京急 青物横丁から立会川へ 後編
- 2017/01/16
- 00:00
2017(H29).01.15(日) 36 Photos
東京都品川区南品川5丁目の曹洞宗補陀落山 海晏寺での墓地巡りも佳境に入りました。
伊藤博文と同様に紙幣にもなった明治の元勲の一人で、この寺の中で最も有名な岩倉 具視まで来ました。(紙幣を見るなら こちらの後日譚 を開いてみてください。)
岩倉 具視の墓を右端に見て岩倉家墓所を俯瞰します。松平家では皆さん墓標でしたが、岩倉家では円墓です。両家各々特徴ある墓です。
左手前の墓標には、岩倉 具張(孫。具視の次男・具定の長男)、左隣りは岩倉 具三(玄孫。具張の三男・具方の三男)とあり、子孫です。
フェンス沿いに移動して岩倉 具視墓に迫ります。
岩倉 具視 (ともみ)(1825-1883) 公家出身、明治の政治家。
真横から迫ります。墓所内で最大の円墳です。鳥居、燈籠も大きなものが付いています。
前にある墓標には、”宮内大臣従一位勲一等公爵岩倉公墓”とあります。
Wikipediaより ”岩倉 具視” ←Click!
このようなフェンス越しに撮っていますが、右側は道が離れていってしまって崖なのです。足元に気を付けて用心深くいかなければなりません。
岩倉 具視は、明治になって 岩倉使節団 の団長として、伊藤 博文・由利 公正らを従えてアメリカ・ヨーロッパ視察に1年半に渡って外遊してきました。その成果として外交として不平等条約の改正などに腐心した他、視察見聞で得たことをもとに 文明開化、殖産興業、富国強兵 政策を推進しました。
ここにある大砲はその成果の一つでしょうか、明治初期の国産大砲と思われます。貴重な遺産ですね、できれば朽ちないように室内に展示するか、ここでは屋根を付けるかしたらいいと思うのですが。
北側から墓所を俯瞰します。真新しく建てられた墓誌銘碑も見えます。
こんなシーンも撮れました。
福島 敬典 (よしのり)(1839-1896) 明治初期の海軍少将、横須賀軍港の司令官。
コトバンクより ”福島 敬典” ←Click!
岩倉家の北側にある墓地には、明治時代の高官達がいるようです。十数家の墓があるようですが、一般公開されておらず入ることができません。おそらくこの墓域に由利 公正や長州五傑の一人、山尾 庸三 の墓があると思われます。
大政奉還 から20数日後、暗殺される5日前に、坂本 龍馬が福井藩重臣 中根 雪江 に宛てた ”謹慎中の三岡 八郎は有能な人材だから謹慎を解き、新国家建設のために新政府に出向させるよう、主君(松平 春嶽)に上申して欲しい。” という内容の手紙が最近見つかったというニュースが流れました。
その三岡 八郎が明治維新後に改名して”由利 公正”となり、明治政府の役人(徴士参与)として 五箇条の御誓文 の起草に参画(そのもとになったのが龍馬が書いた 船中八策 です。)、さらに金融財政政策などをこなしました。また東京府知事にもなって帝都の不燃化(京橋から新橋までの銀座中央通りに面した建物を全て2F建て煉瓦造りで建てた功績で銀座1丁目の京橋首都高高架下に”経綸・煉瓦銀座之碑”が建っています。)などの発展にも尽くしました。
その由利 公正の墓がこの付近にあるとの資料もあります。なお余談ながら中根 雪江もここに眠っています。もしかしたら由利の隣かもしれません。
残念ながらきょうの墓地探訪はここまでです。
寺山門からほぼ3/4周して、第一京浜国道と並行して走る京急本線の最寄り駅・青物横丁駅 に来ました。約1.2kmを歩いてもいいのですが、超寒いのでちょっとだけ乗車します。
この駅前には意外とたくさんのバスが各方面へ走っているようです。
なお、この地図で省略されていますが、大井町駅と第一京浜を結ぶ仙台坂は2本あります。横Y字の仙台坂をX字として右下へ延長した道を頭の中で描いてみてください。右下へ延長して第一京浜にぶつかった交差点左上角に海晏寺があるのです。
京急普通電車が発車してまもなく、先ほどまでいた海晏寺が見えます。
2つ先の立会川駅で降りますが、改札口を出ると目の前に掲げられています。
何とも2日前の坂本 龍馬の話題が偶然のようには思えません、導かれているようです??
