試験にはちょっと出づらいし、おそらく仕事には役に立たないし、知ってても特に何かが変わるわけではないけど、いつかどこかで何かに役立つかもしれない息抜き専用雑学、
江戸幕府 初代将軍・徳川家康編。
徳川家康に関して分かってる性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係にちょっとしたエピソードなどを雑学的プロフィールとして記載しております。
記事の中身をざっと見
徳川家康の雑学的プロフィール
年代や数字に関して
- 年代や星座等は基本的に新暦換算で記載しております。
- 年数や年齢は代による暦の違いや数え年の違いから、出典により±1〜3年の誤差がある場合もございます。
人物
- 生誕:1543年1月31日生
旧暦:天文11年12月26日 - 星座:みずがめ座
- 身長:約160cm江戸時代の平均身長155〜160cm
家系
- 血筋:三河国・松平家
- 幼名:竹千代
- 父親:松平広忠
- 母親:於大の方
将軍期間
- 就任時齢:61歳
- 在任期間:1603年〜1605年
- 在任年数:約2年2ヶ月
- 歴代順位:14位
参考 徳川将軍家 在任期間ランキングダレトク雑学トリビア
奥方
- 奥方数:22人以上
- 正室:2人
継室:1人 - 側室:20人
以上とも…
- 正室:2人
- 歴代奥方数:1位
参考 徳川将軍家 奥方数ランキングダレトク雑学トリビア
子ども
- 子宝数:16人以上
- 男の子:11人
- 女の子:5人
- 歴代子宝数:4位
参考 徳川将軍家 子宝数ランキングダレトク雑学トリビア
晩年
- 享年:73歳江戸時代の平均寿命45〜50歳
- 死因:胃がん説が有力
- 歴代長寿ランク:2位
参考 徳川将軍家 長寿ランキングダレトク雑学トリビア
徳川家康をざっとおさらい
徳川家康 肖像画
出典:川越大師 喜多院蔵
- 三英傑と称される戦国大名三英傑
- 織田信長
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 関が原の戦いで石田三成に勝利
- 江戸幕府を開き初代征夷大将軍となる
- 没後、朝廷より「東照大権現」の神号を賜る
などなど
家康将軍期の主な出来事
- 糸割符制度の開始
:1604(慶長9)年
などなど
家康将軍期の世界情勢
- フランスが東インド会社を設立
:1604(慶長9)年
などなど
徳川家康の性格、特徴、趣味、嗜好
- 壮年期は割と短期
- 晩年は我慢の男
- 策士
- 勉強熱心
- 理論派
- 感情を表に出さないタイプ
- 几帳面
- 敵味方問わず有能者好き
- 割と執念深く根に持つタイプ
- 武術(剣、砲、弓、馬など)の腕は一流
- 健康志向というかむしろ健康オタク
- 薬の調合が得意
- 倹約家
- 囲碁や将棋好き
- 奥さんが20人以上で歴代将軍No.1
- 身分の高くない未亡人が好み
- けっこう子沢山
- 強運で大成功を収めると言われる手相「ますかけ線」の持ち主
などなど
徳川家康の性格や人物像
からも伺える家康の忍耐強い性格。
ただ、ホトトギス発言は、
と併せて実際に本人たちが言ったかどうかは不明とされております。
血気盛んな青年期は割と短期でちょっと癇癪持ちだったとされ、戦の最中に
- 戦中にちょっとでも形勢が悪くなった
- 自身の読みが外れる
などすると軍配団扇や自分の爪を噛んでたり、
- 戦況が完全に不利なる
とすぐ激高して馬の鞍を拳で殴りつける癖があったそう。
そのため、家康が愛用していた軍配団扇は歯型だらけで、拳は腫れてコブだらけだったとか。
また、武田信玄と対峙した
