第1話 人を呪わば

 世暦二〇八二年——芽黎がれい一〇四年。九月十日、木曜日。

 七海ななみ県立青浜あおはま高等学校。

 遠野頼人が通う公立高校である。その普通科一年二組の教室は、若者特有の汗と男臭さと、制汗スプレーと香水の匂いでごった返し、渾然一体とした何ともいえない臭気になっていた。

 その教室に入るなり、葛篭姫が心の中で「なんて匂いだ。鼻が曲がる」と呻いた。

 頼人もそれには同意だが、答えない。葛篭姫のことは一切合切秘密なのだ。


「おはよう」


 挨拶をする。と、まばらに返事が返ってくるどころか、全員から無視された。

 頼人はいつものことなので気にしないが、葛篭姫は「礼儀知らずどもめ」と吐き捨てた。


(みんな、俺とは会話したくないんだよ)


 と、頼人は心の中で言った。意識して葛篭姫に話しかけるふうにして胸のうちで独白すると、会話が成立する。それは憑依一日目にして知った事実だった。

 昨日の今日で学校というのも勘弁願いたかったが、具合も悪くないのに急に休んだら怪しまれると思って登校した。家族に悟られてはまずいし、学校から怪しまれるのも面倒である。

 頼人は背負ってきたリュックから予習のため持ち帰った教科書とノートを机に入れ、そのまま突っ伏す。


(なぜ誰も若造と話したくないのだ)

(俺がいじめられてるから。目ぇつけられたくないんだよ)

(いじめ? 洒落臭しゃらくさい。そんなの力でねじ伏せれば良い。どっちが上かわからせればいいではないか)

(そう簡単じゃないんだよ)


 妖怪は実力主義者が多い。なんらかの結果を出せば認められるのだ。そしてその結果とは、暴力的な直接対決であることも認められている。

 力を得た妖怪は同時に賢くなり、組織を運営したり下の者を育成したりもするが、そうした力ある妖怪がそれを振るうことがないわけではないのだ。

 面子に関わる場面とあれば、彼らは容赦なく立ち上がる。部下をけしかけるなり、あるいは自ら手を下すのである。

 どうも葛篭姫は武闘派らしく、なかなかにパワーで解決しようという様子が見てとれた。


(人間共は面倒だな。貴様らとの共存を選んだ妖怪の気がしれん。こんなのでは弱って日和っていくばかりだ)


 恵戸時代後期から妖怪は人間と共存を始めた。葛篭姫が恵戸初期に送られたことを考えると、彼女は共存云々の前の世代の妖怪だろうことは想像に難くない。


(暴力ゴリラめ)

(なんだと、貴様)


 頼人は吐き捨てた。

 さっさと今日が終わらないかな、と思った。返っても勉強して、それから憑依体の分離方法と霊体の器に適したものをネットで検索するだけだが。

 葛篭姫は少し特殊で、霊体でありながら微かに物理的な実態を伴っている。霧状の肉体があると言って良く、憑依というよりは寄生に近いらしいことが、昨日分かった。

 そして彼女の妖気も特異で、大抵のものを力技で乗っ取れるが、どうせならきっちり適合した素体が欲しいとのことだった。

 彼女が完全に受肉して何をするつもりかは知らないし、興味もない。知ったところで、止める術がないだろうし。


 家族にいじめの一件が露呈することが嫌な頼人は、葛篭姫のその契約に応じていた。

 父子家庭で姉と父の三人暮らし。余計なことで心配をかけたくない。まして武士の子孫がいじめられっ子など、恥ずかしい。

 頼人は色々考えて鬱屈としてきた。この先自分がどうなるかわからない。どうにでもなってしまえという投げやりな思いもある。

 早くどうにかせねばという焦り、葛篭を開けた後悔と罪悪感、いじめっ子に対する怒り——ストレスがどんどん大きくなる。


(おい、あれがいじめっ子か)


 葛篭姫がそう言った。頼人はちらっと開いたドアから入ってくる、体格のいい男子生徒と取り巻き二人を見た。

 金髪の一番デカい熊妖怪を真ん中に、細身で背が高い鎌鼬、そして人間の太った男が付き添っている。

 頼人はこくんと頷いた。


(大したことないな)

(お前にとってはな。俺にとっては違うの)

(案外そうではないかもしれんぞ)


 葛篭姫はそう言って、鼻を鳴らした。

 自信を持てと励ましてくれているのだろうか。

 と、いじめっ子の主犯格である金髪熊妖怪の熊谷謙之介くまがいけんのすけが頼人を見た。

 へばりつくようなニヤケ面で、「ついてこい」とジェスチャーする。

 頼人は奥歯を噛み締めながら席を立った。


 ああ、全く。嫌な日だ。


×


 昼休み、頼人は校舎裏に呼び出された。今朝方熊谷たちから「あとで、わかってるよな」と言われ、こうなった次第である。

 断れる状況ではなかったし、断る言葉も持ち合わせていなかった。どうにか理由をつけて逃げたかったが、うまい文句は出てこなくて今に至る。


 突然、熊谷に腹を殴られた。

 ボディブロー気味に打ち込まれた一発に、頼人はたたらを踏んで後ずさる。


 遠野家は武士の家系。その血のほかにも武術という形で、現代に遠野の教えは流れている。

 無論頼人も遠野流の武術を修めていた。けれどこんなヤンキーでもないような、ハイエナめいた連中のために力を使いたくなかった。


(気に食わんのお。どれ、恵戸の狂犬と言われた妾が拳一つで軽くひき肉にしてやるか)

(やめろっての!)


