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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第五章 『歴史を刻む星々』

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第五章67 『リリアナ・マスカレード』

 結局のところ、リリアナは自分が歌い始めた切っ掛けなど覚えていない。


 リリアナの一族はそれこそ、リリアナの母の母のそのまた母の、さらにその上の母の時代からずっと、どこかに定住することなどせずに世界を渡り歩いた一族だ。

 吟遊詩人なんて根なし草の商売をしていると、当然だが飽きられるのも早い。一所に留まらず、風の吹くまま気の向くままに、二本の足で旅を続ける。


 吟遊詩人の中には大勢で集まり、一団となって興行を行うような集団もあるようなのだが、リリアナはあまり群れることを好む気質ではなかった。人といることは嫌いではなかったが、感性が合わない。有体に言えば音楽性の違いである。


 母たちがそうであったように、リリアナは一人で旅に出た。

 それでも、その独り立ちは放任主義者の多い吟遊詩人の中にあっても、かなり早い時期だったことは否めない。彼女が一人で親元から巣立ったのは十三歳のとき。


「ええい、せからしか! こんなところで燻ぶってなんかいられるもんかいっ! おとさんおかさんは勝手にしたらええでないのっ」


 些細ではないにしても、口ゲンカの果てに飛び出したことは間違いない。

 十歳を過ぎた頃から、リリアナはとにかく独り立ちをしたがった。それは夢見がちな娘のあまりに無謀な意見であり、両親――特に母は強く彼女を引き留めた。

 しかし、幼いリリアナの情緒は十歳のこのとき、すでに普通の同年代の少女たちよりも幾分、成熟していた。それは父が奏で、母の歌う数々の詩吟、それに親しんできたことの影響が少なくはない。


 幼いリリアナにとって、母の歌う音楽に現れる人々は憧れだった。

 彼らの冒険や挑戦、戦いや恋愛、葛藤や克己に触れるにつれて、リリアナは自分がいつまでも足踏みしていることに耐えられなくなった。


 ――自分が歌でよく知る人々は、こんなにも自由に生き方を選んでいるのに。


 十歳のリリアナにとって、歌に現れる英雄や伝説上の彼らは友人だった。彼らが歩いたのと同じ道を、彼女らが見たものと同じ景色を、みんなが見上げたものと同じ空の下で、同じように味わいたくてたまらなかった。


