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その生き方で人生を謳歌できるのか。

三日間の間に身近な人間が死に、仕事を失い、家を失い、金を失い、路頭に迷った経験がある。鬱病になればよかったのだが、自暴自棄になった私は躁状態に陥り「もうどうにでもなれ」と、ここには書けない日々を過ごした。躁の反動は数週間後に訪れ、強度の鬱症状に見舞われた。躁状態の時の記憶はなく、ただ、借金が残った。自分はなんてことをしでかしてしまったのだろうと戦慄し、自責の念が精神性の頭痛や腰痛をもたらして、私は動けなくなった。行き場を無くした私は、実家に電話をした。本来であれば、一番頼りたくない相手だった。親を憎んでいた訳ではない。ただ、親を頼りにしてはいけないのだという思いがデフォルトのように私の中にあった。だが、そんなことも言っていられない。電話をすると父親が出た。私が事情を伝えると、父親は言った。帰ってこい。私は「いいのか?」と尋ねた。そんなことは許されないような気がしていたのだが、父親は言った。当たり前だろう。お前は、俺の子供なんだから。この言葉が、私を最初に救ったのだと思う。

実家でも自責の念は増殖を続けた。自分が消えればいいのだと思ってホームセンターで太い縄を買おうと何度も思ったが、幸か不幸か体の自由を失っていたために死ぬこともできなかった。一日二十時間は寝て、起きている時間は過去に関係を持った女性を思い出すことが多かった。惨めで無様でどうしようもない人間だと、自分からも、世界からも言われているように感じた。時折、窓から近所を歩く人を眺める。高齢者が歩いている姿を見ると「よくもその歳まで自殺をしないで生きていられたな」と、皮肉ではなく素直に尊敬した。自分には無理だ。自分には、その歳まで生きる自身も気力も体力もない。そんなことばかり考えながら生きていたのだが、母親は気丈だった。半年後、いろいろな幸運が重なって私は奇跡の回復を果たした。その時、母親は言った。私は、あんたはずっと大丈夫だと思っていたよ、と。自分が自分を信じることができない時、自分以上に自分を信じてくれる人の存在は救いになる。あの時、母親も一緒になって取り乱していたら、自責の念に拍車がかかり、私は這いつくばってでもホームセンターに向かっていたと思う。

深い闇を抱えている人ほど明るい。自分の中にある闇を、明るく振る舞うことで覆い隠す。見ないでいることはできる。だが、闇が消えることはない。金や色に逃げる人もいる。逃げることは悪いことじゃない。問題は「自分は逃げている」という思いからは、逃げることができないということだ。複雑な事情を抱えている女性に会った。彼女は、その事情を親に話していない。親に話したら迷惑をかけるし、心配をさせる。これは私の問題だ。だから、自分の力で解決するべき問題だと言った。私は「わかるよ」と思った。わかる。わかるよ。だけど、もしも親がまだ生きているのであれば、全部を打ち明けることの方がもしかしたら有効かもしれないと思った。自分が置かれている現状を、隠していた真実を、これまでついてきた嘘を、自分の真ん中にある思いを、一切合切を親に打ち明けることは有効かもしれないと思った。そうじゃないと私みたいになる。私みたいに死ぬしかないと思い込み、表面的には「いつ死んでも構わない」などと嘯きながら、心残りを内側に溜め込み、何をしても気分が晴れない、何をしても誤魔化している感覚から逃れることができない、そのような症状と共に残された日々を生きることになる。故郷との関わり方は、極端に言えば、二種類しかない。捨てるか。帰るか。故郷を捨てた人間はルーツを失う。ルーツを失った人間は根なし草になる。できることならば、あなたには、根なし草にはなってほしくないと思った。

人生を謳歌する。やりたいことをやる。好きなことをやる。大事なことだ。だが、心残りがある限り、素直に楽しむことができない。逃げているという感覚から逃げることができない。確かに楽しい。確かに嬉しい。だが、真の喜びを感じているのかと言えば、曖昧になる。そして悩む。自分は冷たい人間なのだろうか。自分のことばかりを考えてしまうのは、自分に愛がないからなのだろうか。好きなことはある。好きな場所もある。好きな人もいる。それなのに、常に靄がかかっているようにはっきりしない。気力も出ない。しっかりしなきゃと思うのだが、動けない。いくらでも寝てしまう。いくらでも食べてしまう。いくらでも怠けてしまう。愛と盾は違う。盾を探すな。それは愛じゃない。盾は、愛の代わりにはならない。盾を失う怖さから、自分は弱い人間だというキャラクターに逃げる。強がって生きているものの、実態は弱い。実態は脆い。その弱さを隠すために、スピリチュアルに嵌る、体を鍛える、金を稼ぐ、恋人を作る、家族を作る、などと言った方向に舵を取る。だが、言うまでもないことだが、そこに答えはない。そこに救いはない。救いがあるのは闇の中だ。闇の中に音がある。闇が自分自身だ。この世の中に自分を生きること以上に大事なことがあるとは思えない。だが、この世の中には自分を見ないで済むものが多い。闇を見ないで済むものが多い。心は悲鳴をあげている。その声が聞こえなくなるほど、防音の整った部屋があちらこちらに作られている。その防音室を、メディアは『幸せ』と呼ぶ。

心残りは垢のように皮膚の表面に張り付き、自分の体の一部になる。心残りを剥ぎ取り差し出す時は、痛みを伴う。真実は痛い。痛いと言うことは、本当と言うことだ。本当のことを口にする瞬間は怖い。だから、泣き崩れてもいい。思い切り取り乱してもいい。感情的になることは問題じゃない。うまくやらなくていい。ちゃんとやらなくていい。ただ、しっかりと心を込めることだ。勇気を出して、自分の真ん中にある想いを差し出すことだ。真実は怖い。怖いと言うことは、本当と言うことだ。痛みに負けないで、怖さに負けないで、闇を生きることだ。心残りを抱えながら生きるほうが、ずっと痛い。心残りを抱えながら生きる方が、ずっと怖い。全部がうまくいくとは限らない。ダメになることの方が多いかもしれない。だが、一つのことがうまくいかなかったからと言って、全部がダメになる訳じゃない。全部の希望が消えてしまう訳じゃない。生きている限り、まだ、可能性はある。世界の優しさがある。絶望だと思っていた世界のすぐ一歩先に、捨てたものじゃない世界がある。闇を生きる。闇の音を聞く。闇に輝く星を見る。明日も明後日も寝る場所はない。余生にやりたいと思うことは、そう多くはない。その生き方で人生を謳歌できるのか。その生き方で、本当に生きたと言えるのか。つまらない労働をするくらいなら、路上を選ぶ。闇が濃いほど、星は輝く。

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おおまかな予定

11月6日(月)東京都世田谷区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)

連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com

SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z

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坂爪圭吾

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