俳句は「映え」 短歌は「エモ」 なので、理論上ギャルほど良い創作ができる。
趣味を聞かれた時に「俳句と短歌です」と答えることが多い。ある程度の知的探究心がある人なら、色々と聞いてくれて話が広がっていくが、興味のない人からすると「へー笑」で終わってしまうような趣味だ。その話をしている中で、結構な頻度で言われるのが「俺にはできない」とか「高尚だね」といったものだ。そこで私は声を大にして言うのだ。
「作ってみようや!!!」
ほとんどの人に、やんわり断られる。
そもそも、俳句や短歌とは何か。私なりの解釈をざっくりと説明すると、
俳句は写真、短歌は動画という表現をする人もいる。上に書いたように、俳句は映える写真を撮るようなものなのである。短歌もエモいストーリーをあげるようなものだ。つまりはインスタ。ギャルとの親和性は高い。(ここでのギャルとは精神的なお話) 簡単に作れるものなのである。
こうして言語化するに至ったのは、つい先日「プレバト」を観たからだ。冬のタイトル戦で、番組に数回しか出演していない森迫永依さんが優勝したのだが、その句がこちら。
初富士のめでたさや大きな存在感と、小さく儚いケセランパサランの取り合わせがすばらしい句である。青と白の対比も美しい。
この句について、森迫さんは「ケセランパサランの後ろにめでたいものがあったら映えるかな」という内容の話をしていた。彼女は見事に自らの俳句を映像として捉え、作り上げたのである。それが大切で、取り合わせとは要するに「映え」の感覚なのだ。
短歌もそんなに難しいものではない。短歌はエモさや共感が大切になってくる。Twitterで一時期バズっていた短歌を紹介する。見たことがある人も多いのではないだろうか。
エモい。微妙な無力感や悲壮感をユーモラスに描いている。そういったボヤきを適当に呟けばツイートとして終わってしまうが、音数を合わせるだけで短歌になるというわけである。日頃からエモいツイートをしているセンス系ツイッタラーの皆さん(俺がこれ言われたらムカつくから多分悪口)には、特に短歌を作ってほしいのだ。
というか、時々フォロワーの呟きをもとに短歌を作ることがある。さすがに丸パクりはしないが、着想が大事な短歌において、Twitterはアイデアの宝庫だと思う。
作るのは簡単と言ったが、俳句には基本的に季語が必要だったり、色々なルールや定石が存在する。だからプレバトでも夏井先生が添削をしている。一方で短歌は基本的には自由なので、是非ともチャレンジして欲しい。分からないことがあったら、キモい熱量を持ってお答えするので、聞いてね。
映えるものをありがたがり、エモいものを求める現代人は、それをインスタなどのSNSに載せるだけに留まりがちである。それをちょっと言語化したら文学になるのだから、世の中のギャル(精神的な)たちはみんな俳句や短歌を作って欲しい。
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