 そんな気持ちを抱えたまま三年間、むしろよく我慢したものだろう。

 リリアナは滾る情熱と一方的な物語の人々への仲間意識を燃やし尽くし、父からリュリーレの演奏技術を、母からその歌声と数々の名歌を盗みに盗んで身に付けた。

 そして母からお下がりとして、一族に伝わるリュリーレを手渡された十三の夜、盛大な親子ゲンカの果てに親元を飛び出して独り立ちしたのだ。


「うははははー! 今に見さらせ、おとさんおかさん! 吟遊王に私はなる!」


 両親の追撃を完全に振り切り、一人になった彼女は夜空に向かってそう誓った。

 リリアナ・マスカレードの大冒険、その始まりである。


 ――今にして思えば、あの親子ゲンカが両親の思いやりだったことはわかる。


 十歳の頃から、両親は口を酸っぱくしてリリアナの無謀を引き留めていた。技術の未熟を指摘し、歌の不勉強を高笑いし、あとたまに食事を抜きにした。


「おーっほっほっほ! アンタみたいな小娘が独り立ちなんて十年早いわ! そんな生意気を言う子には、罠にかかった兎の肉はお預けね!」

「おやおや、可哀想に! こんなにも今日は兎の肉がとろっとろに煮えたというのにお預けとは! 父さんや母さんの言うことを聞かない子は可哀想になぁ!」


 いい意味でも悪い意味でも、夢追い人っぽい両親だったと思う。

 そんな二人にとって、一人娘の旅立ちはどれだけ心を痛めたことだろうか。きっと別れに際して、色んな葛藤があったに違いない。


「これで食い扶持が減るわね! 一日に三食は食べられるわ!」

「リリアナがいなくなったらそうだな、もう一人ぐらい子どもを作るか!」


 きっと葛藤があったに違いない。惜しまれたはずだ。間違いない。

 それにあの親子ゲンカは、両親からリリアナへの最後の贈り物だ。


 もしもリリアナが夢破れて、親元へ戻りたいと思っても戻れないように。リリアナの退路を断つために、あんなにも心ない言葉をぶつけ合ったのだ。

 逃げ道があると思えば、人間は弱くなる。帰る場所があると縋れば、自然と挑戦心は最後の最後まで燃え上がることを拒む。


 特に吟遊詩人は、自分たちの故郷を持たない身だ。

 故郷と家族、本来は人が持ち合わせる二つの拠り所を一つにしているのだ。家族への依存心は無意識に強い。それを断つことが、独り立ちの最大の障害だ。


 リリアナは幼さ故の無謀と、両親の粋な計らいでそれを乗り越えた。

 リリアナは、自分が泥水を啜り、草の根を食み、空腹と無力感に打ちのめされて「帰りたい……」などと弱音を吐きかけたとき、その思いやりに気付いた。


 あそこで心が折れていれば、今頃はリリアナはリュリーレを置いていたかもしれない。両親には感謝している。別れはきっと、お互いにとって最善だったのだ。


「――ぁ」

「げ」

「あらまぁ」


 まぁ、その数年後にとある町で再会したときのバツの悪さは半端ではなかった。しかも両親の腕には、リリアナの知らない幼女が抱かれていたのだからなおさらだ。

 それが自分の妹なんだろうなとは思ったが、リリアナは両親と言葉を交わさず、ただ胸を張って、背筋を伸ばしてその場を行き過ぎた。


 今より数年後、もっともっと誇れるような実績を上げたら、同じように両親と再会しても、笑って言葉を交わすことができるかもしれない。

 ただ、今の自分ではそれにはまだ不十分。だから今日はここまでだ。


 無論、この日の出会いを最後に、両親と二度と会えない可能性もある。名前も知らない妹に、自分が姉なのだと伝える機会もこない可能性の方が高い。

 けれど、いいのだ。それがリリアナの選んだ、歌に寄り添う生き方なのだ。


 それにいずれ、リリアナが世界中に名が轟くほどの吟遊詩人になったあかつきには、あのお調子者の両親は間違いなく周りに言い触らす。その最初の自慢話の犠牲になるのは妹に間違いない。なら、それも野望の一つに加えるのも気持ちいいではないか。


「ふふん、なかなか胸が弾む未来ですよぅ。弾むほどありませんがっ!」


 などと、気持ちも新たに歩み出した、リリアナ十七歳の頃であった。



 さて、御歳二十二になるリリアナであるが、独り立ちしてから九年――当然ではあるが苦難の連続、決して順風満帆なばかりの人生ではなかった。


 特に十三歳の旅立ち直後など、「吟遊王になる!」などと誓った翌日、翌々日にはすでに完全に死にかけていた。通りがかった商人団に拾われて、小間使いとしてしばらく路銀を貯めさせてもらえなければ本気で孤独死したことだろう。


 あちこちの土地を旅して、交易品を商う商人の一団だった。

 リリアナはその一団に拾われて、小間使い兼賑やかしとして世話になった。食事と寝床がつく分だけ、本気で一人旅するよりはるかに安全で快適な旅だ。

 町へ到着すればリリアナもリュリーレを担ぎ、路上で歌って日銭を稼ぐ。母や父の手を離れて、初めてお捻りをもらったときの感動は忘れられない。


 商人の一団には一年ほど世話になったが、代表者が町に定住し、店を開く資金が貯まったことが原因で解散となった。散り散りになる商人のうち、何組かにリリアナはその後も一緒にと誘われたが、それは丁重に辞退して一人になった。


 安全で快適な旅を手放して、身軽な一人となって牙を研ぐ。

 ぬるま湯に浸る日々は終わり、リリアナ・マスカレードの伝説は始まる。そう意気込んでいたことは間違いない。


 その後、数年間の苦難に関しては割愛しよう。

 商団の一人として、あるいは実力ある吟遊詩人一族の一人として、その看板を背負っていた頃ならばともかく、そうでなくなった歌い手の小娘に世間の風は冷たい。

 別れ際の両親の思いやりの真相を悟ったのが、ちょうどこの頃のこと。


 そしてこのときリリアナが悟った、世界の重大な真実はもう一つあった。

 それは自分と、自分のよく知る物語の人物たちが生きる世界は、決して同一のものではなく、自分は彼らの仲間でもなんでもないという事実だった。


 切っ掛けは、特別な何かがあったわけではない。

 ただふっと、いつものように草の根を食んで、山の中で手つかずの赤い実を口にして腹を下し、一人で延々と腹痛と発熱に苦しんでいた夜に気付いたのだ。


 自分の知る素晴らしい物語の英雄たちは、こんな風にはならない。

 なぜならその物語はすでに完結している。彼らが血を吐き、夢を語り、願いを叫び、剣を振るった日々ははるか過去のことで、リリアナはそんな彼らの足跡の上澄みを借りて、それを人に伝え聞かせているだけだ。


