも飲食はできず、最近は深夜に腹痛で目が覚めて、トイレに走る・・・なんてことが続いていました。

それからは一睡もできず、ただ夜が明けるのを待ちました。

そんなことも、毎日お約束のように続いては、過剰なストレスとなっていたのです。



鬱のときは、無気力で衛生面が疎かになります。

体も洗えない、髪の毛も洗えない、歯も磨けない、コンタクトも入れられない、着替えもできない。

私には、もうこの体は不要に思えました。

自分で維持もできない、ただ豚のように寝転がるだけの体・・・。



それに私には、口煩い祖母がいます。

祖母はずっと家にいて、私の一挙手一投足を見張っています。

本当です、私の指先の動きにいたるまで、すべてを凝視しているのですから。

祖母の中では、まだ、私は3~4歳のガキでしょう。

この件については、母も私も、今まで何度となく注意もしたし、こちらの気持ちも伝えてきました。

けれど、何ひとつ変わったことはありません。

今日も監視、明日も監視、です。

私は病気でも、体も心も成長してきたつもりです。

これ以上の束縛は、犯罪に値すると想うくらいです。

自分の目の届く範囲にいなくなると、酷いときは1時間に何度も確認にきます。



私は、「私ってかわいそうでしょ?だから自殺するなんて騒ぎ立ててみるのよ。」なんて魂胆は、これっぽっちもありません。

ただ、最後に、私の死ぬ意義をはっきりさせておきたかっただけです。

私は、「やると言ったらやる人」(by心友)です。

これらの辛苦が、これからもずっと続くより、一瞬の勇気を以て今日で終わりにしたいと想います。



今までご贔屓にしてくださった皆様、ありがとうございました。

そして、さようなら。

もう、彼から連絡がくることもないです。

これで、やっと楽になれます。

家族のみんな、友達のみんな、知り合いのみんな、今までよくしてくれて本当にありがとう・・・。

コッコちゃん、最後の最後まで本当にありがとう。愛しています。

080905

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あっちが呼んでる・・・

昨日は、コッコちゃんとカフェ巡りをしました。

話す内容が内容なだけに、空いてるカフェを狙い撃ちして、突撃入店しました。

でもなんか、あの向かい合った席の距離感って、ちょっと大きめの声を出さないと聴こえないんだよね。

コッコちゃんは、最後まで私の生を願ってくれていて、なのに私は死ぬ話ばかりして、ちょっと悪いことをしました。

ごめんね、コッコちゃん。

きっと助かっちゃうって。こんな悪運だけのいい女。



でもね、即死したいんだよ。(だから何の話?!)

まあ、数日経ってから力尽きるのも、アリ。

病院でまたICU入って(何度目?)、たくさんの管に繋がれて最期を迎えるの。

でもまあ、それよりは救急隊が出動してきた時点で心肺停止状態が好ましいですけどね。


ずうっと頭の中でシュミレーションをしてます。

どう逝ったらいいのか・・・

そうしたら、立派な不眠症のできあがりです。

眠れる気配がないです。

きっと明日は、もっと酷いんだろうなぁ。

最後の息ある眠りだもんなぁ。

なので、眠剤を、処方量の2倍飲んでみました。

そしてクーラーがガンガンにあたるソファーでまどろんでみました。

すると・・・2時間は眠れましたが、以後起きてしまって、こうして日記の前半部分を執筆している次第でございます。



そうだ。コッコちゃんとはカフェでお酒を飲んだんですよ。

ここだけの話、コッコちゃん一応まだ未成年(笑)

半ば私が飲ませた、とも言う。

いいじゃん、19歳11ヶ月だもん。

(私のパキシルのときと一緒だ・・・17歳11ヶ月だから、と当時パキシルを出してもらえなかったのです。)

結果、コッコちゃんの方がお酒に強い!