とは対象的に、中国や日本の歴史書をはじめ勉強熱心で割りと理論派にして頑固ながら、自分の我を押し通すことは少なく周りの意見もしっかり聞くまとめ役だった面も。
時代背景もあってか、幼少のころより人に裏切られてきた経験からか、発言には慎重で家臣からすれば、
だったそう。
加えて、
で、人の行いや自らの失敗も含め、何かを吸収してそこから学び活かしていく洞察的眼力にも優れていたご様子。
それは女性関係にも大いに活かされているとか。。
徳川家康の女性関係・色恋事情
20人以上と圧倒的に多い側室数
幕府を開き将軍となったことで世継ぎ遺しはとても大事になってきますが、家康の場合、将軍就任時は61歳。
将軍就任以前から既に側室も多く
- 男子:9人
- 女子:4人
を儲けており、なかなかの女好きだったご様子。
綺麗な女性や血筋の良い女性は外部から何かと目の敵にされたり、女性自身も何かと煩い傾向にあり失敗してきた周りの人たちを見てきたせいか、
女中さんやお手伝いさんはじめ未亡人も多く、中には人妻だったのを強引に別れさせて自分の側室にしたりと、結構な自由恋愛スタイルだった模様。
なかなかな絶倫ぶり
11男5女と計16人の子宝に恵まれた家康。
- 10代で 2人
- 20代で 1人
- 30代で 4人
- 40代で 1人
- 50代で 5人
- 60代で 3人
と、当時の平均寿命が45〜50歳と言われる中で、50代以降に8人もの子どもを儲ける絶倫ぶりを発揮。
当然?子は産まれなかったが、手を付けた女性は多く…
落胤が多い
落胤が多いとされる家康。
少なくても10人近くの落胤がいたとされ、中には後の将軍だったり有力大名や各藩の施政者だったりもすることから、歴史家の中では、
との見方と、
と見る向きに分かれるそう。
ここでは、その落胤とされる人物のほんの一例を。
家康の落胤説:三代将軍・徳川家光
第二代将軍・徳川秀忠と江(崇源院)との間に産まれた後の第三代将軍・徳川家光。
家光自身が父・秀忠と母・江との仲がよろしくなく、家光が持っていたとされるお守りの中に
と記載していることや関連史料が見つかっていることなどから、極めて信憑性は低いものの
と見る向きもあります。
家康の落胤説:豊臣秀頼
豊臣秀吉と淀君(茶々)との間に産まれたとされる豊臣秀頼。
しかし、秀頼が産まれたときには秀吉自身が老体であったことと
説もあることから、
と見る向きも強く、そうなると、
ということになります。
その父親候補の1人として徳川家康の名前もしっかり文献に登場するご活躍ぶり。
家康の落胤説:土井利勝
第二代将軍・徳川秀忠、第三代将軍・徳川家光の時に側近として絶大な権勢を発揮した土井利勝も
と、徳川家公式の記録『徳川実紀』にまで記載されております。
徳川家康の性格や人柄が垣間見れるエピソード
忍耐強かったり、洞察力に優れていたり、勉強熱心だったり…といろんな逸話が残る徳川家康。
そんな家康の性格や特徴的なものが伺えるエピソードをいくつかご紹介。
石合戦を見て
出典:東照宮縁起巻
家康がまだ幼名・竹千代を名乗っていた10歳くらいのころ、同年代の子どもたちが河原で石合戦をしている場面に遭遇。
一組は少数でもう一組は倍以上の人数がいるのを見て、
と一言。
それを聞いた家臣たちは笑って取り合わなかったが、結果は見事家康の予想通り少数が勝利。
驚いた家臣が、
と家康に聞くと、その答えは、
と極めて論理的な返答を。
当時から優れた洞察力があったのと、団結する大事さを認識していたご様子。
vs武田軍「三方ヶ原の戦い」にて…
「元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖」
武芸にも長けていて、当時
と称されていた家康。
若気の至りか勢いか、家臣たちの説得虚しく軍勢が倍近くも多い武田信玄に向かっていくも大惨敗を喫する結果に…。