 リリアナは彼らを愛しているが、彼らがリリアナを愛することは決してない。

 自分の想いは完全な一方通行で、しかもそれは過去という行き止まりに辿り着いて行き場を見失う、そんな類のものでしかなかった。


 ――それなら、吟遊詩人とはなんなのだろう。


 親元を『吟遊王になる!』と言って飛び出し、曲がりなりにも吟遊詩人を名乗って数年間を過ごしてきて、リリアナはようやく自分が紛い物だと気付いた。

 今までに一度も考えたことのない、そんな壁に無防備に激突して、リリアナは自分の鼻っ柱と前歯が全部ぶち折られた気分を味わった。


 三日三晩、リリアナの腹痛と発熱、嘔吐は続いた。

 うなされながらリリアナは、夢でも曖昧な現実でも延々とそれを考えた。


 四日後、目覚めた朝にリリアナは復調し、小川で顔を洗い、水を飲んだ。

 水面に映る自分は、これまでの自分とまるで違った顔をしているように見えて。


 風が草木を揺らし、小川のせせらぎが涼やかに、虫や小鳥の鳴き声が聞こえた。

 そこに歌を感じたのは、それが初めてのことだ。


 涙が溢れ出して、リリアナは堪え切れずに小川に飛び込んだ。

 虫も小鳥も、魚も驚き、その全てに音楽が溢れていて、水面から顔を出したリリアナは顔をぐしゃぐしゃにして笑い、泣いて、笑って、泣き喚いた。



 山を下りて、泥と水で薄汚れた格好で、リリアナは街路に立った。

 みすぼらしい格好で楽器を構える少女を、誰もが遠巻きに嫌悪していた。店先でそれをやられた店主は嫌そうな顔をしたし、道行く人々の顔にも不快感がある。

 そのまま数秒、立ち尽くしていたら、心ない誰かに突き飛ばされたかもしれない。


 だが、街路に立ったリリアナの動きは素早かった。早く始めなければ摘まみ出される、などと考えていたわけではない。

 彼女はこのとき、ただひたすらに早く歌いたかった。


「――――」


 リュリーレの絃が弾かれたとき、何人の人間がそれに気付いただろうか。

 みすぼらしく薄汚れた少女の、その手の中の年季の入ったリュリーレと、そのリュリーレに触れる両手だけは綺麗にされていたことに。


 何人がそれに気付いたか、それは定かではない。

 ただ確かなことがあるとすれば、それに気付いた人々の意識は瞬時にそこから離れただろうということだ。


「――――」


 リリアナの演奏が始まり、その繊細でたおやかな指使いから音楽が溢れ出した途端に、その往来にいた全ての人間の足が止まり、息が詰まった。

 一瞬で、誰もが何か劇的な変化を理解し、心に訪れた高波に戸惑っていた。


 その発信源が街路に立つ、薄汚れた少女と気付いて視線が集中する。

 リリアナはその注目が集まるのを感じながら、昂る自分を理解していた。舞台が組み上げられ、そこに向かって一気に駆け上っていく。

 そして演奏の熱が最高潮に高まったとき、リリアナの歌が始まった。


 これまで、自分が歌っていたものはなんだったのかと思うほど、自分の喉から同じものが溢れているのだと思えないほど、『歌』が流れ出した。


 自分の知る、数々の名歌への想いが去来し、突き抜けていく。

 ずっと隣り合って、離れ難い友だとばかり思っていたそれらが天上へ昇っていくのを、晴れ晴れとした気持ちで見送る。


 ――歌は贈り物、歌い継がれるかつての友人たちにとって自分は何者でもない。


 それでいい、リリアナは自分の存在を、吟遊詩人をそう理解した。

 そう理解した上で、これからも自分は歌い続けられる。


 自慢して回ろう、この世界にはこれだけ素晴らしい人々がいたのだと。

 こんな素晴らしい人たちと、友人だと思っていた頃があったんだと見当違いの自慢をして回ろう。


 そしていつか本当に、すごい人と友達になって、こんなすごい人が友達だったんだと歌って自慢できるような、そんなことをしてやろう。


「――――」


 歌い終わったとき、リリアナは涙を流した。

 呆然と聞いていた人々も、彼女と同じように涙し、鼻を啜った。


 万雷の拍手が往来を包み込んで、リリアナ・マスカレードは吟遊詩人になった。

 それからずっと、リリアナの音楽との付き合いは続いているのだ。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 独り立ちして初めて歌った頃のことと、『吟遊詩人』になって初めて歌ったときのこととを思い出して、リリアナは燃える制御搭のてっぺんで歌っていた。


 あのときの、ガムシャラな気持ちに近いものが胸を渦巻いている。

 歌いたくてたまらない、言葉にしたいものが、音にしたいものが多すぎる。歌っている最中でも歌いたくてたまらないのだ。これはもはや、病気といっていい。


 獲物を選んで焼き尽くす白い炎は、今も勢いを弱めることなく燃え上がる。

 リリアナにその焦熱は届かないが、灼熱だけは延々とこの身を苛んでいた。今も靴裏には焼けつく痛みが走り、そんな炎に取り巻かれた石塔の中を駆け抜けた体は悲鳴を上げ続けている。今すぐに膝を屈して、泣き喚きたいほどの激痛が。