一杯目は、苦手なグレープフルーツをベースにしたカクテルだったので(ソルティードッグ)、ほとんど飲んでいただきました。

すみませんねぇ・・・自分で頼んでおきながら。

私はちみちみ紅茶をすすっていましたよ。

そういえば私の飲んでるテグレトールって、何故かグレープフルーツジュースと飲むと、血中濃度が上がって禁忌でしたね。

そんなことは忘れて、ゴクッといってしまいましたよ。


2杯目は、コーヒー牛乳にラム酒を加えたような、甘~いお酒。

これはゴクゴクいけました。

酒も入って饒舌になり、死へのビジョンを語りだす私。

だから迷惑だっつーの。

8Fの、窓から下の景色がよく見える喫茶店でした。

でも、楽しい酒もあれば、悲しい酒もあるもので・・・。

帰宅する頃には、猛烈な不安が私の胸を襲っていました。

歩きながら、慌てて頓服(ワイパックス)を飲む私。

もうお酒は飲めない・・・飲まない・・・。

そう心に固く誓ったのでした。



2日目である今日も、コッコちゃんと遊ばせて頂きました。

一緒に、私がこの世で一番好きな食べ物である「スパゲッティ」を食べて、プリクラを撮りました。

ピカチュウの被り物をつけてみたり、相合傘してみたり・・・。

この時代300円という機種の古さにも驚愕しましたが、なかなか盛り上がった撮影でした。


間、コッコちゃんのおうちへもお邪魔しました。

そこで色々なことを、ぽつりぽつりと語りだす二人。

話が私の自殺に及んだとき、私は溢れ出る涙を堪えることができませんでした。

どうでもいいような世間話に、淡々と耳を傾けてくれるコッコちゃん。

「うん。・・・うん。」という相槌だけで、私はすごく救われたものです。

差し出してくれたティッシュで目頭を押さえ、鼻をチーンとかみ、空気をこの上ないくらいに湿っぽくした犯人は、私です・・・。


コッコちゃんは最後、私をバス停まで送るとき、別れ際に、

「鶯ちゃん、なるべく死なないでね。」

と、声を掛けてくれました。

私の自殺企図を知っている友達は、皆そうです。

みんな希死念慮が解るから、強引には引き留めないでいてくれます。



決戦は金曜日です。(肝心なところでパクるなよ)

一生の苦しみより、一瞬の苦しみです。

今のうちから読者の方に申しておきますと、きっと弱虫の伊藤 鶯は、結局死ねずに、明後日も明々後日も、こうして日記を綴るでしょう。

希望は「逝くこと」なのです。

でも正直に、正直に吐露すると、こんな者でも自ら自殺行為を執るのは怖いのです。


当日、私は10数錠の抗不安薬と、1錠のメジャーと、1錠の眠剤を服用して、作業に取り掛かります。

明日も直前に、日記を遺します。


最初にお詫びしておきます。

もし死ねなかったら、ごめんなさい。本当にごめんなさい。

私には、コッコちゃんという大切な大切な友達がいます。

他にも、「死なないで」と言ってくれる友達が、少しではありますが、います。

きっと自殺を目論む前に、その人たちの顔が走馬灯のように浮かんでは消え、浮かんでは消え、するでしょう。

私は、その人たちを裏切られるか分かりません。



すべては、明日です。

何とでも仰ってください。

「死にたい」という気持ちは変わっていません。

周囲の「死なないでほしい」という気持ちも変わっていません。

けれど私は、明日死ななくてはいけないのです。

すべての星が、明日を中心に集まっているのです。

私は弱虫ではない・・・証明したいです。


明日の自分に、幸あれ。

勇者となれ。

最後に信じられるのは、自分自身。


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世知辛い・・・

今日も早朝覚醒です。

なんだかんだやっていて、時間は遅くなってしまいましたけど、今日もナメられたもので悪夢です。

毎朝の不安感は、企図を決める以前から続いていました。

しかし、企図を決意してからの、朝起きたときの不安感というものは、どうしたものでしょう。

レキソタン2mgですっかりよくなります。(おい)

というか、最近先生が頓服にワイパックスを出したがる理由がわかってきました。

ワイパックス、下手したらレキソタンより効くかもしれません。

というより、まどろみたい気分になってくるんですね。

レキソタンは眠気が殆ど来ない分(それが特長のひとつでもあるのですが)、がっしり起きて、不安が消え去るのを「今か今か」と待つわけですが、ワイパックスで私は昼寝ができます。


それに、

「まだ私は生きていたのか・・・」というような落胆の気持ちにもさせられます。

こんな遠くに設定するんじゃなかったです。

でもチャンスはこの日しかなかったんです。

・・・明後日ですよ。

遂にこんな人間が潰える日がきます。

嬉しくて妙に血が騒ぎます。

最後の朝だけは、母に執着しません。

今までは、企図しようがしまいが、母が仕事に出掛けてしまうことに甚大なる不安を憶えて、縋っていましたが、最終日だけはレキソタンだけ飲んで、フツーに送り出します。

グッバイ、母様。



という母様は、旅行へ行くのを取り止めました。

理由は言わずもがな、鶯の不調です。

母の母、つまり母方の祖母から電話があって旅行へ行くことを伝えたところ、

「鶯の体調は?」と訊かれ、

「それがあまり良くないんだよね~」と話すと、

「じゃあ止めな。心配しながら行っても楽しくないでしょ。旅行は逃げないから。」

と、母自身も想っていたことズバリを言われ、また私も、「解約金が今なら1割で済む」と聞き、どうせ出発前に死ぬなら中止してもらおう、というわけで、旅行は延期となったのです。

