ひろさちやだ!――『底無き意志の系譜 ショーペンハウアーと意志の否定の思想』 板橋 勇仁

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うえしん
    

 ショーペンハウアーは二十代のころから処世術に親しんできた哲学者であったが、メインの思想はなにを語っているかよくわからないところがあった。厭世哲学やニヒリズムという説明によって、それ以上読むものはないなとまで思っていた。

 この本を読んではじめて、この哲学者がいまの私が追究している神秘思想のど真ん中の問題を追究していた哲学者であることを知った。まるで仏教である。東洋宗教の影響をうけたことは知っていたが、ここまでストライクゾーンとは思わなかった。

 ただしショーペンハウアーはその追究の仕方を、神秘家のようなその本人にしかわからない主観の言葉で語るのではなくて、あくまでも客観的な論証的な哲学的方法で語るべきだというのである。だから返って複雑な論理や言葉に隠れて、その主張をつかみがたくなっている印象がある。

 この世界に根拠や意味を求めることはできない、この世界は根拠なき無というしかない、その最後に残るのは根拠なき「意志」であるとショーペンハウアーはいう。これをニーチェ風にいうと、「なんのために生きているのか」と人生の意味を問うことはナンセンスだということになる。

 なんの根拠も意味もないなら、その「意志」すらも見いだせないはずだ、ニーチェの「力の意志」すらもいえないのではないかと反論されるのだが、言語で根拠や意味を求める衝動は、われわれには抜きがたく備わっているというしかない。

 ショーペンハウアーはその前に踏みとどまって、人生や世界に根拠や意味がないなら人生は無価値だというニヒリズムに落ちこむのではなく、その無を血肉化することによって、ぎゃくに世界の肯定――「自由」や「平安」を手に入れるのだという。これは仏教の方法を哲学的に語ったものにほかならないのだが、言語を捨てるという方法を知らない西洋人は、救いがたい言語創造の衝動にとらわれて、この意味をつかむことはできないのである。

 われわれだって、言葉で説明できることを求めて、悩みつづけるのだが、ショーペンハウアーのように言葉の探究なんて無意味だという宣言に出会うことはないのである。仏教なんてその言葉で悩みつづける前に、言葉を捨てて仏にゆだねることを求められるもので、言語の信念にとらわれた者には、反発しか感じられないのである。私たちはこのエポックに落ちるというほかない。

 この本ではショーペンハウアーに似た思想として、ニーチェ、西田幾多郎、シェリング、ベーメが探られてゆくのだが、ベーメなんて神秘思想家だし、シェリングも「一者」を追究した宗教寄りの哲学者であるし、西田幾多郎は禅の哲学化をおこなった者である。ショーペンハウアーの位置づけはかなり宗教寄りなのだが、あまり宗教だと聞くことはない。哲学者の内奥に、宗教や神秘思想と出会うことになるのである。

 ヘーゲルはインドの宗教は、神の崇拝の果てに自己の生命を失うまでに自己滅却がおこなわれば意味がないと否定するのだが、自己の滅却はどの宗教でもおこなわれていて、キリスト教だってそうだ。外物に頼るのがいけないのであって、否定されるべきは言葉での世界観や自我であろう。

 この本を読んでいるとショーペンハウアーのいっていることは、「こういうふうに勘違いされるが、ほんとうはこっちだ」という錯綜した迷宮を語られて、わからなくなってくるのだが、こうった哲学書は、一般の人にはなおさら声が届かないだろう。人生に意味や価値がないから、ぎゃくに安らかで、心穏やかになるといっているのだが、複雑な哲学書の声は一般の人には届かない。

 むずかしく語っているが、わかりやすくいえば、これは仏教学者の「ひろさちや」に近いのではないかと思った。ひろさちやは、がんばることやマジメに生きること、勤勉に生きることなど、良いものと思われている考え方、価値観の破壊をさかんにおこなった。私たちは人生で良いもの、優れたものを求めるゆえに苦しむ。そんなものはクソくらえだといわれれば、心が安らかになる。ショーペンハウアーはむずかしくいっているが、この価値観の転落を謳っているのである。仏教なのである。

 哲学者は宗教を信じない無神論者や科学主義者だと思われがちだが、かれらは文字通り神は信じていなかったかもしれない。ただ方法としては宗教の方法を用いていたといえるかもしれない。ショーペンハウアーは仏教だといえるし、シェリングは汎神論者だ。でもかれらの宗教というのは神を崇拝したり、実在を論証するのではなくて、言葉で描くものの破壊を通って、神といわれてきたものの「無」に近づく。

 ショーペンハウアーは根拠や意味という言葉の内側の腹から食い破って、「物自体」や「一者」あるいは、「生成消滅」の直の世界にふれようとするのである。言葉の世界を捨てるのである。われわれがそこに住んでいながら、それをまるごと忘れる言葉の世界の壊滅や消失をめざすのである。言葉の世界が消失したところを、古来「神」と呼んできたのではないだろうか。そして一般の人には、宗教者のめざすところが、こんなところとは思ってもみないのである。

 シェリングは、絶対的主体を把握する方法をこのようにいう。

「古来より言われるように、「それを手に入れようと意志する者はそれを失うであろうし、それを放棄する者はそれを見出すであろう」。すなわち、「ひとたび一切を捨てた者」ひいては「自ら自身が一切のものから見捨てられたことのあった者」のみが、無にして一切である主体の運動を認識してきたのである」



 これは神を認識する方法だが、ショーペンハウアーは根拠や意味からこの世界を投げ捨てて、いわば仏教の方法で、これに近づいたのである。シェリングがキリスト教なら、ショーペンハウアーは仏教の方法で近づいたといえるのである。世界は同じようなものを、各々違った言葉でそれに近づいたのである。それを「自由」や「平安」、あるいは「涅槃」という。



▼ショーペンハウアーは仏教とインド哲学にどれほど影響を受けたか
 『ニヒリズムと無―ショーペンハウアー/ニーチェとインド思想の間文化的解明』 橋本 智津子




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Posted byうえしん

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