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特集

『インドラネット』刊行記念対談 桐野夏生×高野秀行(ノンフィクション作家) 世界はもっと邪悪だと思う

取材・文:吉田大助 撮影:ホンゴユウジ 

『インドラネット』刊行記念対談 桐野夏生×高野秀行

これは、舞台がカンボジアだったからこそ書けた物語。
東京でぼんやりと日々の暮らしをやり過ごしていた、20代半ばの青年・八目晃。高校時代の親友であり長らく音信不通だった美青年・空知とその姉妹──美しき三きょうだいを捜すため、一念発起してカンボジアへと旅に出る。かの国の「闇の奥」へと迫る桐野夏生の最新長編『インドラネット』を、世界の「辺境」を旅し続けるノンフィクション作家の高野秀行はどう読んだのか? 対談は「邪悪」というキーワードで幕を開けた。

同化ではなく、異化
不安を掻き立てられる主人公像


高野:『インドラネット』を読ませていただいて、桐野夏生の小説は桐野夏生という作家にしか書けないものだな、と改めて痛感しました。邪悪な人ばっかり出てくるじゃないですか。なおかつ、プチ邪悪からミディアム邪悪、グレート邪悪まで、いろんなグラデーションが書き分けられている。邪悪なものを書かせたら、桐野さんの右に出る者はいない。堪能しました。


桐野:そんなに邪悪でしたか?(笑) 私は別に、普通に書いているつもりなんですよ。ただ、特に最近、世界全体がシンプルじゃなくなってきてるでしょう。裕福な国が貧乏な国を当たり前のように搾取したり、貧乏な国の人に奴隷労働をさせたり、どんどん悪辣に、邪悪になってると思うんです。


高野:本人としては、そのリアリティを書いているだけ?


桐野:そうですね、描き切れてはいないと思いますけど。世界はもっともっと邪悪だと思います。


高野:世界にはいろいろな邪悪が存在する中で、今回の小説はカンボジアを舞台にされていますよね。実は、カンボジアは僕も結構行っているんですけど、あの国のことはほとんど書いたことがないんです。『辺境メシ』というエッセイ集で、カンボジアの屋台でタランチュラのフライを食べた、という単発ネタを書いたぐらいかもしれない。


桐野:どうして書かれていないのですか?


高野:いいストーリーができなかったんですよ。カンボジアの地雷除去のグループについて行って取材したり、メコン川沿いに遡って旅をしたりしたんですけどね。ノンフィクションと言っても僕が書いているものは文芸的なものなので、いいストーリーが浮かばなければ書けないんですよね。


桐野:私の場合は、海外でいなくなった友達を捜しに行く、というありがちな話を一回やってみるのはどうかな、という思い付きがきっかけでした。編集の方から「とりあえずどこかへ行きましょう!」と言われ、私はアンコール・ワットを見たことがなかったから、カンボジアへ行くことになった。自分でもおそろしいぐらい、何の構想もなく始まった話です(笑)。


高野:取材はどのぐらい行かれたんですか?


桐野:カンボジアは一泊だけですね。アンコール・ワットがあるシェムリアップの町をぶらぶらして、その後すぐにベトナムへ。取材旅行とは言っても全三泊の強行スケジュールでしたし、ただの観光旅行に近いです。高野さんはいつも海外に長期滞在して、大変な思いをして文章を書かれているのに申し訳ない。


高野:いや、それでこのストーリーを掴んだというのはさすがですよね。これは参ったなと思ったのが、主人公がものすごくダメなやつじゃないですか。判断力が異常に低い。会ってまだ間もない人にパスポートを預けてしまい、言っても返してもらえないんだけどどうしよう……という状況で、パスポートがなくても別にいいか、カンボジア人として生きるのもいいかもとなっちゃう、とか。そもそも普通は海外で人を捜すってなったら、ただ行ったって見つからないし、もうちょっと事前にいろいろ調べると思うんだけれども、それをしない。読んでいてものすごく不安感を掻き立てられるんです。でも、それが読者にとって独特な吸引力になっている。


