長谷川潤さん 66歳 原爆・平和を撮り続けるカメラマン

興野優平
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 日々の平和集会や行事に現れては、シャッターを切る。被爆地を撮り続けて30年ほどが経った。

 父は広島東洋カープの草創期を支え、「小さな大投手」とたたえられた長谷川良平選手。カープが負けると「おまえのおやじのせい」。学校ではいじめに遭った。父にすり寄る人も大勢見た。「一歩引いて人を見るようになったのは事実」

 広島で生まれ育ったが、平和教育を受けた記憶はない。病床で最期まで鶴を折り続けた被爆者佐々木禎子さんのことは、大学生になるまで知らなかった。大阪芸術大学で写真を学んだ後、広島に戻った。商業写真や写真の講師で生計を立てた。「地の利を生かしたい」と原爆ドームを撮り続けるうち、カメラのレンズは被爆者に向くようになった。

 ある被爆者に密着していた時期、別の被爆者から「あの人についているなら私は撮らせない」と拒まれた。子どもたちにはみんな仲良くと説いても、複雑な人間関係があることを知った。

 「被爆地」の撮影で、功成り名を遂げた写真家が何人もいた。その後、自分を見失って「売れる写真」を撮るようになる人も。「人間は弱い」とつくづく感じた。

 自分の作品として世に問うつもりで始めた撮影だったが、記録写真に徹することにした。写真集の話も何度かあったが、断った。「自分が弱い人間だとわかっているから」

 70年前、父がいたカープは資金難に苦しみ、市民の「たる募金」に支えられた。「被爆者らが苦しい生活の中から出してくれたお金で暮らしが立った。その恩義がある」。数え切れないほど撮りためた写真は、いつか撮影に区切りをつける際、広島市に寄贈したいと思っている。(興野優平)

     ◇

 小学生のころ、先生が暗室で写真を現像するのに立ち会った時の感動が忘れられない。かつて、インドで尊敬してやまないマザー・テレサに会い、「平和のために頑張って」と声をかけられたのが一生の思い出。

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