そんな事はない。
ビアノを弾く人は、暗譜した
なら、何百というオタマジャ
クシの配列を全て覚えている。
ロードの走りもそうで、二輪
だろうと四輪だろうと覚える。
それは視覚として空間的に覚
えるのであって、大型マンシ
ョンの戸別を数値的に覚える
のとはまったく別感覚の人間
の能力によって記憶に刻む。
劇画『ゴースト』(しげの秀一)
の作品は、私の育った故郷が
メインで出て来るのが懐かし
い。
私は東京目黒で生まれ、湘南・
横浜で育った。
これは山本橋だ。
藤沢市内の私が住む家から
小学校に行く直線道路をま
たぐようにこの境川が流れ
ていた。江の島横の海岸に
注ぐ。
右手下流には弁天橋が見える。
私が5歳の時に生まれて初めて
自分自身の手で魚を釣った橋
だ。ハゼが釣れた。
小さい子どもが釣り上げたの
で橋上に多くいた人たちから
歓声が上がった。
この境川の川岸には、鎌倉時
代、敗戦の将兵たちが鎌倉幕
府軍により斬首で数百の首を
晒された。
幕府の専横に抗した和田の乱
に助勢するべく、わが祖先は
3000騎を率いて由比ガ浜の
反幕府軍の陣営に馳せ参じた。
蜂起軍側からの「いざ鎌倉」
だ。源氏から実権をどす黒い
謀略で簒奪した北条平家の為
ではない「いざ鎌倉」だった。
だが、鎌倉市街戦にまでもち
込み奮戦して、一時優勢にな
るも、結果的には幕府軍に敗
れた。
わが軍の将兵は200数十の首級
がこの境川河川敷に晒し物に
されたのだった。
だが、鎌倉幕府御家人だった
武士たちの倒幕の蜂起は、鎌
倉幕府を大きく揺るがせたの
だった。
その後、散り散りとなった
我が蜂起軍の軍勢の一族の存
命者たちの血脈は、延命して
からその後再び武将として各
家の武人が歴史の中で戦い、
現在まで血脈が残る事になっ
た。
血族の多くは、江戸幕末から
明治の「維新」を経た明治新
政府による武士消滅政策が登
場するまで武士を続けた。