ストラットというのは、スクリュー・シャフトを固定するための支持棒と鉄板です。
船の下に潜り込んで、シャフトにぶらさがったり、上に押し上げたりしている、ひげもじゃの、なんだかでかい、怪しいふたり。
「ガメ、これ、動くじゃん」と述べている。
どれどれ。
げっ、ほんとうに動いてる。
もしかして、これはやばいかなああ、と考えて思い切って後甲板を、引っぺがして船底を露出させてみると、鋼板というよりは、錆び錆びの藻屑のようなものが付いていて、チョーびびりました。
よく沈まなかったな、これ。
考えて見ると、このクラシック・ボート、1915年製なんだけど、歴代の持ち主が、どこを直したのか経歴が判らないままで、自分でも内部側から船底を見たことがない。
底に穴が開いている乗り物とは、妙に縁があって、20歳になるまで愛車にしていたディフェンダーは、助手席の床に、クリケットのボールふたつ分くらいの穴が開いていた。
1940年製だかで、一説によれば、ロンメルのアフリカ軍団が仕掛けた地雷で開いた穴だというが、ディフェンダー好きは、なぜか作り話が好きなので、まあ、冗談でしょう。
割と珍しい飛行機なので、こちらは名前を書かないが、クラブで預かってもらっている飛行機は、1930年代の、高名な軍事評論家岡本駄作先生風に言えば、駄っ作機だが、これも操縦席の下に穴が開いていて、空にあがると寒い。
穴の位置が股の前なので、おしっこをしたいときにちょうどいいとか、チン〇ンが冷えて滋養強壮にいいとか、諸説あるが、最近は上品をもって尊しとなしているので、これ以上の描写は避けたいとおもいます。
クルマやヒコーキなら、床に穴が開いていても、地面や地紋が直截みえて便利なくらいで、どうということはないが、船底は、やべっす。
沈没してしまうからね。
虫の知らせか、鯨さんのお知らせなのか、どうも、この船を出す度に微妙な気持ちになるので、まだ早いが、思い切ってhaul out (←陸上に船を揚げてしまうことです)してよかった。
ストラットは崩壊寸前。
以前の持ち主達は、ずぼらなのか、船をよく知らないのか、魚探や深度の測定に使うサウンダーが、なんでか3個も付けっぱなしで、そのうちのひとつが、ボロボロになっていて、
いまにもポコンと海底に向かって落ちてゆくところでした。
サウンダー一個分の穴があれば、あれ?あれ?あれれれ?と言っているうちにボートが沈むには十分である。
このあいだ50キロ離れたKawau島に出かけたときに、妙に船底に水が溜まって、ビルジパンプが忙しく動いているとおもったが、強風で後ろから船底に波が入るのだろう、という、わし独自理論は誤っていて、第一、落ち着いて考えてみれば、スクリューシャフトのまわりから水が入ってくるわけはないので、つまりあれは、ストラットが崩壊しかけていて、そのゆるんだ錆び錆び鋼板の隙間から水が入ってきていたのでした。
はっはっは。
ハウラキガルフのサメの餌になるところだった。
そこのきみ、なにを喜んでいるのか。
(閑話休題)
日本のみなさん、お元気でしょうか。
わしは、相変わらず元気です。
ここのところ、周期上の問題で、やや運気が落ちていて、前述のごとく船底の穴から浸水してボートが沈没寸前であるのに気が付かなかったり、あるいは、これもオンボロクラシックカーで、ブレーキが利かなくなってハンドブレーキで必死に止めたり、なんか、もう死にそう、とおもっているが、なかなか死なないのが取り柄で、あるいは欠点で、不思議にも生きている。
ときどき、日本のことを考えます。
もう十数年行っていないので、どんな国になっているか判らないが、日本語インターネットを見ていると、そんなに変わっていないようでもある。
世界第三位の経済大国なのに、自国の通貨を安くなるように誘導したりしていて、アメリカ人たちは
「日本人は世界に対して責任を感じないのか」と怒ったりしているが、
日本の人たちのほうは世界に対して責任を持つようなクッサい役は、あんたの役でしょう、とすましている。
最近で、いちばん、ぐわああああ、だったのは汚染水を「処理水だもんね。文句あっか」と述べて太平洋に積極的にぶちまけはじめたことだったが、まさか、ほんとうにやるとは思わなかったが、これについては、あんまり日本語で書いても仕方がないようです。
ぶっくらこいたのは、日本の人が、ひとり、またひとりと起ち上がって、
「汚染水を海に捨てるな」
と書いたサインをもって、通りに立ち始めたことで、日本の人が、そんなことをするとは思わなかった。
そこには、おおきな希望がある。
たったひとりで、立っている。
日本のデモは言わば「アジア型」で、組織者がいて、一個の全体主義的な運動で、怒りが集合させた個人主義者の烏合の衆をもってよしとする西欧型のデモとは異なっている。
SNSでも書いたが、日本のようなタイプの政府が最も怖いのは、組織されたデモなどではなくて、たったひとりで抗議する人が、ひとり、ふたり、と増えて、段々と数を増してくることです。
全共闘に対しては「おい、怪我をさせるなよ。あれらも結局は、我々の仲間なのだからな」と後藤田正晴は述べたというが、つまりは、そういうことで、SEALDsでも、「日本的な了解」のなかにあったが、個人が、サインを掲げて立つ、という行為は、政府の、なんていうんだろう、
