シン:ゴヲスト・パレヱド
橘寝蕾花
プロローグ
家には決して開けてはならない
この裡辺皇国を統べていた、
家の蔵にある葛篭の前で、頼人は喉を鳴らした。
きっとこの中には、お宝が眠っているに違いない。死んだ曾祖父さんの話では、この葛篭は天下の徳河将軍から拝領したものであるらしく、それこそ大判小判がじゃらじゃらと入っているだろう。
そのうちの一枚でもあれば、やつらを——。
「あ、開けるぞ」
頼人は誰に聞かせるでもなく、言った。変声期が終わって低くなった十六歳の声音。目は黒、髪の毛も黒。平凡な外見であった。
身につけているのは学校帰りなので制服だ。まだ九月なので夏服である。半袖のカッターシャツは、姉がアイロンをきかせてくれているのでシワがない。
その姉や、父を心配させないためにも禁を破らねばならないのだ。
頼人は意を決し、葛篭の蓋を開いた。
葛篭の中には——何も入っていない。隅から隅まで見るが、貼り付けられた和紙が黄ばんでいるだけで、なんら特徴はない。何か書いてあったのか、家紋のようなものが見られたが判別できなかった。
遠野家は昔名のある武士の家系であったらしく、詳しくはわからないが徳河将軍にも重用されていたらしい。それが、今の屋敷の広さにつながっているのだろうか。この家は昔からリフォームを繰り返して住んでいる、年代物だ。
だからこういう骨董品はいくらでもあるが、拍子抜けだった。
「なんだよ、空っぽじゃんかよ。やっぱただの脅し文句——」
そのとき、空気がずっしりと重たくなった。
頼人は何だと思った。蔵の電球が明滅し、後ろで扉の鍵ががこんと落ちる音がする。
「な——」
まずい。なにか、触れてはならないものに触れた。
妖怪や精霊、神秘。それらが実在し、共存する現代とはいえ、中には人間に害をなす者は一定数いる。頼人が通う学校でも、それらから身を守るための簡単な強化術や結界術を教えていた。
「ちくしょうっ!」
頼人は咄嗟に刀印を作って、結界を張った。直後、空っぽの葛篭から溢れ出した黒紫色の妖気が襲いかかってくる。
それは物理的な力を伴っていた。確かな衝撃が、結界を介して頼人の右手にフィードバックされる。
二度目の激突、結界にヒビが入った。
「——?」
「なんだ……?」
黒紫の妖気はまるで疑問を抱くように一瞬動きを止めた。
今だと思って、頼人はドアに駆け寄る。慌てて鍵を開けようとしたが、まるで錆びついたように錠前は動かない。
「くそッ、この——うわぁっ!」
妖気が頼人を取り囲んでいた。慌てて結界を形成しようとするが、両腕を妖気に固定される。
「若造、貴様……いい、今はいい。このままでは妾が消えてしまう!」
「な、なんだよお前……っ」
「その肉体、貰い受けるぞ!」
妖気が頼人の口、鼻、耳から入り込んだ。ずるずるとコンセントを掃除機に引き戻すように、蔵を覆っていた妖気は頼人に全て吸い込まれていった。
凄まじいエネルギー——妖力の奔流に、頼人はくらくらとふらついた。壁に寄りかかり、周りのものを撒き散らしながらなんとか踏ん張る。
「なんっ、なんだよ……!」
「ほう……妾を取り込んでもなお意識があるか。だが結果は変わらん。この肉体を——……ッ⁉︎」
一瞬、右手がびくんと跳ねた。それが頼人の首を絞めようとしてきたので、左手で押さえ込む。
「くっそ……! やめろっ!」
「どういうことだ……?」
右腕が暴れる——というと、中学生特有の自意識過剰な精神的偏向を忘れられない痛いやつだが、本当にそうなのだから仕方ない。
段ボールや屑籠を巻き込みながら腕が暴れ、頼人は必死に抑える。
「この……っ、やめろっ!」
頼人は右手に噛みついた。
「ぎゃあっ! 貴様っ——この糞餓鬼、妾に噛み付くな! なぜだ、おかしい——なぜ乗っ取れんのだ!」
すると頼人の右肩のあたりから、女がずるりと出てくる。幽霊のようになっている下半身と、実態を伴う上半身。
「うおでっか……」
女は白無垢姿なのだが、胸が——バカにでかい。冗談抜きでLカップ——七キロ以上ありそうな胸である。
肌は白っぽく、髪は漆黒。そして、目は海のように青い。
「何を見惚れておるこの助平が。おい貴様、妾に何をした」
「……葛篭を開けただけだよ」
「そんなことは阿呆でもわかるわ。忌々しい……貴様の妖気のせいだな? ちっ、まあ娑婆に出られただけ感謝しておくか」
なんなんだろう、このムッチリムチムチの、多分妖怪であろう女は。
「…………。……俺は、遠野頼人。あんたは?」
「
「葛篭の中に入って、開けた人を驚かす妖怪だろ。あんたがそれだってのか?」
「いかにも。格が違いすぎるがな。今はお前という葛篭の中に入っておる、そういう解釈でいい。しかし妾の力を持ってしても餓鬼一人乗っ取れんとはな」
葛篭姫はそう言って、忌々しげに口を歪める。せっかくの備忘が台無しだ。
と、
「頼人ぉ? 蔵でなにやってんの? 家系図ならお父さんの部屋にあったわよー」
「やばい姉さんだ。葛篭姫、俺が葛篭を開けたことは内緒にしといてくれ」
「なぜ」
「どんな恐ろしい目に合うかわからないからだよ。頼む。なんとか分離できる方法を見つけるから」
「分離? 違うな、妾の器を探せ。あの声の主でも構わんが……」
「ダメだ! 姉さんなんだぞ!」
つい、声が大きくなってしまった。
「誰かいるの? ひょっとして彼女でもできた? まっ、真っ最中とか……?」
「ちっ、違う! 上からものが落ちてきたんだ! すぐに家に戻る!」
「ふぅん。じゃあリビングにいるからね」
遠ざかっていく足音。葛篭姫がほくそ笑む。
「貴様の弱点だな。まあよい。妾の器を見つけた上で分離せよ。それが条件だ」
「わかった、応じる」
「よろしい。契約成立だ」
こうして、一人の少年と謎多き葛篭女妖怪の契約は成った。
葛篭姫とは何者なのか、なぜ彼女は頼人を乗っ取れなかったのか——。
彼らの行く末に、何が待つのか。
それはまだ、誰も知らないことだ。
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