平成16(2004)年
2月11日 吉野家が牛丼販売休止へ。
BSE問題で米国産牛肉の輸入が禁止されたため。牛丼から豚丼へ。
青天の霹靂 追悼=佐々木力
寄稿=野家啓一
十二月十一日の夕刻に携帯電話の着信音が鳴り、共通の友人である経済学者の半田正樹さんから佐々木さんの急逝を告げられた。余りのことに気が動転し、思わずスマホを取り落としそうになったことを覚えている。何かの間違いではないか、そうであってほしい、と一瞬思ったが、帰宅すると新著の担当編集者である竹中英俊さんからの訃報メールが入っており、動かない事実と思わざるをえなかった。
私が佐々木さんと初めて出会ったのは一九六八年前後、理学部闘争委員会の集会であったか、市中のデモの隊列のさなかであったか、いずれにせよ政治の季節の渦中のことであったと記憶する。佐々木さんは東北大学理学部数学科の大学院生、私は物理学科の学部生だった五〇年も前のことである。
当時は廣重徹の論文「問い直される科学の意味」が理学部の学生の間でも話題になっており、佐々木さんたちと語らって廣重さんを仙台にお呼びして講演会を開いたことも、今となっては懐かしい思い出である。その頃すでに、佐々木さんは「岩井洋」の筆名で東北大学新聞に健筆をふるっており、さらに『思想』一九七〇年一二月号に「近代科学の認識構造」を本名で発表され、その廣松渉ばりの文章が評判になっていた。
その後、佐々木さんは数学史へ、私は科学哲学へとそれぞれ当初の専門とは別の道を歩んだが、二度目の出会いは東京大学駒場キャンパスの科学史・科学基礎論研究室においてであった。佐々木さんは伊東俊太郎先生に、私は大森荘蔵先生に師事したが、ほどなく佐々木さんは数学史研究のため米国プリンストン大学へ旅立たれた。
三度目の出会いは、そのプリンストン大学のキャンパスである。一九七九年に私がプリンストン大学に留学した折、佐々木さんはすでに滞米四年目で博士論文の準備に余念がなかった。その頃のプリンストンには世界の科学史・科学哲学をリードする教授陣が揃っており、佐々木さんはトーマス・クーンの、私はリチャード・ローティの薫陶を受けた。
佐々木さんの学問的基盤は、このプリンストン大学歴史学科の「一週間に二〇〇〇頁」という文献ノルマに象徴される学問修行によって形作られたといってよい。彼がプリンストン大学のことを「アルマ・マテル(alma mater)」すなわち「学問的慈母(母校)」と呼ぶゆえんである。
一九八〇年に佐々木さんが東京大学教養学部講師として日本に戻られてからの活躍については、いまさら贅言を要しない。処女作『科学革命の歴史構造』(岩波書店、一九八五)に続いて上梓された『近代学問理念の誕生』(岩波書店、一九九二)はサントリー学芸賞を受賞した。これらに加えてプリンストン大学に提出した博士学位論文の日本語版『デカルトの数学思想』(東京大学出版会、二〇〇三)をもって佐々木さんは「近代科学の歴史理論三部作」と称している。この三部作は、わが国の科学史研究における金字塔と呼んで差し支えない。
もう一つ、佐々木数学史の集大成ともいえる大冊が、東大定年を前にして刊行された千頁にも及ぶ『数学史』(岩波書店、二〇一〇)である。これは古代オリエントの数学から二〇世紀の現代数学までを雄渾に描き切った通史であり、佐々木さんを措いて他の誰にもなしえない文字通りの労作である。
佐々木さんはその妥協を知らない狷介孤高の性格と行動からときに周囲と軋轢を生じ、誤解を招く面も少なからずあったが(そのうち一件の顚末については『東京大学学問論』作品社、二〇一四に詳しい)、彼の学問と向き合う真摯な姿勢と情熱、そして歴史家としてのゆるぎない矜持は、まぎれもなく本物であった。
私の見るところ、佐々木さんの最大の功績は、日本の数学史研究のレベルを一挙に国際水準にまで高めたことである。それは、国際数学史委員会執行委員など国際学会の役員を務め、幾つもの国際会議を組織し、数々の招待講演や基調講演を引き受けたことに表れている。
