北欧の作曲家

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  Grieg(1843~1907)

 

  スウェーデン統治下のノルウェーで生まれたグリーグは、1858年、ヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。

  1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任した。またこの年に『抒情小曲集』の第1集を出版した。

 

 

Lyric Pieces(1867~1901)より

 



Op.47



Op.54


 





 グリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒だったらしい。演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうである。なお、この蛙の置物と子豚のぬいぐるみはグリーグの家(現在のエドヴァルド・グリーグ博物館)に展示されている。



 Op.40 組曲「ホルベアの時代より」:




 Jean Sibelius (1865~1957)


 シベリウスは1885年の高校卒業後、ヘルシンキ大学に進学し法学を学び始めるが、音楽への興味の方が圧倒的に大きかったため、すぐさまヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)に転入して1885年から1889年まで同校で学ぶ。

 


Ten Bagatelles, Op. 34 



 続いてベルリンへ赴き(1889年-1890年)、さらにウィーンへ移って(1890年-1891年)研鑽を積んだ。
  生活のため、シベリウスは1892年から音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭を執るが、これによって作曲のために割ける時間が足りなくなってしまう。状況が大きく好転したのは1898年に多額の年次助成金が交付されるようになってからで、当初は10年間の有期であった助成期間は後に生涯の交付へと延長された。
 


 1900年にはイタリアへ行って1年を家族とともに過ごした。スカンジナビアの国々、イギリス、フランス、ドイツで活発に作曲し、指揮をし、社交生活を送り、後にはアメリカ合衆国へも足を運んでいる。
 





 1907年頃からのヘルシンキ時代に暴飲暴食に耽るようになり、途方もない金額をシャンパンとロブスターに費やした。
  同年、喉の癌の疑いにより大きな手術を受け、1908年のはじめは病院で過ごさねばならなくなった。
 



 1957年9月20日の夜、91歳で生涯を閉じたシベリウスは国葬で葬られた。