私も流石に、「前日のキャンセルは、解約金が高くつくだろうな~」と心配していたのです。

これで私も安心して逝けます。

一緒に行く予定だった元同僚の方には、申し訳ないことをしてしまったけれど。

心置きなく、あっさりと、躊躇わず逝きますので。

もう覚悟は出来てます。

あとは実行に移すだけです。



そんな鶯も、昨日は最後の診察日でした。

・・・が。

身も心も凍りつきました。

「伊藤 鶯さ~ん」と名前を呼ばれると、何故か同伴していた祖父が診察室の中に入ってきて、

「今日は(孫は)何も喋れませんので。昨日までは元気だったんですけどね。」

なんて、目くるめく速さで喋りだすわ喋りだすわ。

・・・は?私が喋れない?どーゆーこと?

しかも昨日までは元気?私が母以外の人の前で、どれだけ空元気演じてるか解って言ってんのか!

こっちはれっきとした鬱だぞ、鬱!

数日後には死にゆく人間だぞ!


そんなわけで、一言ならぬ、一字も喋らせて貰えませんでした。

私自身、話したいことがあったから病院へ行ったわけです。

腹が立って仕方ありません。

「途中で割って話に入れば良いじゃん!」と想った方・・・、私はすべてを諦めてしまったのです。

「ああ、もうこの場へ来ることもないんだし、何も処方に反映されなくてもいいや・・・」と。

しかし、悔しくて、祖父に対しても先生に対しても、はたまた祖父に代言を頼んだ母に対しても、噴火寸前の心を抑えて、私は虚しく帰宅したのでした。

それからは、ただひたすらに部屋に引き篭もり。

誰も私が怒っているだなんて、気付きもしません。

へっ、私なんて結局そんな程度なんだい。



そんな荒んだ私を癒してくれたもの。

それは、アロマミストと「SEED」です。

黒田倫弘さんの「SEED」というアルバムを聴くと、何でもないことがどーでもよく思えてきます。(結局何でもないんだろうが)

きっと最後の日まで聴き続けることでしょう。

入手困難ですけどね、普通のCDショップには売っていません。

聴けば聴くほどに味の出る、するめの様なアルバムです。(例えがおかしい)

ありがとう、黒倫。

やっぱり想ってたんだ、最後に助けてくれるのは、accessでもT.M.Revolutionでもなく、マイナーな黒倫だとね。



さーて、今日も一日、予定はすっからかん。

また一日、布団の上でごろんごろんしてるのは真っ平ごめんです。

コッコちゃん、昨日誘ってくれたのに断っちゃったからなぁ・・・。

もう一度誘ってみようかなぁ・・・。

(という前に、数日風呂に入ってない鬱人間がここに。)

とりあえずメールで連絡をとってみよう。



それでは~。

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母親の勘というもの

突然ですが、私の母は、元同僚の方と、タイランドへ行く計画があります。

それも差し迫っていて、9月6日(土曜)から8日間の日程で旅行へ出掛けます。

しかし、私の調子が芳しくないので、母は旅行へ行くのを躊躇っています。

今日、旅行会社へ代金を支払いに寄る、とのことで、「本当に自分が出かけて大丈夫か?」と、昼休みにメールが届きました。



何回か確認があったのですが、私はもちろんのロン、自殺企図のことは隠して、

「私の親離れにもいい機会だし、行っておいで。」

と平静を装いました。

しかし、母は引き下がりません。

「何度も聞いてしつこいようだけど、本当に代金を支払ってきていいの?」

今日、3回目くらいの確認メールが届きました。



私は返しました。

「どういう意味?何を心配してるの?」

すると、なんと母・・・

「鶯が死んじゃいそうで・・・胸が潰れそうなんだよう」

え?えええ?

もしかして、企図がバレてる?

水面下で進めてた自殺企図が?

このブログでしか話してないのに?

やっぱりスパイがいるーーー?!!



でも私、ニヤニヤしてしまいました。

唯一の家族(戸籍上)である母が、こんな事を謂うなんて珍事です。

「虫の知らせ」ではありませんが、身内の勘ほど当たるものはない、と云います。

私は、

「よぉーっし!!これで私の自殺企図は完遂じゃあ!!!

