ちょっと時節の遅れた感もありますが、中日新聞に載ったフェミニズムの権威である上野千鶴子氏のインタビュー記事が批判を呼びました。インタビュー記事ということで、まとめ方がまずかったのではという推測もありましたが、移民連の公開質問への回答から考えてそうではなさそうです。
『中日新聞・東京新聞』2/11付け「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野の発言、
「平等に貧しくなろう」
に対して、移住連こと特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク・貧困対策プロジェクトから公開質問状を受け取りました。
(中略)
 日本の人口推計によれば2060年の人口推計は8674万人、人口規模1億人を維持しようと思えば1.3千万人の社会増(移民の導入)が必要となります。つまり40年間にわたって毎年およそ30万人、中都市の人口規模にあたる外国人を移民として迎えることを意味します。現在の1億2千万規模を維持したいなら3千万、およそ半世紀後に人口の1-3割が外国人という社会を構想するかどうかが問われています。
 出生率を政治的にコントロールすることはできないし、すべきではありませんが、移民は政治的に選択することができます。2000年代に入ってから経団連は「移民1000万人時代」(これまで「外国人」という用語を使い、「移民」と言ってきたことがなかったので、驚きでした)をうたい、政府は家事・介護労働市場への外国人の導入を検討しています。今のところいずれも及び腰ですが、この先、「この国のかたち」をどうするかについて、政策が提示されれば、わたしたち有権者も、それに対して賛否の判断をしなければなりません。
 現実には日本にはすでに相当数の外国人労働者が入ってきており、外国人労働力依存の高い業種があること、その外国人労働者が技能実習生制度等のもとで不当な取り扱いを受けていること、外国人の犯罪率は人口比からいうと日本人よりは低いこと…等はデータから承知しております。
 ですが、移民先進国で現在同時多発的に起きている「移民排斥」の動きにわたしは危機感を持っておりますし、日本も例外とは思えません。これから先、仮に「大量移民時代」を迎えるとしたら、移民が社会移動から切り離されてサバルタン(引用者注:権力構造から疎外された人々)化することや、それを通じて暴動やテロが発生すること(フランスのように…と書けばよかったんですね、事実ですから)、ネオナチのような排外主義や暴力的な攻撃が増大すること(ドイツのように)、排外主義的な政治的リーダーが影響力を持つようになること(イギリスのように)、また移民家事労働者の差別や虐待が起きること(シンガポールのように)などが、日本で起きないとは思えません。(なお移民国家であるアメリカとカナダは国の来歴が違うので、比較対象にするのは困難です。)それどころか移民先進国であるこれらの諸外国が直面している問題を、日本がそれ以上にうまくハンドリングできるとはとうてい思えません。それはすでに移民先進国の経験が教え、日本のこれまでの外国人への取り扱いの過去が教える悲観的な予測からです。
 人口減少か大量移民か? ちづこのブログNo.113-WAN
 これらの発言、見解に関してはフェミニズム、移民問題の観点などから上野氏の回答を掲載したサイトでも優れた批判(『移民問題は、「選択の問題」か?--上野さんの回答を読んで 岡野八代』など)がなされているのでそちらに譲るとして、この記事では上野氏の主張の前提となっている「移民(あるいは難民)が増えると治安が悪化する」という主張が、果たして本当に上野氏の主張する通り自明であるかという議論をします。

 前提
 まず議論の前提として、移民・難民の増加が社会に影響を与えるという話をするときには、3つの段階があります。この3段階を整理して理解しないと「移民や難民の増加が治安に影響する」という言説を適切に解釈できません。
 なおここでの議論では移民と難民を「何らかの理由で日本に入流する外国人」として同様に扱います。
 3つの段階の1つ目は「単に人口が増える」というものです。移民や難民が日本に来れば人数が増えるのは当たり前です。
 2つ目の段階は「経済的・社会的資本に乏しい人が増える」段階です。移民・難民として日本に来る事情を考えると、金銭面で困難を抱えている人は少なくないでしょう。また新天地にやってくる以上社会関係資本も少なくなりがちです。
 3つ目の段階は「特定の民族的ルーツを持つ外国人が増える」段階です。これは難民を受け入れた結果中東の人が増えるとか、そういう話です。

 1段階目
 わざわざ移民・難民の増加を3つの段階に分けるのは、彼らの増加が治安に影響を与える、つまり彼らの増加のために犯罪も増加するという上野氏の主張、あるいは移民排斥論に典型的な議論を精密に考察するためです。
 まず、移民や難民を受け入れればその国の人口が増えます。これが1段階目です。
 人口が増えれば、その増えた人々の犯罪率がどうであれ犯罪の絶対数は増加します。人が増えているのだから当たり前です。故に、第1段階に注目する限り「移民・難民の増加が犯罪を増加させる」という言説には意味がありません。別に移民や難民でなくとも人が増えれば犯罪も増えるからです。

 2段階目
 しかし、そんな間抜けな理由で移民や難民を排斥する人は多分いないでしょう。なので、2段階目からの話が重要になってきます。
 2段階目、つまり「経済的・社会的資本に乏しい人が増える」段階です。犯罪学的にはこのような資本に乏しい人が犯罪に走りやすいことが知られているので、このような層が増えることで犯罪が増加するというのはいかにもありそうなことです。
 では、これを理由に移民や難民の流入を禁じることに意味があるのでしょうか。恐らくないでしょう。というのも、別に移民や難民が入ってこなくても政府が無能なら「経済的・社会的資本に乏しい人が増える」ということは起こりうるからです(ていうか今まさに起こっている)。逆に言えば政府が有能でそのような境遇にある人の問題を解決できるのであれば、このような理由で犯罪が増えることもないでしょう。
 要するにこの理由によって増減する犯罪というのは第1段階で述べたものと同様に移民や難民の有無にかかわらないものであって、これを理由に移民や難民の入流を阻止しようというのは理屈が通りません。

 3段階目
 最後が、「特定の民族的ルーツを持つ外国人が増える」段階です。これは「韓国人は犯罪者ばかりだ!」みたいなヘイトスピーチを想像してもらうとわかりやすいでしょう。
 この理屈が科学的に証明されていないことは既に述べてきました。というか、人種間よりも人種内での差の方が大きいと今では言われているので、あまり意味のある比較ではないような気もしますが。

 これはすでに起きている
 既に批判者の多くが指摘していることですが、上野氏の見解において一番の問題点が、移民関連の問題が日本でも「起きうる」という認識です。
 いや、既に起きているのです。
 とっくの昔に排外主義の差別主義者が国や地方の首長になり、ネオナチと思想を同じくするヘイト団体は大手を振るって道を歩き、外国から来た実習生という名の労働者が虐待されているのです。日本で虐げられた彼らによるテロが発生していないのは全くもって幸運としか言いようがない状況でしょう。それともテロを起こさせないくらい徹底的に虐げたんでしょうか。
 このような状況下で、氏が言うように移民や難民がサバルタン化したとして、その責任は彼らに帰せられるものなのでしょうか。このような社会を形作った我々にこそ帰せられる問題でしょう。
 多くの批判者が主張するように、この問題は「移民・難民問題」というよりは我々の問題であり、その面では「日本人問題」と言った方が正確かもしれません。我々の問題を立場の弱いマイノリティに押し付けるかたちで脇に置いておくという手法は、それこそ性差別問題で女性が男性にされてきたことの焼き直しであるはずですが。