「約束の十万蕗貨ろっかは用意できたかよ」

「十万で解放してやるって約束だろ?」

「お屋敷にそれくらいのお宝の一つ二つあったろ」


(なるほど、それで葛篭を開けようと思ったわけだ)


 頼人は奥歯を噛んで耐え忍んだ。今はそうすべき時だと思っていたからだ。

 どんなに惨めでも耐えて耐えるしかない場面は、誰にだってある。それが賢い方法だからだ。だから頼人はそうした。そうせねばならないと思ったからだ。

 けれど次の瞬間、熊谷はとんでもないことを言った。


「お前がそういう態度なら、もういいや」

「え……」

「そん代わり、お前の姉貴を俺らの性奴隷にすっから」

「いいねえそれ!」

「最高じゃん! 最初っからそうしときゃよかったぜ!」


 熊谷たちが下卑笑い声を上げた。

 怒りが沸々と込み上げてきて、拳が白くなるまで握りしめられる。

 耐えろ、と理性が言い続けた。とにかくじっとしていろ、こいつらにそんな度胸はないと——。


「弟のせいで犯されてるんだぜって言ったら、どんな顔すっかな」


 その瞬間、頼人の中で何かが弾け飛んだ。

 右拳が目にも留まらぬ速度で振るわれ、熊谷の鼻っ柱をへし折った。ゴッ、と鈍い音がして、熊谷が仰反る。


「け、謙之——」


 鎌鼬の取り巻きの股間を思い切り蹴り上げると、そいつは白目を剥いて口から吐瀉物をぶちまけて悶絶。

「お、おい待て!」と慌てる人間の腰巾着の喉に貫手を打ち込んだ。「ぐえっ」と潰れた蛙のような悲鳴を漏らし、昏倒する。

 一方的にブチのめした三人の前で、頼人は静かに言った。


「家族を巻き込むな。次ふざけたこと抜かしたら、ぶち殺す」


 冷たい鋭い刃を突きつけられたような感覚に陥り、三人は黙り込んだ。


 言った。言ってしまった。そしてやってしまった。


(妥当な撃退だな。お優しいことだ、首の一つへし折ってやればいいものを)

(捕まるのが葛篭姫だけならそうしてもいいけどね)


 しかしただ一人、熊谷謙之助はいいようにやられたことに逆上していた。

 踵を返してくるりと背を向けた頼人に、熊谷は右手で刀印を結ぶと妖力を練り上げる。青い妖力球を形成し、それを無防備な頼人の背中に打ち込んだ。

 下手すれば肉が吹き飛んで失血死、あるいはショック死を免れないような力任せの威力である。


 頼人が気配に気づいた時、遅かった。


「な——」


 しかし。


(貸し一つだ、若造)


 頼人の右腕が勝手にブンッと動き、黒紫色の妖気を纏って妖力球を弾き飛ばし、霧散させていた。

 驚いたのは頼人だけではない。熊谷も、呻きながらことの次第を見ていた二人の取り巻きもだった。


(口を借りる)


 葛篭姫が頼人の口を一時的に動かした。代わりに、右腕が自由になる。呆然とする頼人は、手で口を押さえ止めることを忘れていた。


「餓鬼ども、次ふざけた真似をすれば挽肉にする。二度は言わんぞ、いいな」


 ぞく、と背筋が粟立った。まるで背骨の中を氷のナイフが滑っていったような感覚である。

 口の違和感が去り、頼人は遅ればせながら葛篭姫が勝手に喋ったのだと悟って何か取り繕おうとしたが、(よせ、脅しは充分だ。黙って去れ)と当妖とうにんに言われ、言われた通りにした。


 校舎裏から出てばくばくなる心臓を押さえつけながら、午後の授業が始まる美術室に戻る。

 予鈴がなってもあの三人は現れず、本鈴が鳴っても同じだった。クラスメイトが「いつもの三馬鹿こないじゃん」とか「所詮金持ちのドラ息子なんだ、高校なんて遊びなんだろ」とか話している。

 頼人は黙っていた。自分が反撃し、あまつさえ黙らせたからとはいえない。


 武術を使うなと厳しく言われているわけではない。むしろ、身を守るため、人を守るためなら積極的に使えとすら言われている。

 でもあんな底辺の糞野郎なんかに、武士の技を使いたくなかったのだ。けれど今日はカッとなってしまった。


 眼鏡をかけたハーフエルフの美術教師が、女性特有の落ち着いた高い声で「今日は目の前のリンゴを素描デッサンしましょう」と言った。

 美術部ではない頼人にはデッサンとスケッチの違いがわからないが、この同じ高校で三年生の美術部だった姉が言うには、デッサンとはモチーフ描く力よりも見る力を養うカリキュラムであるという。

 そんなことを言われても、さっぱりだ。


 頼人は淡々と、手にした鉛筆の何種類かとパンの耳きれ、練り消しを手に画用紙に体を向ける。

 クラスメイトが各々リンゴを描き出してしばらくしてから、例の三人がやってきた。顔が腫れ上がる彼らに周りがざわめき、美術教師が心配するが「うっせーんだよ」と彼らは吐き捨て、席につくとそのまま突っ伏して寝てしまった。


 あれが高校に入ってから五ヶ月もの間頼人を苦しめてきた男たちの末路だと思うと、惨めなように思えて、素直な感想として「ざまあみろ」と思ってしまった。

 人を呪うのは、たとえ心の中でも良くないことだと直後に思い至り、出来上がった画用紙の中のモチーフが歪んでいることが妙に気になった。

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