立会川駅 は青物横丁駅と同じようです。京急の都内部分は、2012年10月に品川駅から六郷土手駅さらに多摩川を越えて川崎駅先付近まで完全に高架化が完成しました。駅出入り口が高架下になることが当たり前になりました。
駅前から僅か30m程で第一京浜国道へ出ます。
反対の海側商店街を約100m行くと旧東海道に出ます。
先の道路上に緑の看板や橙色のコーンのあるあたりが十字路で、その角に龍馬像が立っています。
ここに立っていることは結構有名らしいです。昔はプラスチック製でしたが、2010(H22)年のNHK大河ドラマ”龍馬伝”の放送をきっかけに地元ロータリークラブなどの協力で青銅製のものに替えました。袴を軽く叩いたら金属音がしました。
Wikipediaより ”坂本 龍馬” ←Click!
”泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず”
これから向かう浜川砲台について説明しています。
まだ土佐藩士だった19~20歳の龍馬が海防のため、ここで勤務していた時期があったという説明です。
藩邸と砲台が矢印のような位置関係ですから、当時この道を通っていたかもしれませんね。
立会川商店街を抜けるとT字交差点で旧東海道に出ます。この東海道もゆっくり歩いてみたいものです、何かを発見することもあるでしょう。
T字路から僅か20m程で 立会川に架かる浜川橋です。別名 泪橋 とも言われ、処刑される罪人がこの近くの舟着き場から鈴ヶ森刑場へと乗せられたのです。乗せられる間近には行けませんから、罪人と縁のある人がここから遠くその最後の姿を見送ったことから名付いたものです。
この川沿いに約100m行くと浜川砲台です。
区立公園の一角に復元展示されています。
ホーイッスル砲の向いている先は海ですが、ここから約20m先に土手がありその先には40年ほど前までは運河だったが、今は船溜まりになっています。当然龍馬の時代は広大な江戸湾が広がっていました、いやもしかしたら終戦直後まで海だったかもしれません。
土手へ向かうとまず案内板。
土手に上がると目の前が船溜まりです。
対岸は 勝島 です。1939年から10年掛けて埋め立て島としました。
1964(S39)年の東京オリンピックに間に合うように建設された 首都高1号羽田線 が通っています。あとは主に倉庫群があります。
1987(S62)年には南北に走る勝島運河だった南半分を埋め立てて、区立品川区民公園を造り一角には しながわ水族館 という区立の水族館を造ったことは当時としては異色のことだったが、大いに人気が出て、以降各地に末端地方自治体による同様なものができるきっかけとなりました。
よって運河としての機能がなくなり、現在は 立会川 河口と船溜まりとなっています。
北方向を見ています。屋形船やレジャーボートなどは北方向へ進み、右折して 京浜運河 東京部へ合流していきます。京浜運河の東京湾側には大井ふ頭島があるので、品川ふ頭近くへ北上するか、京浜島方向へ南下してから東京湾へ出ることになります。
右にパンして行き止まりです。屋形船が錨を下ろしています。建物は水浄化装置を備えた汚水処理施設です。
立会川河口から眺めれば、黒船と龍馬という壁画が洒落ています。
廻り込むように道を辿って、再び旧東海道に出ました。先に浜川橋が見えます。
商店街を戻り、龍馬像の後ろに祠があるので、そちらから龍馬像の後ろ姿を狙ってみました。
そろそろ日暮れです。京急での帰宅は遠回りになるのでJR大森駅まで歩きます。
JR東海道線ガードをくぐります。大型車は潜れません。