武田軍のあまりの恐ろしさを目の当たりにし、敗走中に馬上にて脱糞してしまうほどだったそう。
命からがら逃げおおせた家康は、帰城してすぐに
と自身の肖像画を描かせる命令をしたそう。
その命令で出来上がった絵がこちら。
徳川家康三方ヶ原戦役画像
上記絵には、
とされ、大惨敗したことをしっかりと肝に命じ自身の慢心を戒めるために描かせたと解釈されておりました。
が、近年の研究では
とする説が有力となっております。
医師、薬剤師向きな理系
割と割腹が良かったためか健康には特に気を遣っていたとされる家康。
医療に関する勉強にも熱心で薬にも詳しく、本草には特に興味を持ち、自分でも調合をしていたほどだったそう。
内臓系に良いとされていた薬を飲んでいたり精力剤も服用していたりで、これが
と見る向きもあります。
そんな家康の医療系に関する逸話を2つほど。
自分で処方も出来る
圧倒的な医学の知識を持っていたとされる家康。
ある時、家康自身が病にかかった際、医者に処方された見立てと自身の見解が食い違うことに。
この時、自分の見立てを信じ自分で本草を調合するなどして自己治療で正確に病を治してしまうほどだったとか。
関ヶ原の戦いにて
豊臣秀吉亡き後の覇権を巡る石田三成との
と称される
の際に、
との伝承が残っております。
これは感染症を防ぐ大きな効果があり、家康自身に医学的な知見が高かったことが伺えます。
結構執念深い性格?
割と執念深く根に持つタイプだっとされる家康。
そんな家康の執念深さや根に持つタイプだったことが伺えるエピソードも2つほど。
30年越しの復讐?
若い頃から鷹狩が大好きだった家康。
訓練した鷹などの鳥を使って鳥類や哺乳類を捕らえさせる狩猟の一種。
身分の高い人の嗜みとされていた傾向があります。
まだ幼名・竹千代を名乗っていた今川義元の人質時代、庭で鷹を飛ばしていたところ、鷹が勝手に今川義元の家臣だった孕石元泰の屋敷へ度々入り込んでしまったそう。
その都度孕石から
などと悪態をつかれる羽目に。。
時は30年ほど流れ、武田軍との争いの中で武田勝頼の支城だった高天神城を家康が落とした時のこと。
この時降伏した敵方の軍勢の一人に孕石元泰がいました。
孕石に対して、
即刻腹を切れ。
と降伏した敵武将で唯一切腹を命じます。
鷹狩り訓練をしていて悪態をつかれた竹千代時代の思いがしっかり残っていたご様子。
重臣・酒井忠次に対して…
酒井忠次 肖像画
気性が荒く扱いが難しかったとされる家康の長男・徳川信康。
信康は織田信長の娘・徳姫の所に婿養子に行くも徳姫ともソリが合わず、堪りかねた徳姫は父・信長に
と何の根拠もないのに信康を貶める進言を。
これを聞いた信長は激怒し、信康を切腹させるよう家康に命じることに。
家康は驚き、信康の助命嘆願をしに重臣の酒井忠次を信長の元へ遣いとして送ります。
が、酒井忠次は割とあっさり信長の命の実行を約束してしまい…。
かくして信長の命令通り、長男・信康に切腹するよう父・家康自ら命じ信康は命を落とすことになるも、このことを家康自身はずっと悔いていたそう。
ただ、あっさり引き下がった酒井忠次に対しては、その後もその働きに対してきちんと見合った出世させていってました。
月日は流れ秀吉天下となり、秀吉の命で家康が江戸に領地替えさせられたときのこと。
家康が家臣たちに新たな配置割を行うも、酒井家に対してだけはなぜか土地も石高も他の重臣たちより格下扱いを下します。
この時すでに息子に家督を譲り隠居の身だった酒井忠次は、息子を不憫に思い、家康に対して
それに対してこの扱いは余りの仕打ちですし、これでは息子の面子を丸つぶれになってしまいます。
どうかご再考いただけないでしょうか…?
