BUMP OF CHICKENは僕の火だよ
はじめてBUMP OF CHICKENの曲を聞いたとき、ぼくはスカイラークに座ってハンバーグ定食を待っていた。席には小さなテレビが付いていて、そこでテレビドラマ『天体観測』のトレーラーが流れていた。ぼんやりとそれを眺めるぼくの耳には、見えないものを見ようとして、というあの声が聞こえてきた。ぼくの家ではこんな荒いロックが流れていたことはなかった。Every Little ThingとかENYAとか、そういうものが音楽だった。だから、思わず釘付けになった。
少しすると画面にショートパンツの女性が写った。その瞬間、父親がテレビの電源を消した。ぼくの家では性は遥かに遠ざけられていた。いろんなゲームの裏技が載った分厚い本が家にあった。ある日、弟がぼくに耳打ちをした。「お父さんが本を破っている」。なんだろう、と思って寝室に上がると、父親がその攻略本を執拗に破っていた。昔の本だから、ページによっては「エロい(脱衣だったり、水着だったり、そういう写真の載っているような)」部分があった。それを父親は、びりびりと破いてはゴミ箱に捨てていた。手荒く破られた攻略本を、ぼくはもう見る気にはならなかった。父親がとにかく嫌いだった。癇癪を起こして殴られるし、首を掴まれて引きずられるし、テーブルマナーを学ぶために椅子に縛りつけられた。BUMP OF CHICKENの火種も、無理やり揉み消された。
だから、BUMP OF CHICKENというのは、ぼくにとっては「いけないもの」と強く結びついたのだ。
次にBUMP OF CHICKENを聞いたのは小学校の給食の時間だ。どこの学校でもあると思うけど、リクエスト曲という制度があって、そこで「車輪の唄」が流れた。衝撃的だった。間違いなく初恋だった。CDを借りたかった。けれど、そのリクエストをしたのは、ぼくをいじめた女子だった。ぼくは一人称がわからなかった。だから少しだけ自分のことを「私」と呼んでいた。そうしたら「私」というあだ名をつけられて、ぼくを見るたびに彼女たちは「私、私」とはやし立てた。そんな人間がこんなにかっこいい曲を聞いているなんて、悔しかった。
家庭にも学校にも居場所はなかった。常にお前はおかしいのだ、という目に晒されていた。だからゲームにのめり込んだ。その時に出会ったのが『Tales of the Abiss』というゲームだった。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーのようなRPGと比べると、OPがあったり、声優を起用したり、いわゆる「オタク向け」として揶揄されがちであったこのシリーズにぼくははまった。そしてこのゲームの主題歌を担当したのが、BUMP OF CHICKENだった。「カルマ」という楽曲だ。予約をして、やっとBUMP OF CHICKENを手に取った。なんてかっこいい曲なんだ、と思った。CDプレーヤー(ひとつのCDを差し込んで聞く音楽プレーヤー)には『カルマ/Supernova』がずっと回転していた。やっと世界に音楽が鳴った。
この時、はじめて藤原基央の容姿を知った。細くて、髪の毛が長くて、かっこよかった。ぼくは髪の毛が短くて、細くもなくて、自分が大嫌いだった。『Motoo Fujiwara』というアートワークで、藤原基央の内面を知った。もうこれは藤原基央になるしかないな、と思った。
高校生になった。進学校だったから、小学校や中学校のときのようにいじめられることはなかった。それが救いだった。部活に入るとき、ぼくは悩んだ。それまでは野球部だった。でも、それは「家族に喜んでいてほしい」という、奉仕のような心からそうしていただけで、事ある毎に休んだし、まったく真面目に練習をしなかった。軽音楽部に入りたかった。だけど、ぼくには「良い子」という呪いがかけられていた。軽音楽部は不良、今でこそそんなこともないと思うけれど、田舎であり、『けいおん!』もまだ放送していなかったあの頃は、そういう雰囲気が蔓延していた。その時のぼくのバイブルは小学生の夏休み前に配られる倫理のガイドブックである「よい子の生活」だった。朝は早く起きましょう、ゲームセンターには行かないようにしましょう。そういう強い強い呪いが、釘が、打ち込まれていた。吹奏楽部にぼくは入った。
ロックというのが反骨の音楽だと知る前から、BUMP OF CHICKENはずっと圧迫に対するぼくの抵抗だった。