桐野:主人公は大概の場合、もう少しましな、読者にとって同化しやすいキャラクターにするのだと思います。でも、晃はミソジニーだったり、弱いところがたくさんある。私としては、割と主人公に同化していくのではなく、こんなやつが?と、異化する方向で書いていくことが多いです。


高野:日本の小説って、傾向として主人公に優しいですよね。良くも悪くも優しくて読者の共感を呼ぶんだけれども、そのぶん優しいというのかぬるい感じでストーリーが進んでいく。でも、桐野さんの小説は違う。主人公の突き放し方が徹底している。



繁華街の電飾の中から溢れ出す
カンボジアの現代的な邪悪


桐野:カンボジアの描写に関して、違和感はありましたか?


高野:僕が行ったのはもうだいぶ前ですからね。最後に行ったのが2000年代半ばぐらい。今はどうなってるのか、よくわからないんです。


桐野:私もまったく知らない場所でしたので、だから興味が湧いた、というところもありました。カンボジアといえばポル・ポト政権時代のキリング・フィールド(※カンボジア人の大量虐殺が行われた刑場跡)に象徴される、暗くて怖いイメージがあったんです。でも、ネットで写真を見ると高層ビルがにょきにょき建っているし、現地の人のブログを読むと、どこそこにこんな素敵なクラブができたよ、と。ものすごくおしゃれな報告がある。でも、シェムリアップにあるパブストリートという繁華街を実際に歩いてみたら、ギラギラした電飾の中に、昔とはまた違う邪悪さを感じました。一気に何かを飛び越えたような。ガンガン鳴り響くいろいろな国の音楽の中に、害毒が滴っていた。


高野:僕が旅をしていた頃、カンボジアって東南アジアで一番カオスなところだったんです。今も変わっていないのかもしれない。なぜかと言うと、カンボジアは経済発展が東南アジアの中では一番遅れてるということと、あとは資本主義だってこともあると思うんです。例えば、経済発展の度合いで言えば、東南アジアのラオスも同じようなものなんですが……。


桐野:ラオスは、社会主義ですものね。


高野:そうなんです。社会主義下の統制があるので、そこまで経済によって社会がぐちゃぐちゃにはならない。カンボジアはそういう統制がないから、カオスですね。小説の中で、木村という金持ちの怪しい日本人が出てきますよね。ああいう人間は、実際にいますね、間違いなく。


桐野:木村はカンボジアの日本人会を取り仕切っていて、政府とも近い。要するに、現地の利権に食い込んでいる男ですね。


高野:日本人はどこの国でもすぐ、現地の権力者にべったりするんです。そこで利権さえ得られればなんでもいいってタイプの人や企業が非常に多い。


桐野:もしかしたら、この小説の中で一番、邪悪な人かもしれない。


高野:にもかかわらず主人公の八目くんは、木村と出会っても危険な相手だとは思わず、彼の屋敷でのんびり日本食を満喫する。しかも、1ヶ月近くも(笑)。


桐野:面白い子ですよね。って、自分が書いたのに。


高野:木村が出てきたあたりから、このお話はこれからコンラッドの『闇の奥』みたいになっていくのかな、という予感が生じました。


桐野:バレましたか。(『闇の奥』を原案にした映画)『地獄の黙示録』、大好きなんです。


高野:カンボジアのカオスの「奥」に分け入っていく話になるんじゃないかなと予想はしていたんですが、終盤でまさかこんな展開になるとは思わなかった。


桐野:私も思いませんでした(笑)。あちらの政治経済の情勢を調べていくうちに、これだったらあり得るかな、と捻り出したものだったんです。


高野:この物語は、舞台がカンボジアだからこそ書けたものだなとつくづく感じます。



悲惨な歴史を辿ってきたにもかかわらず
こんなにも「人がいい」のはなぜだ?