 だけど、泣き喚くなんてとんでもない。転げ回るなんてもったいない。

 眼下には歌を聞いてくれる人々が、この喉は泣き声ではなく歌声のために。


「――――」


 歌い上げる曲は、リリアナが母や一族から継いできたものではない。

 物語を歌い継ぐのが本分である吟遊詩人としては失格かもしれないが、これはリリアナが世界中を満たす音楽を知ったとき、最初に贈り物として得た歌だ。


 新しい朝がきたそのとき、空は紅黄色へと染まる。

 夜を追い払い、新しい一日が始まるときに現れるその空がリリアナは好きだった。

 そしてその紅黄色の朝焼けすら追い越して、蒼穹が本物の朝を連れてくる。


 ――朝焼けを追い越す空。


 どんな夜を迎えようと、それでも朝は訪れるのだから。

 誰の下にも訪れる、朝焼けを追い越す青空は、新しい一日の始まりなのだ。


「――――」


 今、都市には混乱が蔓延し、多くの人は不安と悲嘆に呑まれて身動きできない。

 前も後ろも見えない夜の中で、誰もがもがき、足掻いているのは事実だ。


 でも、それでも朝はくるのだと、リリアナは歌いたい。

 そう思って歌いたいから、歌う。


 歌いたいときに歌いたい歌を我慢して生きるほど、辛いことは自分にはない。

 だから今まさに歌い伝えたいことを、全力を込めて歌うのだ。



 制御搭の上から、リリアナは喉を震わせて歌い続ける。

 指がリュリーレの絃を踊るように弾き、事実、歌い奏でながら彼女は踊る。制御搭の頂上をめいっぱい使って、四方を囲む大勢の人々に聞こえるように。


 だが悲しいかな、彼女の声はその全ての人々の鼓膜には到底届かない。

 声の大小だけの問題ではない。距離の問題がある。聴衆の心の問題がある。リリアナがどれだけ心を込めても、物理的にも精神的にも聞こえない壁は事実ある。


 リリアナは歌の力を信じている。

 しかし、歌はあくまで届いてこそ、それが果たされて初めて歌になる。


 四方を囲み、不安と悲しみに押し潰されそうな人々の数はどれだけいるのか。

 数百、千、いや数千にまで届くかもしれない。それだけの数の人々に、魔法器の補助もなく自分の力だけで歌を届けた経験はリリアナにはない。


 声を拡散する方法も、多くに同時に届ける手段も、ただの人には持ち得ない。

 リリアナの挑戦は無謀で、願いはあまりにも遠い。


 かつて十歳のリリアナは、その身に余る野望を他でもない両親に無謀とされた。

 今もまた、そのときと同じなのか、同じことを繰り返すのか。


 歌の力は本物なのに、歌を届ける自分が紛い物のままなのか。

 こんなところで、終わってもいいのか。


「――ッ!」


 ダメなのか、そんな自噴に喉が焼けついた。

 その瞬間、


『リリアナ――可憐な歌姫よ。どうかその歌声で、永遠に僕を虜にしてほしい』


 馬鹿な男の、馬鹿な口説き文句が、リリアナの脳裏に蘇った。

 おかしな男だった。はっきり言って変人だった。変態の方が正しいかもしれない。


 リリアナの歌を聞いて、邪な考えで近付いてきた人間はこれまでにもいた。

 そのことごとくを、リリアナは遠ざけてきた。歌に対して真摯でなく、下心で利用しようとするようなものに喉は貸せない。それは吟遊詩人としての義務感だ。


『あなたの美しさに見惚れました。どうか、僕の傍にいてください!』


 なので、リリアナの外見に下心を持って近付いてきたのは彼が初めてだ。

 リリアナが吟遊詩人であると彼が知ったのは、リリアナを見た目でいきなり口説いたよりもあとのこと。機会があって彼の前で歌ったときも、歌よりじろじろと顔や胸や足に視線が向けられていて、正直なところ不快だったのは事実である。


 ただ、彼はリリアナの歌に感銘を受けていなかったわけではないし、リリアナ当人への好意もまた嘘で隠そうなどともしなかった。

 リリアナの外見に好意を抱き、歌声にも理解を示し、人となりを知って離れない。


『都市プリステラには四つの大水門が。そのため、有事に備えて都市にはいくつもの避難所があります。この魔法器は住民の方々に日常の危機意識を促し、いざというときの判断を手助けするために用いられているものです』

『はぁ……それで、なんなんです?』

『ぜひ、その放送にリリアナの歌を乗せてみてはどうかと思いまして。いまだ都市には君の歌を知らない人々が多い。この機会にぜひ』


 魔法器越しの歌声なんて、リリアナにとっては邪道にも思えた。

 歌はやはり、聞いてくれる人の目の前で歌ってこそではないだろうか。リリアナはそう渋って断ろうとした。が、彼は屈託ない顔で笑って、


『あなたの姿は僕が一人占めにしたい。ですが、あなたの歌声は決して一人占めにするべきではない。歌姫は皆に、リリアナは僕に。そう願ってはいけませんか?』


 なんとまぁ、悪気のない顔で笑うのだろうか、この変人は。

 これで口説いているつもりなのだとしたら、鼻で笑ってしまいたくなる。


 リリアナはこの世界で歌い継がれる、多くの恋物語を知っている。

 その恋物語の中で色めき、恋に愛に夢中になる彼ら彼女らを知っている。どんな言葉で魅せられ、どんな態度に胸を弾ませ、恋が成就するか知っている。


 だから、そんな言葉に口説き落とされるほど、リリアナは甘くない。

 甘くないけど、甘くないけれど、『歌姫』っていう響きは気に入ったから。

 あまりにも大げさな響きで、自分に相応しいなんて胸を張れないけど。


 彼が、キリタカ・ミューズがリリアナに『歌姫』であれと期待したのだから。

 あの人が自分を、この街の『歌姫』にしたのだから。


「――――」


 届け、響け、震わせろ、この想い――。


 どれだけ夜が暗くても、先が見えない真っ暗闇ばかりでも。

 それでも朝はくるのだ、いつも通り。



 誰よりも強く、誰よりも声高に、それを信じて歌うのだ。

 水門都市プリステラの『歌姫』である、リリアナ・マスカレードが。


「――――」


 あれだけ感じた、熱も痛みも今は感じない。

 自分の全てはリュリーレを奏でる手首から先と、舞い踊るこの足と、そして歌い続ける喉から上だけに注ぎ込まれてしまっている。


 何もかもが枯れ果ててしまいそうに、絞り出されていく。

 感情の全てが、歌声の限りが、何もかも。


「――――」


 歌い、歌い、歌い上げるリリアナは気付いていない。

 その耳に今はもう、心を支配された人々の嘆きの声が聞こえないことに。


 燃える水路の外側で、苦痛と悲しみに喘いでいた人々は空を見上げていた。

 否、空ではない。声の聞こえてくる、炎に包まれた制御搭だ。


 その頂上で小さな影が、あまりにも遠くから声を上げ続けている。

 彼女から目が離せない。耳に全神経を注ぎ、誰もが息を呑んで歌に聞き入る。


 本来ならば届くはずのない歌声が、全員にはっきりと聞こえていた。

 それは奇跡でもなければ、全員が同時に味わった錯覚でもない。ましてや大罪司教の権能による、感情の共有などですらなかった。


 ――リリアナが賜った天からの贈り物、『伝心の加護』の本当の開花だ。


 これまで無意識的であったその加護の力が、この瞬間に達して初めて本来の力を発揮する。それは彼女の歌い手としての実力と、今このときにその全てをなげうっても構わないという覚悟に後押しされ、莫大な力となって都市に降り注いだ。