東大を定年退職後は、中国科学院大学から人文学院教授として招聘され、北京で四年間にわたって教鞭を執った。この中国滞在は佐々木さんの眼を中国古典に向けさせ、とりわけ『荘子』の自然観への関心を刺激することとなった。その成果の一端は『反原子力の自然哲学』(未來社、二〇一六)で披瀝されている。
二〇一六年に帰国した佐々木さんは、中部大学中部高等学術研究所の特任教授に就任した。この研究所を拠点に佐々木さんが実行委員長となって二〇一八年に開催された国際会議が「新しい科学の考え方を求めて—東アジア科学文化の未来」である。この会議には米国、中国、ヨーロッパなどから第一線の科学史家が参加し、佐々木さんの国際ネットワークの広さを示すと同時に、目標とした東西文化の対話と相互交流という企図は十分に果たされたと言ってよい。私も末席に加わったが、佐々木さんの面目躍如たる国際会議であった。
それと相前後して中部大学刊行の学術雑誌『アリーナ』第二一号(小島亮編集長)では、「学問史の世界—佐々木力と科学史・科学哲学」を特集している。これには私を含め国内外から多数の友人や同僚が寄稿しており、交々に佐々木力の「人と学問」を論じた五百頁に及ぶ大冊である。
佐々木さんはこの雑誌に「佐々木力学問への道程」と題して自叙伝の連載を始めている。私は佐々木さんにロシアの詩人エフトゥシェンコを引き合いに出して、いささか「早すぎる自叙伝」じゃないんですか、と水を向けたのだが、彼は笑って取り合わなかった。今になって思うと、私には何か佐々木さんが臨界点へ向かって生き急いでいるように思われたのである。実際、この三回連載で完結した「自叙伝」を現時点で読み直してみると、「画狂」北斎にならって自らを「学狂」と呼び、また「破門の哲学者」スピノザに自分をなぞらえるなど、一種の学問的遺書のようにも見えてくる。
その自叙伝の最終回には中部大学における最終講義「スピノザと安藤昌益の自然哲学」が併載されている。この小論の末尾を佐々木さんは次のように結んでいる。「今後、スピノザと安藤昌益両人の自然哲学を復活させて、私はメルロ=ポンティの遺志を継承したいと希望している」。
残念ながら、この希望が叶えられることはなかった。おそらく佐々木さんが幽明境を異にする瞬間に彼の念頭をよぎったのは、やり残した仕事のことであり、「無念」の一語であったに違いない。それは兄事し、伴走してきた私にとっての無念でもある。佐々木さんの学問的遺志を継承する若い世代の研究者の出現を願うばかりである。
佐々木さんの遺骨は、彼が生涯愛し続けた故郷(旧小野田町)、薬莱山麓の生家の墓に納められるという。実はコロナ禍で延期になったが、昨年秋には「第四一回東北自然保護のつどい(宮城大会)」が薬莱山麓の「やくらい林泉館」で開催され、佐々木さんはそこで「東北から発信する二一世紀の自然哲学」と題する基調講演を行う予定であった。
だが、それも今となっては実現すべくもない。佐々木さんの戒名は「瑞学院証力東教清居士」、授けてくださったのは小野田町龍川寺の大友泰司住職、彼の小・中・高校での同級生という。今はただ薬莱山の山頂へ向って佐々木力さんのご冥福を心から祈りたい。合掌。(のえ・けいいち=東北大学名誉教授・科学哲学)
佐々木力(ささき・ちから)=一九四七年、宮城県生まれ。科学史家・科学哲学者。二〇二〇年一二月四日、消化管からの出血により死去。七三歳だった。東北大学理学部および同大学院で数学を学んだあと、プリンストン大学大学院でトーマス・クーンらに科学史・科学哲学を学ぶ。Ph.D(歴史学)。一九八〇年から東京大学教養学部講師、助教授を経て、九一年から二〇一〇年まで教授。一二年から中国科学院大学教授、一六年から中部大学特任教授。著書に『科学革命の歴史構造』『数学史』『デカルトの数学思想』『マルクス主義科学論』『21世紀のマルクス主義』『二十世紀数学思想』など。最新著に『数学的真理の迷宮』。