と懇願。
それに対して、
と一蹴。
信康が自害させられた時には懇願しなかった酒井忠次に対して、強烈な一言を浴びせています。
とても倹約家
衣服は滅多に新調せず同じものを着回していたり、家も広くなく豪華なものを嫌っていたとされる家康。
そんな倹約家な逸話も2つほど。
天下取りの心得
お手洗いから出て手を拭くため懐から紙を出そうとしたら、その紙が風で飛ばされ庭まで出てしまったそう。
家康はその紙を追って庭まで取りに行きました。
その様子を見ていた家来が思わず笑ってしまったことに対して、
と一喝。
たかが紙だとか新しい別のものを使えばいい、とはせず、どんなものでも自分が持っているものを大事に扱うことと、何事にも執着心を持っていたという家康の心得が垣間見られるエピソード。
しょっぱい漬物
ある時家康が女中たちから、
と苦情を受け、家康自ら給仕に問いただしたところ、
との返答が。
その返答に笑って
と言ったそう。
人を思う気持ち
家康がまだ三河国にいたときのこと。
健康管理と夏場は食料が少なくなることもあって食事は麦飯でした。
それを気にかけた家臣がある時、膳に白米を出した時のこと。
と断ったそう。
徳川家康は日本人で初めて◯◯した人…?
割と新しいものが好きだったり西洋諸国の品々に興味があったとされる家康。
特に実用的なものは自ら多く取り入れ好んで使っていたご様子で、
とされるものがいくつかあります。
ここではその代表的な2例をご紹介。
徳川家康は日本人で初めて鉛筆を使った人…?
家康が当時使っていた硯箱の中から鉛筆が発見されており、この発見された鉛筆が日本最古のものであることから、
だとされています。
考察
鉛筆に似たようなものは欧州各地で古くから発見されていますが、製造が本格的に始まったのは
だとされており、黒鉛部分を
- 削るタイプ
- 詰めるタイプ
の2タイプが以後世界中に出回るようになっていきました。
家康の硯箱から見つかった鉛筆は「削るタイプ」で形状もほぼ同じものであることから、
とされております。
また、黒鉛を「詰めるタイプ」の鉛筆が伊達政宗の墓地・瑞鳳殿からも見つかっており、時期的にも家康とほぼ同じであることから、
徳川家康は日本人で初めてメガネを使った人…?
メガネが日本に伝わったのは、フランシスコ・ザビエルが宣教のために日本各地を訪れていた過程で、
だとされております。
ただ、大内義隆自身がメガネを使用した記述や文献が全く出てきてないことから、
とする説が有力。
で、実際にメガネを使用した記録がある家康が、
とされております。
ちなみに、家康が実際に愛用していたとされるメガネは静岡県・久能山東照宮に2つ保管されており、拝覧も可能になっております。
備考と参照
- この記事は2018年までに分かっている史料等や諸記事を元に書かれております。
- 今後見つかるかもしれない史料等によっては、全く違う内容になる可能性がある旨ご了承くださいませ。
家康の次の代の将軍は…
次の代
徳川秀忠の性格、特徴、趣味、嗜好や女性関係などの雑学的プロフィール
参考文献など
- 『徳川将軍列伝』
著・北島正元
出・秋田書店 - 『徳川将軍家十五代のカルテ』
著・篠田達明
出・新潮新書 - 『徳川十五代史』
著・内藤耻叟
出・新人物往来社 - 『徳川名君名臣言行録』
著・岡谷繁実、安藤英男
出・新人物往来社 - 『将軍の私生活』
著・三田村鳶魚
出・グーテンベルク21 - 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』
著・鈴木尚
出・東京大学出版会 - 『徳川将軍家墓碑総覧』
著・秋元茂陽
出・星雲社 - 『徳川家康文書の研究』
著・中村孝也
出・日本学術振興会 - 『徳川家康公伝』
著・中村孝也
出・東照宮社務所 - 『徳川家康』
著・山岡荘八
出・講談社 - 『覇王の家』
著・司馬遼太郎
出・新潮文庫 - 『徳川家康と本草学』
著・宮本義己
出・宮帯出版社
などなど他諸冊
徳川将軍家のご参考までに