Brahms(1833-1897)

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  ブラームスは1833年5月7日にハンブルクで生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、市民劇場のコントラバス奏者だった。


 


 7歳の時からオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学ぶようになったブラームスは、10歳の時に初めてステージに立った。この時彼の演奏を聴いたアメリカの興行師がアメリカ演奏旅行を提案した。両親は賛成したが、コッセルはこれに反対し、より高度な音楽教育が受けられるように、コッセルの師である作曲家でピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事させた。


 

 

20代にして作曲家として言わんとしたことのかなりの部分を言ってしまっている感がある。

 

 


 in F#minor

 

in D Major

 


 

 弦楽四重奏曲第一番へ短調

 『2つのラプソディ』作品79 は、ヨハネス・ブラームスが1879年に作曲したピアノ独奏曲。『2つの狂詩曲』と表記される場合もある。
これは非常に優れた作品で、単一楽器、比較的短い楽曲ながら、ブラームスの魅力を余すところなく示している。https://youtu.be/VzrMaXRB1Qc
 

後年になってブラームスが語った話によると、家の表札には「Brahmst(ブラームスト)」と書かれていたという。しかし子供の頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていた彼は、最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった。そのせいで父に届いた親方献呈合格証は「ブラームス」と書かれたものになった。彼曰く、「親父がtを取るように、少しずつ慣れさせたんだよ」このブラームスの話が冗談なのか実話なのかは不明だが、実際に「Brahmst」と書かれた1849年4月14日の「音楽の夕べ」のプログラムが残っている。
Symphony No.1(1876)

 

 

 

 

ブラームスの生家は貧しかったため、13歳のころからレストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えた。




 ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であり、後に作曲に専念すると決意してからはほとんど演奏活動からは手を引く。

 
マルクスゼンに師事し始めたころからブラームスは作曲を始めたものの、この時期の作品は厳しい自己批判のため破棄され現存しない。
1853年にハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニと演奏旅行に行き、彼からジプシー音楽を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。
2人はフランツ・リストに会いにヴァイマールにも行ったが、リストとはそれほどうまくいかなかった。
 

ブラームスは友人たちにロベルト・シューマンに会うことを強く勧められ、1853年9月30日にデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねた。
この出会いは両者にとって幸福なものだった。シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、『新しい道』と題する評論を『新音楽時報』に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、ブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスもまたシューマンを強く尊敬し、シューマンの没後もその敬意は変わらなかった。またこの時、ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララと知り合い、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。しかしこのころすでにシューマンは精神疾患に悩まされており、1854年2月には投身自殺未遂を起こしてボン近郊の療養施設に収容された。ブラームスはこれを聞くとデュッセルドルフに駆けつけ、シューマン家の家政を手伝い一家を助けた。こうしたなかでブラームスとクララの距離は近づき、1855年ごろのクララへの手紙の中では彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと推測される時期もあった。しかしブラームスはシューマンも強く尊敬しており、1856年にシューマンが死去したのちも彼女と結婚することはなかった。とはいえシューマン一家とは生涯にわたり親交を続けた。