Monpou(1893~1987)

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   モンポウの父親はカタルーニャ人の鐘造り職人で、母親はフランス人だった。おばからピアノの手解きを受ける。15歳のとき初めてピアノの公開演奏を行い、1909年にはガブリエル・フォーレが開いた演奏会に接したことから、作曲家になることを決心する。

 

 

 Suburbis(1917)



 Cançons i danses


No. 1 (1918~1926) 


No.5(1942) 


No.6(1942) 


 No.9(1948)  


No.10(1953)  


 No.11(1961) 


 

 地元バルセロナのリセウ音楽院でピアノを学んだ後、1911年にエンリケ・グラナドスのフォーレ宛の紹介状を携えてパリに行き、パリ音楽院への留学を志すも断念。結局その地でイシドール・フィリップやフェルディナン・モット=ラクロワにピアノを師事する。同年、クロード・ドビュッシーやエリック・サティに強烈に影響された最初のピアノ曲集の第1部を書き上げる。極端に内気な性格だったため、演奏家として立つことを断念し、代わりに作曲に身を捧げることにした。1914年に第一次世界大戦を避けてバルセロナに戻り、最初の重要なピアノ曲集
《内なる印象(Impresiones intimas)》や
《子供の情景(Escenas de niños)》を書き上げる。



 Impresiones intimas



 Paisajes

La fuente y la campana(1942) 



  El lage(1947) 



 1921年(もしくは1920年)に再びパリを訪れる。1924年にケーキ屋を開くが間もなく倒産する。1937年まで神経衰弱のため何も作曲しなかった。また1937年には兄弟の一人が結核に倒れ、父親も同じ病で他界した。



  Preludes

 No. 1(1927~1928) 


No.4(1927~1928) 


No.5(1930)




    1941年にナチス軍によるパリ占領を避けてバルセロナに帰郷。同年、国際コンクールの会場でピアニストのカルメン・ブラーボと知り合う。長年にわたって友情を培った末の1957年に二人は結婚した。この頃から創作活動の第2期に入った。

 Pessebres: I. Dansa(1914~1917) 



 Placide(1959)