大井警察署前交差点で池上通りに出て左折し南下します。まもなく地元では有名な 鹿嶋神社 前を通ります。
次に 大森貝塚 の品川区側の遺跡公園前を通ります。
実は大森貝塚は、東大生物学教室で教えるために来日した当時のお雇い外国人の一人のエドワード・S・モースが、所用で新橋-横浜間を往復するうちに、車窓から地層からはみ出している貝殻や骨に気付いて、お付きの助手兼通訳に聞いたら、彼がこの辺の地名を詳しく知らなかったので、思わず大森に近いだろうとして大森だと言ったことから文献に大森貝塚と命名されてしまいました。
本来なら荏原郡大井村が正確な地名だったのですから大井貝塚になるべきだったのですが、国際的にもドンドン大森貝塚として広まっていったので後戻りできなくなってしまいました。
というエピソードが残っています。
この地図を見るとこの辺には大森貝塚のみならず、現在の大井町に掛けて多数の貝塚群遺跡があるのを知りました。しかしふと思ったのですが、大森方面には貝塚群はなかったのでしょうか。大田区にも大森に連なる馬込などでは縄文遺跡が見つかったはずです。
JR大森駅に辿り着いた時には日暮れて空気は冷え込んでいましたが、歩いていたので何とか寒さをひどく感じることもなく帰宅できました。
何事にも慎重に気を入れて巡りましたので、精神的には満足した結果を得ることができました。一般公開されていない墓のようで、中々他のブログや資料でも明瞭な写真を見ることがありませんでしたが、今回の撮影行で自らそれなりなものを手に入れられたことを満足しています。伊藤 博文墓のように、できれば年に1回でもまたは数年に1度でも一般公開が行われることを、行政との連携などで催行されることを期待しています。
東京都品川区南品川5丁目の曹洞宗補陀落山 海晏寺での墓地巡りも佳境に入りました。
伊藤博文と同様に紙幣にもなった明治の元勲の一人で、この寺の中で最も有名な岩倉 具視まで来ました。(紙幣を見るなら こちらの後日譚 を開いてみてください。)
岩倉 具視の墓を右端に見て岩倉家墓所を俯瞰します。松平家では皆さん墓標でしたが、岩倉家では円墓です。両家各々特徴ある墓です。
左手前の墓標には、岩倉 具張(孫。具視の次男・具定の長男)、左隣りは岩倉 具三(玄孫。具張の三男・具方の三男)とあり、子孫です。
フェンス沿いに移動して岩倉 具視墓に迫ります。
岩倉 具視 (ともみ)(1825-1883) 公家出身、明治の政治家。
真横から迫ります。墓所内で最大の円墳です。鳥居、燈籠も大きなものが付いています。
前にある墓標には、”宮内大臣従一位勲一等公爵岩倉公墓”とあります。
Wikipediaより ”岩倉 具視” ←Click!
このようなフェンス越しに撮っていますが、右側は道が離れていってしまって崖なのです。足元に気を付けて用心深くいかなければなりません。
岩倉 具視は、明治になって 岩倉使節団 の団長として、伊藤 博文・由利 公正らを従えてアメリカ・ヨーロッパ視察に1年半に渡って外遊してきました。その成果として外交として不平等条約の改正などに腐心した他、視察見聞で得たことをもとに 文明開化、殖産興業、富国強兵 政策を推進しました。
ここにある大砲はその成果の一つでしょうか、明治初期の国産大砲と思われます。貴重な遺産ですね、できれば朽ちないように室内に展示するか、ここでは屋根を付けるかしたらいいと思うのですが。
北側から墓所を俯瞰します。真新しく建てられた墓誌銘碑も見えます。
こんなシーンも撮れました。
福島 敬典 (よしのり)(1839-1896) 明治初期の海軍少将、横須賀軍港の司令官。
コトバンクより ”福島 敬典” ←Click!
