しかし、業務上否が応でもフロントに立たざるをえないメリーに対して、ジャニーは表舞台には現れてこない。これまでもインタビューさえ載ることがほとんどなかった。
「あのビートルズがサングラスをかけて撮っている写真があるんです。それを見ると、ビートルズのメンバーが5人もいる。真ん中に有名なマネージャー、エプスタインがいるからなんです。たしかに彼はビートルズをスターにしたかもしれないけど、ビートルズは4人で、彼はカメラに入る人じゃない。ファンイメージとかを傷つけるべきじゃないと思うわけ。育てる立場の我々は決してしゃしゃり出るべきじゃないんです」(ジャニー)
それが、ジャニーのマネージャー哲学である。彼は仕事関係者にも自らのことを多く語っていない。年齢さえ不詳となっている。あるレコードディレクターが彼の干支を尋ねると、「ダイヤモンド年」と冗談半分に答えたというエピソードもある。
少年野球チームがショウビジネスへ
いったいジャニーという男はどういった出自の人なのか。ジャニー喜多川が芸能史に初めて登場するのは’62年のことである。話はジャニーズ結成の経緯まで遡る。
アメリカ生まれの日系2世であるジャニー喜多川(本名・喜多川擴(ひろむ))は、’52年に徴兵で朝鮮戦争に赴き、1年2ヵ月の兵役後、除隊して日本のアメリカ大使館で軍事援助顧問団の勤務についた。彼のこうした経歴は、かつて「ジャニーはCIAの回し者」という冗談のような噂も生んでいる。’50年代中頃から、彼は、大使館勤務の傍ら、地元の子供たちを集めて少年野球チームを作った。
「当時、ジャニーさんは20代の前半ぐらいだったと思う。彼は監督権オーナーですね。バットやボールからユニホームまでジャニーさんの小遣いから出ていたんじゃないですか。試合が終わった後、彼のアメ車に乗って、皆でよくアパートに遊びにいきましたよ。日本では手に入らないお菓子とかいっぱいあって。コカコーラを始めて飲んだのも、ジャニーさんの家だったな」と当時の少年野球チームのメンバーは話す。
‘58年、その野球チームのメンバーに新しく入ってきたのが、後のジャニーズのメンバーとなるあおい輝彦、飯野おさみ、中谷良、真家ひろみの4人であった。
「たまたまその日は雨だったため、4人と映画『ウエスト・サイド物語(ストーリー)』を見にいこうという話になったんです。ところが、見終わったら、僕らは映画に感動してしまい、こういうのをやろうという話にすぐなったんですよ」と、ジャニーはジャニーズ結成のきっかけを話す。
ジャニーはアメリカ大使館に勤めながら、’62年4月にジャニーズを結成した。ジャニー喜多川がプロデュースした第1号タレントの誕生である。ジャニーズという名前は彼の持っていた少年野球チーム名だった。結成後4ヵ月ほどでジャニーズはテレビの音楽番組のバックダンサーとして起用される。