地元にはCDショップがひとつしかなかった。高校の近くにある小さなタワーレコードで音楽を視聴するくらいしか楽しいことはなかった。少しづつ小遣いを貯めて、BUMP OF CHICKENのアルバムを買い揃えた。『FLAMEVEIN』『THE LIVING DEAD』『Jupiter』『ユグドラシル』……。同時期に、インターネットにも手を出した。FLASHでは「K」に絵がついていたり、藤原基央の声を抽出して「ニコニコ動画」の時報を作っている人がいたり、歌詞を拾い集めて面白おかしいMADが作られたりしていた。高校三年生のときに、痩せて、髪の毛を伸ばした。ゲームのやりすぎで目は悪くなっていたけれど、眼鏡はかけなかった。なぜなら藤原基央がそう言っていたから。
大学生になった。やっと、ぼくは衆人監視の街から出ることができた。電車に乗って二時間ちょっと、よりはもう少しだけ遠い街だ。はじめてライブに行った。藤原基央は存在しているんだ、と思った。一度は目の前の通路を通っていった。手を伸ばせば触れられそうだったけれど、ぼくで火傷をしてほしくないから、ただその後ろ姿を眺めるだけだった。中高生のとき、インターネットに毒されていたぼくは、当たり前のように2ちゃんねるなんかを見ていたのだけど、そこではBUMP OF CHICKENとRADWIMPSは蛇蝎のように嫌われていて(あるいは愛されていて)そういうスレッドを読みながら憤懣したり、哀惜したり、感情を白黒させていた。ぼくの周りの目を気にする癖はインターネットにまで及んでいたので、身動きがとれなくなっていた。そういう意識が徐々に薄れたのは長野県を出たからで、もしあのままあそこにいたらぼくはどんな人間になっていたのかわからない。
藤原基央になってから息がしやすかった。ぼくはぼくを隠して藤原基央になった。そう振舞った。ぼくがぼくでなくなることの心地良さを、藤原基央は教えてくれた。それと同時にそんな自分は「偽物」だと囁き続けたのも藤原基央だった。
なんか違うな、と思いはじめたのは『COSMONAUT』が出たあたりで、これはBUMP OF CHICKENの音楽性が変わったのか、あるいはぼくが変わってしまったのかわからなかった。大学に入ってから、ぼくは長野に禁止されていた、いろんなことをした。いろんなことを知った。だから、ぼくはもうBUMP OF CHICKENじゃなくなったのかと悲しくなって、だんだん聞かなくなってしまった。ベースをはじめようと楽器屋に行って「BUMP OF CHICKENみたいな」と伝えたら似ても似つかないヴィジュアル系の高いベースをつかまされた。そのローンを払うために毎食林檎になって、体がキティちゃんになった。
ファンが気になった、というのもある。セカオ輪だったり米民だったり、あるアーティストのファンが自称するための言葉がある。BUMP OF CHICKENはBUMPerだった。ぼくはこの言葉も、概念も、大嫌いだった。グングニルを聞いた人間が、好きな音楽で群れようとするなんてくだらなさを通り過ぎて怒りすら覚えた。しかし、それは自分がBUMP OF CHICKENに対して古参になってしまった、ということでもあった。そうして、BUMP OF CHICKENからぼくは遠ざかっていった。相変わらず髪の毛は肩まで伸ばして、前髪で視界を隠したままで。
しばらくして、卒業して、はたらくようになった。どんどんと精神は摩耗して、オーバードーズをしながら無理やり体を動かしていた。何度も京都駅のホームに吸い込まれそうになった。そんな時にまたBUMP OF CHICKENは帰ってきた。「Ray」という曲で、藤原基央が「生きるのは最高だ」と言った。あの藤原基央が、「生きるのは最高だ」と言ったのだ。それまでの曲があまりはまらなかったとか、文化圏が嫌になったとか、そういうものはすべて吹き飛んだ。「いけないもの」として知ったBUMP OF CHICKENが、いつの間にか「なくてはいけないもの」になっていた、と今更になって気がついて、ぼろぼろと泣いてしまった。
ぼくは芯がぶれている。すぐ発言を翻すし、昨日と今日で別人のように気分が変わってしまう。けれど、BUMP OF CHICKENはずっと根幹にいた。今だって、やっぱり髪の毛を切るのは嫌だし、世界が見えすぎるのも嫌だ。
ああ、藤原基央、藤原基央になりたい。なりたかった。藤原基央は孤独の王様だった。孤独の神に選ばれた人だった。まだあなたは手を高く掲げて、ぼくを先導してくれるだろうか。すっかり弱くなってしまったぼくが、それでも呼吸を続けることを許してくれるだろうか。見えないものを見ようとして、もがいているぼくを真剣に笑ってくれるだろうか。藤原基央になりたい。なりたかったのだ。
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