民主党の菅直人代表代行(62)の長男、源太郎(36)が暮らす京都市のアパートに5月26日深夜、突然の来客があった。岡山2区の民主前職、津村啓介(37)だった。
源太郎は過去2回の総選挙で岡山1区から立候補し、落選。今は京都精華大学4年生として、日本思想史を学ぶ。1区の落選者と2区の当選者が6畳一間で語り合った。
「また一緒にやらないか」。津村は3度目の挑戦を持ちかけた。だが、源太郎は「来春には東京で就職して結婚する」と答え、出版・調査会社の名を挙げた。
津村は「(父の)直人さんへの複雑な感情を吹っ切ったようだった」と振り返る。以前は、父をいつも強く意識しているように感じていた。
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中学で不登校になった源太郎は大検に合格後、「子どもの権利条約」の批准を求めるNGO活動に取り組んだ。政治家にと見込んだのは、直人の元秘書で、岡山市議の羽場頼三郎(60)だった。
「息子としては一議席でも増やさにゃ」と、候補者のなり手がなかった岡山1区への出馬を口説いた。
岡山市北部が菅家の本籍地。先祖代々の墓がある。羽場は「『菅』の名前が欲しかった」と打ち明ける。
出馬を決めたのは、公示約4カ月前の03年6月。不安はあったが、羽場らの誘いに乗る決心をした。父からは「そうか、がんばれ」とだけ言われた。
相手は自民党の3世議員、逢沢一郎(55)。途中から「父、菅直人」を連呼したが、約4万票差で負けた。
2度目の挑戦に向けて活動を続け、父から「ポスター張りはメリハリをつけろ」など、指南も受けるようになった。しかし、郵政民営化をめぐる「小泉劇場」の逆風もあり、05年の得票は、前回を2千票以上も下回った。
2年かけて票が減ったことは、こたえた。「政治家の家族は、知名度もあり出馬へのハードルは低い。しかし、その後、親の名前に乗った甘さがどこかに出る」。自分を見つめ直すため、落選の半年後、大学へ入学した。
大学が夏休みの8月、津村の頼みもあり、民主党岡山県連の手伝いをする。だが、当面政治家を目指すつもりはない。「きちんと就職し、仕事を通じて普通の人の政治参加が少しでも身近になるよう貢献したい」
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故三木武夫元首相の旧宅は、吉野川に近い、徳島県阿波市のタバコ畑に面している。木の門は傾いていた。
「議会の子」と呼ばれた武夫は戦前から連続19回当選。88年に死去し、妻睦子(91)らは普段東京で暮らす。
旧宅の蔵で今年6月、武夫の孫の三木立(たつ)(40)が藍染(あいぞ)め作業の準備を始めた。「一度出馬することが、僕の宿命のようなものだった」。立はこう振り返った。
三木家には武夫の後継者がいなかった。東京生まれの立が睦子の求めで養子縁組し、三木姓に。武夫の長女である母が、徳島からの出馬を求めた。「どの選挙区でも、どの政党でもいい」。立は「祖父の仲間がいても、自分の友人がいない土地で選挙に出る気になれない」と、小選挙区制で初の総選挙となった96年、自宅がある東京7区を選び、信条が近い民主党から立候補し、競り負けた。
その2年後、母が参院選徳島選挙区から立候補し、1期務めた後、病に倒れて引退。三木家の世襲は途絶えた。
徳島の伝統工芸、藍染めの作家になった立は、「自分に向いた生き方をしたい」と言う。毎回、投票所に足を運ぶ。「有権者、納税者として政治にかかわる」。今回もそうするつもりだ。(敬称略)