渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

江戸期、武士をして震旦せしめた斬鉄剣

2023年11月05日 | open
 














モーターサイクルクラブエイト
コマンド(MC8C)、斬鉄剣
小林康宏友の会
游雲会の同志
が、何口かの名
刀を下取りに
出し、さらに多額の追
い金を
積んで入手した。正真。
1857年安政4年丁巳(ひの
と み)8月作。

安政4年は慶応義塾の前身
の蘭学塾を福沢諭吉が開く
安政5年の前年になる。
安政3年にはハリスが下田
に上陸して開国を迫り、
安政6年には横浜が初めて
開港した。米国の圧力によ
り。
日本の幕末動乱が開始され
たのが嘉永年間に続く安政
年間(1855~1860)だ。
武士たちは来たるべき日本
の危機を乗り越えるべく、
憂国の志から武芸に精進し、
強靭な利刀を武士の誰もが
求めた。
そうした幕末の気風を反映
した当時までで史上最強の
強靭刀剣を製作したのが
信州の山浦真雄(さねお)
だった。
江戸に出て剣術修行。
だが、どうしても自分が
気に入る刀が存在しなか
ったので自らが刀工にな
った。
そうした例は実は切れ物
強靭日本刀製作者の場合
はかなり多い。
真雄が製作した刀剣は強
靭そのもので、雄藩武士
をして心から震旦せしめ
た。
弟の山浦環(たまき)源
清磨(すがまろ)が世に
有名だが、兄真雄との鉄
の共同研究以降、作刀の
質性が変化し、丈夫な利
刃を以て成す刀に昇華し
た。

清磨正真物の脇差(時価
1500万円)の作を私は
東京銀座刀剣柴田で手に
取って鑑賞した事がある。
実刀精査により、清磨が
どのような炉を使ってい
るのか、どのような手法
で焼きを施したのかが看
取できた。
長州打ちなので江戸を離
れていた時期の清磨の作
だ。
ただ、清磨の江戸離れに
ついては、通常は出奔に
よりパトロンの幕府講武
所の重職の幕臣窪田清音
(すがね)が激怒したと
されているが、それには
疑義がある。
犯罪者としてではなく、
堂々と手形通行で長州ま
で山浦環は入っているか
らだ。手形を発行したの
は窪田だったのではなか
ろうか。
そして、長州駐鎚により、
ある鉄に対する発案を
山浦環は得たのだった。
環は正行銘を江戸に帰還
後に「清磨(すがまろ)」
に改銘した。
当然、幕臣の窪田清音
(すがね)への配慮から
だ。
(一般的には刀剣界では
いわゆるキヨマロと呼び
馴らしている。兄のほう
もマサオと。それが慣例
読み。情緒(じょうしょ)が
いつの間にかジョウチョ
と読まれるようになった
ようなものか)

なお、幕臣旗本窪田清音
は100年後の松田聖子
(蒲池法子)の遠縁血族
である。蒲池家と窪田家
の繋がりは濃い。
蒲池法子は自由の身とし
て松田聖子となって世に
出られて幸せだったと思
う。
世が世なら法子は久留米
藩の家老並職の家のリア
ルお姫様なので、墓参り
以外では一切外に出られ
ない。行く末はどこかの
同格クラスの上級武家に
嫁ぐか婿を取るかしかな
いのだが、外を出歩いた
り、人前に姿を見せる事
は不可能だった。
江戸時代の武家社会とは
そういうものだ。
私たち現代人が1980年
以降の80年代に松田聖子
の愛らしい歌声と歌う姿
を見られたのは、武家社
会が消滅したおかげだと
いえる。
それでもまだ「深窓の令
嬢」というのは現代でも
存在するのであるが。
いや、本当に。

この希代の刀剣作者山浦真雄
については、
こちらをどうぞ。
(2006年記事)
 

刀の切れ味 ~信州松代藩の荒試し~ - 渓流詩人の徒然日記

「日本刀は強靭である」という神話は作られたものだ。そこらの一般的な刀は簡単に折れる。特に現代刀などは、信じがたいが、部屋の蛍光灯のナイロン紐を切っても刃こぼれす...

goo blog

 

 

 

この記事についてブログを書く
« 阪神タイガース! | トップ | 楽器店店員さんがタメシビキ »