No.253 未必の故意~1億人が共犯者~

2023年6月号掲載

共同体幻想

「未必の故意」という1971年に安部公房が書いた芝居がある。ある小島の消防団長が団員や島民たちと計画的にヤクザ者を殺害し、「未必の故意」に見せかけようとする物語である。
「未必の故意」は法律用語で「特定の結果が発生する可能性があると認識しながらも、その結果を承知の上で行動をとること」を指す。例えば、ある人が大きな石を高い建物の屋上から投げ落とす行動をとったとする。その人が明確に誰かを傷つける意図があるわけではないが、その行動により誰かが傷つく可能性があることを理解している。
この概念は法律の判断において重要で、人々がその行動がもたらす可能性のある結果に対して責任を負うべきであるという理念を反映している。
この「ある小島」に住んでいる島民とは、我々日本人のことかもしれない。ジャニー喜多川氏による未成年への性犯罪を半世紀以上知りながら、何もできずにいた社会。それこそが、安部公房が描いた「共同体幻想」なのではあるまいか。

テレビ局の責任は大きい

ジャニー喜多川氏による悪質な犯罪は、昨今のコンプライアンスによって犯罪化したのではない。記事によれば、1960年代からすでに法律によって裁かれている歴史的事実だったのである(※東京地方裁判所で行われていた、芸能学校の新芸能学院とジャニーズ事務所の間での金銭トラブルに関する口頭弁論。週刊サンケイや女性自身が疑惑を掲載)。その後も幾度かの告発があり、週刊文春との裁判(03年)ではセクハラ行為があったと東京高裁は認定している。現在の社長も日本人1億人も半世紀以上にわたって共犯関係にあった。
特にメディアの責任は大きい。中でもテレビの責任は重大である。大抵のテレビ局は、報道部と編成部が別会社と思えるほど違う。だから、BBCの報道をきっかけに盛んにニュースで取り上げられているが、いくら報道部が騒いでも編成部はその聖域を守ろうと必死だろう。世間がいくら騒いでも「頑張っているタレントは無関係だ」と言いつづける。「彼らは被害者であって、責められる対象でない」と。それは当たり前だ。ある企業が社会悪だったとしても、その社員が悪いわけではない。
しかし、ここではその理屈は通らない。なぜなら、ジャニー喜多川氏が度をこした性犯罪者であると知りながら、取引を続けてきたのは国民の周波数を無料で使い利益を上げてきた上場企業のテレビ局だからである(NHKも)。

子どもをダシに使った大人の儲け話

ファンを熱狂させた裏に、こんな酷い犯罪があったのだ。テレビ局が見て見ぬフリをした背景には、ジャニー喜多川氏が発掘した才能は、局の金儲けになったからだ。つまり、今回の件は一貫して「子どもをダシに使った大人の儲け話」の構造にある。だから「タレントに罪がない」などという詭弁は通用しない。テレビ局は、犯罪者が作った企業との取引を即刻止めることで、その後の人生で大きなトラウマを負った被害者への対応とすべきだろう。
所属タレントを起用した大手クライアントも同様である。取引しているその企業が悪質な犯罪者が作った企業であることを認識するならば、取引中止は相応の社会的対応と思う。あなた方の支払ったギャラで犯罪は続き、被害者は増え続けたのだから当然である。
繰り返すが、「事務所は悪いけど、タレントに罪はない」は、マスコミ以外の業種では通らない。不正に稼いだ企業が作り出すプロダクトがいくら素晴らしいものでも、取引先は取引をやめるものだ。テレビ局は、いつまで特権意識にあぐらをかくつもりなのだろうか?
ジャニー喜多川氏の半世紀以上にわたる犯罪行為は、米国のペナルティで考えると、数百年の服役と1,000億円以上の補償金が課せられる事案と想定される。自らの欲を満たすために「合宿所」なる犯罪拠点までこしらえていたのだから計画的で心底恐ろしい。
「タレントは頑張っている」「ファンを大切にしたい」、もうそんな言い訳は通用しない。これほどの大きな犯罪を容認し、知ってはいたけど「知らなかった」と言うのは「未必の故意」にあたる。我々日本人すべてが共犯関係にあったと思う。


福田 淳 FUKUDA ATSUSHI
ブランド・コンサルタント
http://tabloid-007.com @fukudadesuga

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