 無論、リリアナにその自覚はない。

 そして事実がそうであることを、無粋に彼女に説明するものもこの場にいない。


 リリアナはただひたすらに、全霊を込めて歌っている。

 吟遊詩人となって、歌の全てを注ぎ込んで、この瞬間の全てに全部を預けて。


 ここに確かに、プリステラの『歌姫』の歌は響いていたのだ。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「――やはり、アレを見込んだ妾の目は確かであったな」


 内側に太陽を孕んだように赤熱する陽剣、それを握るプリシラは笑っていた。


 歌声はプリシラの耳にも届いている。

 白く燃える制御搭を舞台として、リリアナは最高の歌声を張り上げていた。


 如何に陽剣の炎が燃やすモノを選ぶ炎であるとはいえ、炎が孕む熱は偽りのものではない。制御搭の中は蒸し焼きになるほど熱く、熱された石塔は高熱を帯びている。今この瞬間にだって、飛び降りたくなるほど熱くてたまらないはずだ。


 それなのに、リリアナの感情の全てが伝搬しているはずのこの歌声を聞いても、その苦しみへの泣き言や苦痛への強がりは微塵も感じられない。

 感じていないわけではないはずだ。ただ、純粋に痛みを歌が凌駕している。


 これは実に馬鹿な結論だ。馬鹿にしかできない、馬鹿の極み。

 才ある馬鹿の究極こそが、道理を覆すほど馬鹿な結果を生むという証左。


「アレの馬鹿さは小気味よい。愚かと馬鹿は似て非なるものよ。愚かに生きる価値はないが、馬鹿には愉快という取り柄がある。あれはその上、愉快以上の価値を己で証明してみせた。よって、その行いに褒美を与える」


 プリシラの述懐を聞き終えるより前に、頭上と左から燃える鉄鎖が迫る。炎を帯びる鉄の蛇の顎は、足を止めたプリシラへ向かって一直線だ。

 無粋にして不細工の極みと、プリシラはそれに鼻を鳴らす。


 陽剣を振り上げ、その赤い刀身を斜めに一閃。

 上、左の二方向からの攻撃の軌道上に同時に割り込むことで、迫る鉄鎖は一振りで強引に切り払われる。軽やかな音がほとんど同時に二つ鳴り、輝きに対して怪人の憎々しげな舌打ちが鳴った。


「お前もあの娘もいちいち煩わしい! 私とあの娘で何が違う! 手段は違えどもその本質は同じ! 一つのもので通じ合う、その証明でしかないだろうが!」


 シリウスが声高に叫び、焼き切られた鎖の先端を引き寄せる。

 腕を回し、怒りのままに炎を噴き上げ、羽織るコートの裾を熱波に揺らめかせる怪人の血走った目は、燃える制御搭の上で踊るリリアナへと向けられていた。


 リリアナの『伝心の加護』の本領はすさまじく、その余波は怪人にも及んでいる。

 他者の感情の変化に敏感な怪人にも、その歌の結果は齟齬なく伝わっているのだ。


 怪人がその精神に根付かせた『憤怒』の呪縛から、住人たちが解放される。

 いまだ白く燃える水路の外側で、棒立ちの人々の目には狂気の色はない。彼らの瞳を満たすのは激情ではなく、うっすらと浮かぶ涙のみ。

 その涙が何の感情を発端としたものなのか、その複雑怪奇なものを怪人が拾い上げることはできない。一つとして定まらず、揺れ動き続けるからだ。


「あの人が、あの人さえいれば証明できるのに……! なんで私の前にお前たちはそうやって立ちはだかる! 人は求め合い、一つになりたがるものだろうが! そうやって世界は続いてきた! なのに!」


「歌の一つをとっても、その感じ方は千差万別。名歌に聞き惚れ、『素晴らしい』とする一言に込める意味すら違う。やかましく感情がどうと喚き立てるわりに、もっとも肝心の部分への理解が浅はか……それを愚かとそう呼ぶのであろうが」


「うぅぅぅるっさいんだよぉ!!」


 プリシラの容赦ない発言に目を見開き、シリウスが吠えながら両腕を合わせた。重ね合う掌で鎖が鳴り、両の手がそれぞれの腕に絡みつく鎖を強引に引き剥がす。

 腕の皮が剥げ、肉が削がれ、痛みを伴う行いを以て、シリウスが自らの両腕を開放し、引き剥がした鎖を束ねて猛然と振り回す。


 振り回される鎖の回転に炎が乗り、渦巻くそれが鎖の回転幅の最大まで拡大。

 灼熱の業火が円盤と化し、すさまじい熱量にシリウス自身にも炎が燃え移った。


「まさかその包帯、かような真似が原因で巻いたモノではあるまいな?」


 包帯の理由が火傷で、その原因が眼前のそれなら愚挙以外の何物でもない。

 これまでで最大威力、最大の脅威を前にして、しかしプリシラの態度は崩れない。


 二本の炎蛇、それらを合わせた強大な炎、さらにそれを上回る大火力。

 浴びれば間違いなく、影も残らぬ炎の渦をプリシラは退屈そうに眺める。


「感情の震え……激しい心の情動、すなわち激情、すなわち『憤怒』!」


 嫌悪し、忌むべきものとした感情に身を任せ、シリウスの炎が熱波と化す。

 回転の勢いそのままに叩きつけられる炎は、もはや鉄鎖の体裁は為していない。炎が放たれた時点で、それを伝える鎖の役目は終わっているのだ。

 役目を終えた鎖があっという間に溶けてなくなり、ただ炎の塊だけがプリシラへ向かって押し寄せる。視界どころか世界を覆うようにすら思える灼熱の塊は、もはや空から雲が落ちてきたに等しい範囲攻撃だ。