死ねるんじゃあー!!!」

と、意気揚揚としてしまいました。

本当に鬱だったの?くらいのテンションに陥りました。


そのメールに対する、私の返信です。

「私は絶対死ぬからね、って言ってあるじゃん。」

・・・冷たい娘です。

すると母、たった一言、

「イヤだよ。」

そりゃあそうだ。・・・特に一人っ子だし。

でも私、言い切るところまで言い切ります。

「そういう病気なんだよ。

今まで何度も未遂してきたけど、私だって死ねるんだから。」

こっちも、半ば意地です。


やっと母が折れた(?)のが、このメール。

「わかってるよ・・・だから心配してるし、イヤなんだ。

少なくとも祖父母が生きてる間は悲しませないでね。」

やーなこった!パンナコッタ!(意気揚揚とし過ぎ)

なので私、

「そんなに長く、こんな辛い生活を続けていないと想うよ。」

何せ、あと1週間ですから。



大丈夫。

母が旅行に行っている最中に、日本で自殺してたりしませんから。

するなら、行く直前か、帰ってきた後。

行く直前が濃厚ですね。


昨日の私の格言、

「一生苦しむのと、一瞬苦しむのと、どちらを選びますか?」

我ながら、胸に刻んでおきます。

胸中まっさらで逝けたらいいです。



ところでこのブログ、私が死んだら誰が訃報を載せるのだろう・・・?

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先祖の皆様方

今日から、9月になってしまいました。

もう秋です。外はピーカンですけど。

今日は、ヘルメットを被ってランドセルを背負い、元気良く登校する子供たちを見て、

「ああ、そういえば今日から新学期なんだ・・・。」

と、ふと感慨に耽りました。

あの頃は、すべてがラクだったよね・・・。

小学校3年生くらいまでは、抑うつになることもなかったです。

そう考えると、もう人生半分うつなんですね。

そりゃあ死にたくなる私は、正解だ・・・。


躁うつ病って、遺伝性とまでは謂えないですが、かなり遺伝率の高い病気です。

この間、母と話していたのですが、父方の祖母が「躁鬱病」と「正常」のボーダーラインに立っているそうです。

やっぱり私は死ぬべきですね。

子孫を残す前に、さっさと自分を始末します。



「近々死のう」と決めてから、まるで景色が変わってみえます。

何でも物悲しく映ります。

一日に何度、涙を堪えているでしょう。

(ぼろぼろ泣いている時も多いですけど)

何でもないことが虚しく想えて、何故だかとても哀しくて、儚い気分で覆い尽くされます。

死にゆく自分に陶酔しているのでしょうか。

これで未遂してしまったら、世界一のアホだ・・・。

頭の中では、常時シュミレーションが続いています。



そういえば昨日は、最後の墓参に行きました。

普段はよほど無理矢理誘われないかぎりは、お墓参りになんて出向かないのですが、やはり心理的に行かざるを得ませんでした。

いつもより念入りに墓石の手入れをして、榊を挿して、母と1分間くらい手を合わせてきました。

な、長過ぎる・・・。

私はひたすらに、同じことをお祈りしていました。


「もうすぐそちらへ行きますから。

絶対に殺してください。

また変に助けないでください。

もう死にたいんです。

お願いします、お願いします。」

何度も反芻するように、ナムナムしました。

先祖の方々は、どう感じたか分かりません。

墓石の前でそんな不謹慎なことをお祈りする方も、馬鹿ですが。

でも、私が死んで、入るお墓は、そこですから。

ちょっとした予告です。

どうか私の願いを叶えてください、お願いします。


「願い」といえば、半月ほど前、左手首につけていたリリアンが切れました。

リリアンが切れると願いが叶う、というジンクスがありますよね。

そのリリアンは、2年程前に、旧友のMちゃんが作ってくれたもので、糸が頑丈に何本も縒ってあるリリアンでした。

それが切れたということは・・・?

イコール、「死にたい」という唯一無二の願いも叶うのか?

ついつい、そんな独善的なことを考えてしまいます。

まだ、運(ジンクス)は使い果たしていない筈ですから、私は今度の自殺行為にすべてを賭けます。



誰しも、自殺するには理由があります。

でも、素面では死ぬことは怖いです。

死んでしまうことは、すべての終焉を意味するのですから。

もう愛しい人にも会えないし、美味しい物も食べられないし、友達とも遊べないし、旅行へも出掛けられないし、大勢の人にショックを与えます。

それでも、あなたは死にたいですか?

自らその命を絶とうと想いますか?

私は、自身に問います。


別に、自殺企図を取り止めるわけではありません。

こんな私でも、死にゆくことを恐ろしく想います。

それほど、周囲がよくしてくれるから。

私は紛れもなく、愛されているから。



でも、決めるトコ決めないと、格好悪いし、私も救われません。

数少ないチャンスなんです。

一生苦しむのと、一瞬苦しむのと、どちらを選びますか。

すべてはこれに尽きます。



心配しなくても、一瞬の出来事です。

決断力を拾って、恐怖心を捨てて。

見事にあの世に逝ってみせます。


080901

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