高野:カンボジアには2つの面があると思うんです。1つには、これまで話してきたような邪悪さ、ダークサイドの部分。もう1つは、カンボジアの人たちって本当にいい人たちが多いんですよ。先ほどちょっとお話ししましたけど、ベトナムから入ってメコン川をさかのぼる形で旅した時にそれを実感したんです。ベトナム人は、こちらが話しかけたり写真を撮ろうとしたり、要は一歩近づくと、向こうも一歩近づいてくるんです。隣のカンボジアに行くと、一歩近づいてもニコニコしているだけで全く動かないんですよね。さらに上流のラオスに行くと、一歩近づくと、向こうが一歩下がるんです。


桐野:カンボジアは、ちょうど中間のリアクションなんだ。


高野:そうなんです。ラオス人はカンボジア人と同じように素朴なんですけども、そうは言っても距離を取るんですよ、知らない人相手だと。カンボジア人は本当に無警戒というか、優しくて人がいい。そういった面も、桐野さんの小説に出てきますよね。例えば、八目くんが根城にしたゲストハウスの隣で、食堂を営んでいるニェット婆さん。八目くんを無償で何かと気にかけてくれるし、カンボジアのことをいろいろ教えてくれる。


桐野:ああいう人、いそうですよね。ニェット婆さんの身の上話は、あちらで取材させていただいた方から伺った体験談が元になっています。その方は、ポル・ポト政権下での少年時代に父が処刑され、兄二人は行方不明。自分は更生労働キャンプに送られたんだけれども、国境線を越えてタイに逃げた、と。その後、日本にいらして苦学されるのです。


高野:あのエピソードには異様なリアリティがありましたが、実話だったんですね。本当に不思議だなと思うのは、それだけ悲惨な目に遭っている、悲惨な歴史を辿ってきた人たちにもかかわらず、いい人がすごく多いということなんです。アフガニスタンを取材した時にもそう思ったんですが、あんなに長く内戦とかテロとか起こしているんだけれども、現地の方はものすごくいい人が多い。


桐野:みなさん、人として強いのではないでしょうか。


高野:ええ。誰にでも邪悪な部分はあるんだけども、誠実な部分も確実にある。誠実さって、有力なサバイバルテクニックなのかもしれません。


桐野:私もそう思います。邪悪って、結構危険ですよね。攻撃されるし、恨まれる。誠実さを持って生き抜いていく、そういう技術を磨いた人たちも一方ではいるはずです。


高野:その技術としての誠実さを体系化したものが、道徳とか倫理と呼ばれるんでしょうね。


桐野:お話を伺いながら、次は誠実な人が主人公の話を書きたくなってきました(笑)。


高野:おおっ!! でも桐野さんのことだから、その誠実さの裏にはとんでもない邪悪が……となっていきそうですよね(笑)。


桐野:どうかしら? 楽しみにしていてください(笑)。



桐野夏生(きりの なつお)

1951年生まれ。93年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を受賞。99年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、04年『残虐記』で柴田錬三郎賞、08年『東京島』で谷崎潤一郎賞、09年『女神記』で紫式部文学賞、10年、11年『ナニカアル』で島清恋愛文学賞と読売文学賞の二賞を受賞など、数多の文学賞を受賞。15年紫綬褒章を受章。その他の著書に『とめどなく囁く』『日没』など多数。

高野秀行(たかの ひでゆき)

1966年生まれ。早稲田大学卒。 1989年、同大探検部における活動を記した『幻獣ムベンべを追え』でデビュー。 2006年『ワセダ三畳青春記』で酒飲み書店員大賞を受賞。 13年『謎の独立国家ソマリランド』で講談社ノンフィクション賞、14年同作で梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞する。著書に『イスラム飲酒紀行』『恋するソマリア』『謎のアジア納豆』『辺境メシ』など多数。

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