百科事典マイペディア 「ウィルヘルム[2世]」の意味・わかりやすい解説
ウィルヘルム[2世]【ウィルヘルム】
→関連項目黄禍論|ホーエンローエ|モロッコ事件
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…黄色人種がやがて世界に災禍をもたらすであろう,というヨーロッパで起こった説で,yellow peril(danger,terror),gelbe Gefahr,péril jauneなどの訳語。もっとも早いのはドイツ皇帝ウィルヘルム2世で,彼が画家クナックフスH.Knackfuss(1848‐1915)にいわゆる〈黄禍の図〉を描かせ,それをロシア皇帝ニコライ2世に送ってから,黄禍論はヨーロッパにおいて問題となった。それとともに日本と中国においても,三国干渉の結果として逆に〈白禍〉が叫ばれるようにもなった。…
…ドイツ帝国では,統一後まもなくの間は宰相ビスマルクが西欧列強との摩擦をさけたいと考え,トルコでの鉄道経営には積極的でなかった。しかし,1888年に即位した皇帝ウィルヘルム2世は躍進めざましいドイツ資本主義を背景に,近東,とくにトルコでの利権の獲得に熱心で,同年にイスタンブールの対岸のハイダル・パシャからアンカラにいたるまでの鉄道敷設権を獲得した。98年になると,ウィルヘルム2世みずからイスタンブールのスルタンを訪問し,翌99年にコニヤからバグダードを経てバスラにいたる鉄道敷設権を得た。…
…以後,80年代を通じて,ビスマルクはこの保守的な両支配層との同盟を堅持するとともに,労働者を〈アメとムチ〉の政策,すなわち社会政策と弾圧立法によって社会民主党の影響から遠ざけ,国家の味方に引き寄せようと努めた。しかしこのもくろみは結局失敗し,89年ルールに大炭坑ストライキが起こると,これへの対応をめぐりビスマルクは若い皇帝ウィルヘルム2世(在位1888‐1918)と対立してついに辞職した。 一方,ビスマルクが20年間国内政治で独裁的力をふるうことのできた背景には彼がおさめた外交上の成功があった。…
… これ以後,プロイセン公国は,ホーエンツォレルン家のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。…
※「ウィルヘルム[2世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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