理解を越えている。
日本政府の統治は、個人主義者が存在することを前提としていないからです。
枠組みは民主制で、実体は天然全体主義で、みんなで同じ気持ちで、やってきた国だからね。
ところが、京都の辻で、東京で、冷たい風が吹くクライストチャーチの日本領事館の前で、
サインを持った人が立っている。
よっぽどバカなら「反日日本人」と分類すればよくて、それで安心できるが、
今回は、どうも、そううまくいかないようです。
なにが異なるのかというと、ひとりで街角に立って抗議する人は、自分を納得させるために立っているからです。
やらなければ絶対に後悔するから立っている。
自分という最高の友だちに見放されないために、立っている。
いま抗議しなければ、きっと自分を軽蔑することになるから、通りに立って、サインを掲げている。
国民が臆病な全体主義国民であることを前提に運営している日本政府にとって、これほど、嫌で、
なんだか得体が知れなくて、怖いことはないもののようでした。
彼らが、なけなしの勇気を振り絞って
手描きの「汚染水を流さないで」というサインを持って
立っていると
「なにもかも知っている」 おっちゃんがやってきて
「あれは処理水だ もっと勉強しろ」と軽蔑の表情で述べている
たまらない気持ちになって
俯いて
なんだか身体が痺れたような気持ちになって
立ち尽くしている
なにかが支えてくれないと
もう 立っていられそうもないんだけど
泣きたいのに
涙がでない
叫びだしたいのに
声が出ない
あなたは
俯いているから
気が付かないけれど
視界に入らないけれど
でも 唇を噛みしめて下を向いている
あなたのすぐ傍らに
一緒に泣いている人がいる
茶色のローブを着て
すっぽり被ったフードで顔が見えないけど
第一、あなたには自分のすぐ隣に立っている
その人が見えてさえいないようだけど
遠くから眺めているぼくには
その人が見えている
もうダメかもしれない
もう
なにもかも手遅れかも知れないと思いながら
あなたは 今日も あの交叉点に立ちに行くんだね
日本の人たちと、一緒に泣いている人がいる
腰を縄で縛っただけの粗末なローブを着て
深くかぶったフードで顔が見えないけど
その人のことを考える
その人を畏れよ
外圧なんて、起こりはしない。
「左」の人たちは、書斎に腰掛けて、西欧語を日本語に翻訳するだけである。
毎日、立って、抗議しても、きっと世の中は、日本は、変わったりしない。
それでも、已むにやまれない気持ちで、通りに立っている。
それはね。
その已むにやまれない気持ちはね。
自由社会の始まりなんです。
きみの孤独は、時間のなかで未来の人につながっている。
日本がやっと「戦後民主主義」を「卒業」して、
普遍性のある自由社会へ向かいはじめている。
なぜ石を投げないのか、
と、わしは昔、書いたことがある。
わし自身が抗議するときには、常に暴力的だったからです。
政治の本質は、多くの人が述べているように暴力で、
「奴は敵だ 奴を殺せ」
が、政治の虚飾を剥がしてしまったあとのナマの理屈なのでしょう。
若者わしは、あんまり考えもなしに、石を投げて、ヘルメットの上から、ぶん殴って、脳震盪を起こさせることを「デモ」だと考えていた。
ひとり抗議は、暴力わしよりも、いいな、とおもう。
笑ってはいけません。
そうか、無力であることによってこそ訴えられることがあるのだな、とおもう
日本語人に教えられているのね。
自由について。
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ありがとう
また読みにきます。何度でも
泣いちゃった
Hi, ガメさん!お元気ですか?
最近は人生の方が大変でTwitter(今はXと言うんだっけ?)を開くことが少なくなってたけど、この記事は読めて良かった。
核廃棄水への個人プロテストは、とても勇気づけられる。僕もメッセージボードを作ってみたよ。まだ通りには立てていないけど。
> 無力であることによってこそ訴えられることがある
そうだね。
「無力だけれど」じゃなく、「無力であるがゆえ」に限りない力を生む。そういうものがあるね。
> その人を畏れよ
僕は、ただ力無く殺されるために地上に来た人のことを思い出す。苦しむ人の隣に座って、何も出来ずに哀しげに俯いて、それでもただ共にいた人。
lowly and meek, yet all powerful
日本人は「目に見えるものにしか意味なんてないのさ」と嘯き続けることで、その「目に見えるもの」すら全て無くしてしまうところまでやって来た。
だけど本当に意味あるものは、目には見えない。本当に偉大な力は弱く小さく見える。
小さな、無力な、たった一人のプロテストは、だからきっと驚くような力がある。思いもかけないような道筋を通って、日本人の未来を救うかもしれない。
僕もせっかく作ったボードだから、お披露目に行かなきゃなと思ってます。子供たちのために、自分自身のために。
記事をありがとう。暑さに気をつけて!