 回避は不可能、防御などそのまま呑み込まれる。

 炎そのものに対して、ならば出来得ることはたった一つしかない。


「――我が意こそが天意なれば、陽剣の極光もまたそれに従う」


 迫りくる炎の波に、プリシラは陽剣を構えた。

 これまでの型のない適当なものではなく、剣を上段へと振り被って。


「消し飛べ――ッ!!」


「――――」


 衝突の瞬間、シリウスが炎の向こう側にいるプリシラへと憎悪を吐く。

 その怒りをプリシラは聞き流した。彼女の耳に届くのは、歌声だけだ。


 そのまま熱波にその身が呑まれる刹那、陽剣に変化が生じる。

 それまであらゆる宝石もかくやとばかりに光り輝いていた宝剣、その光が唐突に失われて、紅の拵えと赤い刀身だけがプリシラの手に残った。


 そしてそのまま、光をなくした剣が炎へと叩きつけられたのだ。


「――――」


 宝剣の輝きを失い、剣は神々しさと無縁の鋼へと成り下がる。

 故にその剣に迫りくる炎を退けるだけの力などない、その場を客観視する誰かがいればそのような感想を抱いたかもしれない。


 ――しかし、結果は真逆に終わる。


「――とくと喰らえ」


 陽剣を振り切ったプリシラの囁きは、炎に呑まれて消えるはずだった。

 だが、彼女の存在は囁きをこぼした今も消えていない。それどころか、彼女の全身には熱波の余韻すらなく、美しく健在したままだった。


 あれだけの火力を誇った炎の波も、その名残すら残さず掻き消えている。

 その炎がどこへ消えてしまったのか、再び輝きを取り戻した陽剣だけが知っていると言わんばかりに。


「む――」


 陽剣を握り直した直後、プリシラの表情が変わった。

 不敵な笑みを浮かべた頬が固くなり、彼女は舌打ちを堪えた顔で走り出す。


 視線の先にあるのは、彼女より早く走り出したシリウスの背中だ。

 猛然と走る怪人の健脚は、プリシラから一気に遠ざかっている。その走り出しは明らかに、先の炎の結果を見ていない走りだ。

 つまりシリウスの狙いは最初からプリシラではなく、


「その耳障りな歌をやめろ――ッ! 私とあの人の『憤怒』を、身勝手に否定なんてするんじゃぁない――ッ!」


 血走った目のシリウスが一直線に、リリアナの歌う制御搭へと向かう。

 制御搭を取り巻く白い炎は、リリアナにだけ自由を許した炎だ。シリウスが飛び込んだところで、その火力に全身を焼き尽くされることは確実。

 そのぐらいは怪人も理解しているだろう。ならばその狙いは、


「愚物が、妾のモノに何をする――!」


 踏み切り、爆発的な推進力を得たプリシラの体が広場を縦断する。シリウスの速度も大したものだが、プリシラのそれはさらに怪人を上回った。

 最初に得ていたシリウスのアドバンテージが消滅し、プリシラはその怪人の背中に向かって陽剣を振り上げる。防ごうにも怪人はすでに得物を失っている。両腕の鎖がない以上、プリシラの剣を受ける手段はない。


「止まれ、俗物――っ」


「やかましぃぞ、お前が止まれ!!」


「――ッ!?」


 陽剣がシリウスを斜めに両断する直前、プリシラの体が中空で制止する。全身が固まったように無理やりに固定され、プリシラは意識外の驚愕に喉を詰まらせた。

 そこにシリウスが足を振り上げる。めくれ上がるズボンの裾から、この戦いの間にすっかり聞き慣れた鎖の音が聞こえて――。


「るるるぅぅぅぁぁぁあああ!」


「ちぃッ!」


 腕ではなく、足に巻かれた鉄鎖の一撃が動きの止まったプリシラを直撃する。

 全身の動きを止められた上での攻撃は、今度は防ぎようがなかった。


 腕のときの数倍の速度と威力を伴う鉄鎖の猛撃が、プリシラの端正な顔を真正面から爆ぜさせる。肉に鋼が叩きつけられる衝突音が鳴り、プリシラの橙色の髪を束ねていたバレッタが弾け飛び、美しい髪が広がる。

 下ろした顔に傷はない。しかし、彼女のプライドは傷付けられた。


 威力を殺しきれずに後ろへ弾かれて、シリウスとの距離も開いている。

 その間にシリウスは制御搭への接近を果たしており、プリシラを弾いたものと同じ足の鎖に常識外の動きで体重と渾身の力を込め、放つ。


 炎を取り巻く大蛇が制御搭をすさまじい勢いで横薙ぎにし、その石塔の根幹が一発で轟音を上げて破壊される。砕け散り、崩落し、石塔の建材のことごとくが炎の波に呑まれて、膨大な火力を受けて傾いていく。