岩倉家の北側にある墓地には、明治時代の高官達がいるようです。十数家の墓があるようですが、一般公開されておらず入ることができません。おそらくこの墓域に由利 公正や長州五傑の一人、山尾 庸三 の墓があると思われます。
大政奉還 から20数日後、暗殺される5日前に、坂本 龍馬が福井藩重臣 中根 雪江 に宛てた ”謹慎中の三岡 八郎は有能な人材だから謹慎を解き、新国家建設のために新政府に出向させるよう、主君(松平 春嶽)に上申して欲しい。” という内容の手紙が最近見つかったというニュースが流れました。
その三岡 八郎が明治維新後に改名して”由利 公正”となり、明治政府の役人(徴士参与)として 五箇条の御誓文 の起草に参画(そのもとになったのが龍馬が書いた 船中八策 です。)、さらに金融財政政策などをこなしました。また東京府知事にもなって帝都の不燃化(京橋から新橋までの銀座中央通りに面した建物を全て2F建て煉瓦造りで建てた功績で銀座1丁目の京橋首都高高架下に”経綸・煉瓦銀座之碑”が建っています。)などの発展にも尽くしました。
その由利 公正の墓がこの付近にあるとの資料もあります。なお余談ながら中根 雪江もここに眠っています。もしかしたら由利の隣かもしれません。
残念ながらきょうの墓地探訪はここまでです。
寺山門からほぼ3/4周して、第一京浜国道と並行して走る京急本線の最寄り駅・青物横丁駅 に来ました。約1.2kmを歩いてもいいのですが、超寒いのでちょっとだけ乗車します。
この駅前には意外とたくさんのバスが各方面へ走っているようです。
なお、この地図で省略されていますが、大井町駅と第一京浜を結ぶ仙台坂は2本あります。横Y字の仙台坂をX字として右下へ延長した道を頭の中で描いてみてください。右下へ延長して第一京浜にぶつかった交差点左上角に海晏寺があるのです。
京急普通電車が発車してまもなく、先ほどまでいた海晏寺が見えます。
2つ先の立会川駅で降りますが、改札口を出ると目の前に掲げられています。
何とも2日前の坂本 龍馬の話題が偶然のようには思えません、導かれているようです??
立会川駅 は青物横丁駅と同じようです。京急の都内部分は、2012年10月に品川駅から六郷土手駅さらに多摩川を越えて川崎駅先付近まで完全に高架化が完成しました。駅出入り口が高架下になることが当たり前になりました。
駅前から僅か30m程で第一京浜国道へ出ます。
反対の海側商店街を約100m行くと旧東海道に出ます。
先の道路上に緑の看板や橙色のコーンのあるあたりが十字路で、その角に龍馬像が立っています。
ここに立っていることは結構有名らしいです。昔はプラスチック製でしたが、2010(H22)年のNHK大河ドラマ”龍馬伝”の放送をきっかけに地元ロータリークラブなどの協力で青銅製のものに替えました。袴を軽く叩いたら金属音がしました。
Wikipediaより ”坂本 龍馬” ←Click!
”泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず”
これから向かう浜川砲台について説明しています。
まだ土佐藩士だった19~20歳の龍馬が海防のため、ここで勤務していた時期があったという説明です。
藩邸と砲台が矢印のような位置関係ですから、当時この道を通っていたかもしれませんね。
立会川商店街を抜けるとT字交差点で旧東海道に出ます。この東海道もゆっくり歩いてみたいものです、何かを発見することもあるでしょう。
T字路から僅か20m程で 立会川に架かる浜川橋です。別名 泪橋 とも言われ、処刑される罪人がこの近くの舟着き場から鈴ヶ森刑場へと乗せられたのです。乗せられる間近には行けませんから、罪人と縁のある人がここから遠くその最後の姿を見送ったことから名付いたものです。
この川沿いに約100m行くと浜川砲台です。
区立公園の一角に復元展示されています。
ホーイッスル砲の向いている先は海ですが、ここから約20m先に土手がありその先には40年ほど前までは運河だったが、今は船溜まりになっています。当然龍馬の時代は広大な江戸湾が広がっていました、いやもしかしたら終戦直後まで海だったかもしれません。
土手へ向かうとまず案内板。
土手に上がると目の前が船溜まりです。
対岸は 勝島 です。1939年から10年掛けて埋め立て島としました。
1964(S39)年の東京オリンピックに間に合うように建設された 首都高1号羽田線 が通っています。あとは主に倉庫群があります。
1987(S62)年には南北に走る勝島運河だった南半分を埋め立てて、区立品川区民公園を造り一角には しながわ水族館 という区立の水族館を造ったことは当時としては異色のことだったが、大いに人気が出て、以降各地に末端地方自治体による同様なものができるきっかけとなりました。
よって運河としての機能がなくなり、現在は 立会川 河口と船溜まりとなっています。
北方向を見ています。屋形船やレジャーボートなどは北方向へ進み、右折して 京浜運河 東京部へ合流していきます。京浜運河の東京湾側には大井ふ頭島があるので、品川ふ頭近くへ北上するか、京浜島方向へ南下してから東京湾へ出ることになります。
右にパンして行き止まりです。屋形船が錨を下ろしています。建物は水浄化装置を備えた汚水処理施設です。
立会川河口から眺めれば、黒船と龍馬という壁画が洒落ています。
廻り込むように道を辿って、再び旧東海道に出ました。先に浜川橋が見えます。
商店街を戻り、龍馬像の後ろに祠があるので、そちらから龍馬像の後ろ姿を狙ってみました。
そろそろ日暮れです。京急での帰宅は遠回りになるのでJR大森駅まで歩きます。
JR東海道線ガードをくぐります。大型車は潜れません。
大井警察署前交差点で池上通りに出て左折し南下します。まもなく地元では有名な 鹿嶋神社 前を通ります。
次に 大森貝塚 の品川区側の遺跡公園前を通ります。
実は大森貝塚は、東大生物学教室で教えるために来日した当時のお雇い外国人の一人のエドワード・S・モースが、所用で新橋-横浜間を往復するうちに、車窓から地層からはみ出している貝殻や骨に気付いて、お付きの助手兼通訳に聞いたら、彼がこの辺の地名を詳しく知らなかったので、思わず大森に近いだろうとして大森だと言ったことから文献に大森貝塚と命名されてしまいました。
本来なら荏原郡大井村が正確な地名だったのですから大井貝塚になるべきだったのですが、国際的にもドンドン大森貝塚として広まっていったので後戻りできなくなってしまいました。
というエピソードが残っています。
この地図を見るとこの辺には大森貝塚のみならず、現在の大井町に掛けて多数の貝塚群遺跡があるのを知りました。しかしふと思ったのですが、大森方面には貝塚群はなかったのでしょうか。大田区にも大森に連なる馬込などでは縄文遺跡が見つかったはずです。
JR大森駅に辿り着いた時には日暮れて空気は冷え込んでいましたが、歩いていたので何とか寒さをひどく感じることもなく帰宅できました。
何事にも慎重に気を入れて巡りましたので、精神的には満足した結果を得ることができました。一般公開されていない墓のようで、中々他のブログや資料でも明瞭な写真を見ることがありませんでしたが、今回の撮影行で自らそれなりなものを手に入れられたことを満足しています。伊藤 博文墓のように、できれば年に1回でもまたは数年に1度でも一般公開が行われることを、行政との連携などで催行されることを期待しています。
スポンサーサイト