2人の岡田茂さん(下)

三越の岡田茂社長に初めて会ったのは、毎日新聞東京洗車経済部の移ってきた1977年12月だった。最初の担当が百貨店、スーパーなどの流通業界だったからである。それまでにも中部本社経済部に在籍したとき、名古屋のオリエンタル中村百貨店が三越の傘下に入ることになったので岡田社長にインタビューを申し込んだことがあった。しかし名古屋の記者と名乗ると、「地方の記者には会いません」と秘書に断られた。仕方なく中野区にあった岡田社長邸に夜回りに行ったが、黒塀に囲まれた邸内には入れてもらえず、あえなかった。田舎の記者は相手にしないという姿勢だったのである。

東京に転勤してようやくアポイントが取れたので久しぶりに日本橋の三越本店を訪れた私は店内の様子に驚いた。私が知っていた三越は、上品で威厳があり、いかにも百貨店です、という店だった。ところが訪れた三越には所かまわず赤札がぶらさがり、まるで赤札堂のようになっていた。

挨拶のあと「赤札堂のようですね」というと「どういう意味だ」と尋ねられた。「昔の雰囲気が失われたような気がして」と答えると「何をいう」と怒りだした。「百貨店といえどもお高くとまっていたのでは駄目だ。商売人は売ってなんぼだ。俺は銀座三越で、このやり方で成功した」と言い、とうとうと自慢話を始めた。「みんなこの自慢話に騙されたのだな」と思った。以後、インタビーを申し込んでも許可は出なかった。幸い私の流通業界担当は3か月で終わったので取材に影響はなかった。

5年後の1982年9月22日、財界担当になっていた私は小山五郎三井銀行社長の「面白いことが起きるよ」というアドバイスに従って三越の臨時記者会見に出席してみた。なんと岡田社長が解任されたのだった。「なぜだ」という言葉を残して退任した岡田社長の悪行がその後次々と暴露されていった。東映の岡田茂さんは人格高潔な人だったが、その人が一時目標にしていた三越の岡田茂さんは、目標に値しない人物だったのである。

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