 ――リリアナを乗せたまま、石塔がその形勢を一気に傾け、崩れる。


 橙色の髪を背中に広げたプリシラは、崩れ落ちる制御搭に目を見開いた。

 シリウスの姿は見える。傾く制御搭の頂上、リリアナの姿は見えない。


 だが、リリアナの歌は続いている。足下が崩れ、崩壊に巻き込まれる今も。

 リリアナは自らの役割に徹し、住人の心を自らの虜にし続けていた。


「――その意、大義である!」


 踏み込み、プリシラは迷わずシリウスへ向かって前進した。

 リリアナの歌が途切れれば、住人の心は再びシリウスの影響下に舞い戻る。一瞬の判断を下した。陽剣が輝きを増し、プリシラの一足で石畳が爆ぜる。


「薄情者の利己主義者が! 他人に共感できない自分を正当化するな! 人と繋がれないお前が欠陥品なだけで、分かり合い、溶け合うことが人の本分なんだよ!」


「俗物が」


 制御搭を破壊したシリウスが、自分に飛び込む選択をしたプリシラを罵る。

 跳躍し、踵を振り下ろす勢いで鉄鎖が打ち落とされる。衝撃、遅れて走る炎が爆裂を生み、爆風に走るプリシラの体が弾かれる。踏みとどまり、前進。

 熱波を浴びながら、プリシラの紅の瞳は揺るがない。


 シリウスの狂気も同様だ。すでに怪人の精神は、他者の声など聞き入れない。

 完結している。どちらも価値感が、故に二人は絶対に相容れない。


「――――」


 傾く制御搭が激しい音を立てて、破壊に巻き込まれる石塊が飛び散り、噴煙が炎を巻いて撒き散らされて、広場は灼熱の地獄と化していく。

 制御搭の倒れ込む側の水路にいる人々が、涙を流して悲鳴を上げながら逃げる。だが涙は悲しみではない。もっと別のもののために、歌声のために流されるものだ。


「愛は一つになることだ――!」


「違うな。――愛は違ってもいいと寛容に受け入れることよ。皆が皆、同じ方を見て同じように思い、同じように感じるなど虫唾が走る」


 横薙ぎの鎖を屈んで回避し、プリシラが低い姿勢で飛ぶ。

 舌打ちするシリウスが炎の壁をいくつも生み出し、その道を遮るが、そのことごとくを陽剣が切り裂き、赤い刀身が飲み干す。


 距離が縮まり、鎖の打撃が勢いと数を増す。

 鋼と鋼のぶつかり合いの音が、倒壊する制御搭の轟音にかき消される。その快音の中を駆け抜け、ついにプリシラの勢いがシリウスへ届いた。


「終わりじゃ」


「――さぁ、どうかなぁ!?」


 振り上げた陽剣を叩きつける刹那、シリウスが自らのコートの前を開く。

 露わになった怪人の懐、そこには手足と同じようにぎっちりと鎖が巻かれており、その胴体に巻きつく鎖には金色の巻き毛の少女が括りつけられていて――。


「ん~~っ!」


 その少女の名前がティーナであり、この動乱が始まって以来、ずっとシリウスに捕えられたままの少女であったことを、プリシラは知る由もない。

 『憤怒』攻略にあたり、スバルが開示した情報の中に彼女のこともあったのだが、その事実は瑣末なものとプリシラの脳には捉えられていた。


 故に、プリシラはその見せつけられた人質に対しても、何ら躊躇しない。

 叩きつけられる刃は勢いをゆるめることなく、ティーナごとシリウスの体を斜めに走り抜けた。凄まじい熱量を誇る陽剣の刀身は、体を守る鎖を音すら立てずに切り裂き、両断し、その目的を達成する。


「――あら、ら?」


「妾の陽剣は焼きたいモノを焼き、斬りたいモノを斬る」


 鎖が切り裂かれ、拘束されていた少女の体が自由になる。その場に膝から崩れ落ちた少女は涙で汚れた顔を上げ、自分の体を撫でた剣の感触に唖然とする。

 その幼い少女の体に、残酷な刃の傷口はどこにもなかった。


 代わりに血を噴いたのは、斬撃を浴びて後ずさるシリウスだ。

 怪人は自分の傷を見下ろし、ゆるゆると首を振ってプリシラを見つめると、


「この痛み……あなたは?」


「貴様の痛みを妾が感じる理由があるか? 一つになりたいなどと知ったことか。貴様は妄言を抱えたまま、一人で死ぬがいい」


 傾げた怪人の首に、プリシラの陽剣が横殴りに叩きつけられた。

 凄まじい音と勢いを伴って、シリウスの体が石畳を跳ね、血を撒き散らし、吹っ飛んでいって水路へと投げ出され、落ちる。


 水音が上がり、プリシラは陽剣をジッと眺めた。


「日照が終わり、日輪が陰ったか。ずいぶんと手こずらされたものじゃ」


 言い切った直後、倒壊する制御搭が完全に崩落しきった。大部分が瓦礫と化し、リリアナがいたはずの上階部分もその崩壊の余波を受け、大破している。

 水路の上に倒れ込むような形で崩壊した制御搭――当然、歌はもう聞こえない。


「……ぁ、の」


 その瓦礫の山を見て、目を細めていたプリシラを幼い声が呼んだ。

 ティーナだ。彼女は自由になったことがまだ信じ切れない顔でいたが、自分を見下ろすプリシラの目に体を震わせ、涙をぽろぽろと流した。


 その姿にプリシラは吐息をこぼす。陽剣はすでに消えていた。

 水路を燃やしていた白い炎も掻き消えて、大勢の人々がこちらへやってくる。何人かは倒壊した瓦礫の山へ向かい、呑まれた歌姫を探す心積もりのようだ。


「騒がしき夜に、騒がしき連中よ。この場にこそ詩曲の出番であろうに、怠慢以外の何物でもないな。――つまらぬことよ」


 普段通りに退屈そうに、しかしその退屈に幾分の感情を込めて。

 プリシラは泣きじゃくる幼子に背を向け、水路を眺めながらこぼした。


「だが、悪くはなかった。褒めてつかわす」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※













 ゆっくりゆっくりと、水の流れのままに流されておりました。

 全身がだるくて、気力もすっからかんの有様で、なんと言ったらいいのか満身創痍? つまりはそんな感じでして、身動きもできません。


「あーー、うーー」


 喉も完全に消耗しきり、指先一本動きません。

 幸い、吟遊詩人の衣装は露出が多くて布地が少ないので、水路に落ちたところであまり水を吸って重くなることがないのが命綱。

 今の泳ぐ体力が残っていない私にしてみれば、なんとか浮かんでいるだけでも恩の字といったところでしょうか。まぁ、本当の本当にこのまま流されっぱなしだと、いずれ体の熱が冷めきってしまって大変なことになりますけどねっ!

 あ、心中の声で大声出すのも辛い。もうこのまま眠りたい。死んじゃうけど。


「いーー、えーー」


 燃える制御搭、メラメラ火力。

 全身がずっと燻されてるみたいな状態だったので、最初は水路に落ちたときもひんやり気持ちいいかもなんて思ってましたが、なんだかそろそろ冷たさも感じないぐらいの塩梅で、ええまあ、けっこうヤバいかなって。


 ヤバさで言ったらそもそも、崩れる石塔から脱出しないで、水に滑落するまで歌いっぱなしだったあの精神状態の方がよっぽどヤバそうでしたけどね。

 だってだって、すんごい気持ちよかったんですもん。あのときのために生きてきたんじゃないかと、そう思わされるぐらいの勢いでして。


 実際、私のそれが勘違いじゃなくて、うまくいっていたらいいんですが。

 とりあえず首がついているので、プリシラ様がやられていない限りはうまくいったということなのではないでしょうか。それなら、よかった。


 うん、それなら、まぁ、いいでしょう。

 まだまだ吟遊詩人として、叶えなくてはならない野心はてんこ盛りの私でしたが、ある意味ではやり遂げるべき場でやり遂げられたということで。

 歴史に残る歌を歌うなんて目的は果たせなかったかもしれませんが、あの場にいる人たちが救われてくれたんなら、その一助として家庭の食卓の話題に上がるくらいの足跡は残せたのではないかと、そのぐらいは期待しても。


「おーー、おーー」


 ちなみにさっきから変な声を上げているのは、一応、私がここにいるよという合図の意味と、肺でも震わせておかないと体中が力尽きそうな感じのためです。

 私が私である証明は、やっぱりどっちも声に終始する。そんな塩梅で。でもそれもそろそろ、終わりかもなぁと。


 色々とありましたが、総合的に見て楽しい人生でした。

 では、今までどうもありが――ごぶぇ!?


「いだっ! いだだっ! 頭頂部に痛烈な何かの痛みがっ」


「む!? 今のはいったい、やや!? リリアナ!?」


 頭がなんか猛烈にごっつんこしてすげえ痛い思いをしたと思ったら、なんかどうやら水路に浮かんでいた小舟か何かにぶつかったみたいで。

 しかもその小舟の上から聞こえたのは、聞き覚えのある男の人の声で。


「もしかして、キリタカさんですかぁ?」


「やはり、リリアナ! 再会できて嬉しいよ! でもなぜ水路に!? いや、とにかく引き上げる。待っていてくれたまえ!」


 船上のキリタカさんがバタバタ暴れて、船がぎっこんぎっこん揺れます。水路の流れに乗る私の体をせき止めてるのがその船なので、正直、だいぶ痛いです。

 痛いんですが、その苦鳴を上げるのを忘れるぐらい私は驚いていました。


 いやだって、ねえ、この流れでキリタカさんに拾われるって、あーた。

 バツが悪いったらありませんよ、ホント。


「もう、少し……よし、上がった!」


 キリタカさんが、浮かぶ私の脇に両手を突っ込んで引っ張り上げます。そのときに胸に手が当たっていたんですが、まぁ、怒る気力がないので今はいいでしょう。

 船の上に引き上げられて、私はそれでも動けずだらーっとしていました。


「体がだいぶ冷たくなっている。待っていてくれ、リリアナ。今、火の魔鉱石を加熱する。それと、濡れた体ではいけないから」


 タオルケットを持ってきて、グシグシと髪やら顔やらを拭かれました。

 その手つきが意外と優しくて、紳士ぶってるのも伊達じゃないんだなぁなんて思ったりもして、そしたら急に安堵感が押し寄せてきて、息が抜けました。


「キリタカさん……今まで、何してたんですかぁ?」


「私……僕かい? それは色々と、うむ、都市奪還のために活躍をね!」


 自慢の前髪をかき上げて、たぶん歯なんか光らせてるんじゃないでしょうか。

 目を開けてる元気がないので見えませんけど、目に浮かびます。


 だからついついおかしくなって笑ってしまって、キリタカさんが驚く気配。

 そのキリタカさんの色々も聞きたいし、私の色々も話したいんですが。

 今はもうとにかく眠くて、でも、これだけは言っておきたくて。


「すごく眠いんで、今からちょっと、寝ます、私……」


「あ、ああ、わかった。安全なところへ運ぶから、心配しないでほしい」


「寝てる私に、イタズラしないでいられたら……もっと、お話しましょう……」


「うええ!?」


 しないでしょうけど、言っておくだけです。

 目が覚めたらきっと、照れ臭いことも言ってしまいそうなので、それまでの間だけでも困っていてください。


 ――あなたの『歌姫』で良かったなんて、そのぐらいの準備はいるんですから。



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